見出し画像

通信 R031207 「酔い」

 

 20連勤より酒がきらいだ。


 正しく言うと、「誰かと飲む酒」がきらいだった。頭が痛くなる、眠くなる。そのことで誰かに迷惑をかけたくない。酒自体の味は好きなのにも関わらず、身体が酒を拒否してしまう。

 大好きな梅酒やワイン、日本酒を少量しか飲まない、という我慢大会が飲み会のたびに私の頭の中で開催のコングを鳴らす。

 相手を包んでいる空気が酒によってまろやかになり、その空気が少しずつ広がり全体を含んだ瞬間、わたしはその中でぶくぶくと溺れそうになる。「ノンアルコールですけどちゃんと楽しいですよ!」と書いた紙を笑顔として顔に貼り付けながら、自分の中にあるアルデヒド脱水素酵素2の弱さをいつも恨んでいた。



✳︎



 飯、行こう。



 えっ、



 今年の12月上旬、ある先輩に声をかけられたわたしは渾身の「えっ」を繰り出したことと思う。

 なぜなら、その先輩とは去年の4月、私がこの職場に転勤して来た時の歓迎会の二次会でひたすら太宰治の話で盛り上がって以降1年半近く、職場での会話が特段なかったからだ。

 歓迎会の夜も確か——相手が酔っているのを良いことに、オススメの本、貸してくださいよ。などと調子の良いことを言ったはず。次の日、きっと覚えていないだろうという私の予想を裏切り、置いてあったのはニーチェの『善悪の彼岸』。それ以降、朝出勤すると机の上にぶっきらぼうな字で「どうぞ」というメモの切れ端とともに本が置かれていることが度々あった。

 本の貸し借りだけをするという、不思議な間のある関係。仏教、哲学入門、陸上、みうらじゅん、サン=テグジュペリ。先輩の読んでいる本は、私が手を伸ばさないところにある本ばかりで、いつも新たな発見があった。私はその本たちをしかと受け取り、毎回生真面目に読み、都度、読書感想文をそっと返していた。

 だからこそ、生身の先輩の唇から発せられたその「飯いこう」というメッセージは、その先輩から借りた幾多の難解な本よりも簡単なはずなのに、その1年半の沈黙はわたしの理解を数秒遅らせた。

 先輩の本の好みは知っているのに、先輩のこと自体はなにも知らない。だからこそ私は一つの恐れを抱きながらも、その言葉に頷いたのだ。



✳︎

 


 俺らはデカダンだと思うんだよ。



 居酒屋につくやいなや、2人揃って煙草をふかす。この先輩と私の唯一の共通点は、太宰治に傾倒した経験があることだった。太宰の作品を読んだ経験は私たちの共通語となり、話題は尽きない。

 先輩はビールを何杯も飲みながら、「事実」と「認識」の話をよく繰り返した。物事の全ては事実であり、そこに意味を加えることが認識だと。先輩の言葉の節々には「あなたならこの言葉の意味が通じるよね。」という挑戦状が秘められていたと思う。文学者でもあり、哲学者でもあるこの先輩の選語が私はすごく好きだった。そして、その言語を理解できる自分のこともその一瞬だけは少し好きになれた。

 よく、酒が似合うひとだった。「お酒」じゃなくて「酒」。この、「お」という美化語、——正しくは丁寧語の接頭辞を——、付与しているものとしていないものとの微妙なニュアンスの差異をうんうんわかるよと頷ける。

 そんな先輩だった。

 

 

 一杯くらい、飲むでしょ。



 ——とうとう来たか。

 「飯行こう」がその結果になることは、流石に分かっていた。先輩にとってはなんの気無しの言葉だったのだと思う。ごくりと喉を鳴らした私は、今までの人生の中で犯した酒に関する失敗のことを思い返す。頭の中で「迷惑をかける」「先輩に」「ひどい頭痛」が矢継ぎ早に鳴り続ける。

 その時、ふと、ある詩を思い出した。頭で鳴り続けたコングが急に、しいん、と鳴り止む。いつかこの先輩に貸そうと思っていたあの本の中にある詩の一節。そうだ、確かあの本には——



 梅酒で...



 気がつくと、そう答えていた。

 


 ✳︎



 あれよあれよと勧められた梅酒を飲みながら、饒舌になっていく。日本酒も飲もう、おでんも頼もう、と酔いは進んでいく。飲めもしないくせに、私はおでんの出汁割りが大好きだった。不思議と頭が痛くはならない、眠くもならなかった。

 おでんのでびしゃびしゃになった皿に、日本酒をとろっと注ぐ。おでんの汁の濁りが少し和らぐ。居酒屋のオレンジ色の照明をその上に添えて、溢さないように、溢さないように、皿をささえてぐいと飲む。そんな飲み方をするのはあなたと相撲取りだけだよ、とカラカラ笑う先輩の目の皺の深さを見つめた。視界は少しぼんやりとしている。



✳︎


 

 俺、もしかしたら来年、転勤で居ないかもしれない。もしそうなったら——、



 俺のこの年度の思い出は、あなたと飲んで話をしたな、ということで締めくくりそうだな。



✳︎



 居酒屋を出て、タクシーに乗った。耳鳴りのする寒さが私を目覚めさせようとする。タクシー代を払おうとする私を制し、また飲みましょう。と笑った先輩の目尻にできた皺の深さが、さっきよりもより濃く見えたのは、暗闇の中だったからなのか、酔いが覚めてしまったからなのかわからなかった。

 部屋に入ると、ストーブを付けっぱなしで出てきたことに気がつく。寒暖差。耳がじいんと熱くなり、周りの音が遠くなっている。これは——あのまろっとした空気の中だ。じぶんがその中で息をしていること——まだ酔っていることが嬉しい。部屋の中、目を閉じながらなんだか可笑しくて、ふふと笑ってしまった。

 そして、寂しくなった。



✳︎



 ——そうだ、この先輩がもし、本当に転勤してしまうことがわかったら、きっとこの本をプレゼントしよう。



✳︎



 于武陵「勧酒」

 勧 君 金 屈 卮 (君に勧む 金屈卮)

 満 酌 不 須 辞 (満酌 辞するを須ず)

 花 発 多 風 雨 (花発けば 風雨多し)

 人 生 足 別 離 (人生 別離足る)

 

 井伏鱒二「勧酒」 訳

 コノサカズキヲ受ケテクレ

 ドウゾナミナミツガシテオクレ

 ハナニアラシノタトエモアルゾ

 「サヨナラ」ダケガジンセイダ



 井伏鱒二『厄除け詩集』より



 酔いを教えてくれたあなたへ

 水漏綾

 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?