見出し画像

この感受性で生きていく(瞑想チャレンジ9日目)

瞑想9日目。

「今まで、こんなに静かに身体の内側を
感じたことがなかったかもなあ」
と思うのと同時に

「この身体で、生きているんだなあ」

という、
文字にするととても陳腐な、
当たり前でしょう、
というような認識を改めて感じてます。

わたしの独自の
視覚でモノや人や景色を見て、
聴覚で音を感じて、

匂いを感じ、
肌で触れ、
口にするものを味わっている。

この肉体を通して外界を感じている、
つまりは
わたし独自の心身を通して世界を観ているのだなあ。


なんて、

しみじみとこの肉体や感覚器のありがたみを感じ、

せっかくのこの感受体を
もっと大事に尊重して扱いたいなあ、
という感覚が芽生えています。



というのも。

現在進行形のある出来事が
この感受体を抑圧していたことを思い出させてくれたから。



いま、実母が闘病中で
とある装具を使うことになったのですが

それが、

母にはなかなか難しくて
うまく使いこなせないんですよ。


落ち込み、かなしみ、
自分のことを「情けない」と嘆き責める母。

それをそばで見ている身内のわたしは
厄介なことに、
心情に共鳴してしまう…!!!

(ちなみに対クライアントさんでは
そこで悩んだことはない。
身内だからこその、この異様ともいえる共鳴度…)


つらかろうなあ、と
文字通り胸が痛んで
ふとたびたび母の落ち込む様子を想像してしまう。

そして自分の心もうっかり下降気味になる。

それが結構、しんどいんです。
心が、どんよりと沈んでいく~~~~!


そのしんどさを感じていたら

昔の母娘関係と同じだなあ、と
思い出したんです。

父の病気で母が苦しみ、
それをそばで見ていた自分。

やはり同じように「つらかろう」と
感じていたんだと思うんですが

なにせ子どもの、感受性の強いお年頃。

つらさに共鳴しすぎてしんどい、ということが
上手く把握できるわけがなく

「父のせいでわたしはしんどい(怒)」
「しんどい、イヤだ、感じるのやめよ」

という抑圧を起こし
とにかくそのしんどさから逃れるために
感受性を封印したようなところがあったんですよね。

今回、
母のつらさに共鳴したことで
そのあたりの気持ちを思い出し、

「そりゃあ、あの頃はこういう辛さから逃れるために
そうするしか方法なかったよなあ」と
あの頃の健気で無知な自分を
気の毒に感じました。


だって、
いい大人の今だって
このつらさをケアしなかったら
防衛のためにカンタンに怒りや逃避に変わるな、と
感じたから。


それだけ、
わたしは共鳴しやすい性質をもってるということ。


でもその性質は、

もう防衛のために
封印しなくてもいい。

こうして瞑想のやり方学んで
感じている自分を外から見たり
(他人であれば)共鳴度を下げたり転換するような方法を
身に着けたりして

そのよい面を活かしつつ
つき合えることがわかっているし
なにより、
そういう肉体もってるのが「わたし」なんだ。

そんな受容とゆるしの気持ちになれたんですよね。

せっかく持ってうまれた感覚機能なんだから
否定しないで使ったほうが
自分を、この命を
大切に生きている感じがするじゃないか。

厄介な時もあるけど
この感受性だからこそ
ステキなことや
封印しないで済む知恵も
たくさん手に入れているのも事実だし。

瞑想で内側を感じて感動することも
そのひとつかもしれないし。


そんなことを感じている
瞑想9日目です。

そして、面白いことに。


この受容の体験と同時に
「母の装具うまくいかない問題」が
約10日ぶりくらいに
スルっと、解決しました。
(ついさっきそれを知った)

もしかしたら
母の側でも
なにかしらの内側の変化があったのかもしれないし
それも「わたしの世界」の出来事なのかもしれない。


この世は、未知すぎて面白いですね。


【心を耕す一歩 その25歩目】

自分のもってる感受性を受容する。

いただいたサポートは、わたし自身の心身や知識を満ち満ちに満たすことに使わせていただき、クライアントさんや読者さんに還元します!