みんな「影の袋」を引きずって生きている
ジョーン・ボリセンコさんの
『自己変容の炎』を10年ぶりくらいに読み返しました。
当時、印象に残っていたのが
「影の袋」という表現。
「影」はユングのいうシャドウ、
つまり自分の中の、
受け入れていない一部分。
悲しみや怒り、喜び、
ほんとうはこうしたかったのに、という欲求など
自分の存在の「全体」にとって欠かせない部分なのに
縁を切ってしまったもの。
それらを放り込んだ部分を
詩人のロバート・ブライは
「うしろに引きずっている長い袋」と表現していて
と、ボリセンコさんが紹介していたんです。
当時、この表現がすっと心に響きましてね。
そうなんだよ、
創造性を失っちゃうんだよ、
だから全体性を取りもどすことをサポートしたいんだ、
そのための癒しなんだよ!!
と強く思ったのを思い出しました。
承認されたい人間って、たいてい身近な親とか先生や友人。
周りの
「承認されたい人」
「承認されたいグループ」
「承認されたい世間」から
よくない、
正しくない、
ダサい、
イタい、
アヤシい、
お金がかかる、
そんなことで生きていけない、
なんて
言動や空気で申し渡されて
本当は好きなもの、
本当は思っていたことなどを
長い袋に放り込んでしまった経験は
多くの人があると思うんです。
「袋になにも詰め込まずに生きてきました」
と言い切れる人はあんまりいない気がする。
わたしもいっぱい詰め込んで生きてきた自覚があります。
それで生きるエネルギー失ってたし。
それがその環境で上手に生きる手段だったとしても
袋にいれたものは自分の一部。
そこを切り離したままにしていては
やっぱり本来の自分の創造性、
自分の人生を創るエネルギーは
一部欠けたままになってしまうんですよね。
しかも、
欠けたままなのももったいないけど
袋の中身(影)を見ないまま、
それを取りもどさないままでいると
その中身をゆがんだ形で他人に投影して
(影の「ガス抜き」をして)
人の人生に口出ししたくなったり、
羨ましいあまりに攻撃してしまったり、
ジャッジしたり批判したり、
マウントをとることで一時的に欠けを取りもどした気分になったり、
してしまうこともあるかもしれない。
そんな自分を自覚できたら
自分の袋を見ようという気にもなれるけど
ガス抜きって、一瞬気持ちがいいから。
その気持ちよさに惑わされて
自分の袋を見ずに終わる人生もあるかもしれない。
どの生き方を選んでもいいけど
自分の袋にむきあいさえすれば
自分本来のエネルギーを取りもどせるし
それに夢中になっていたら
人に投影してネガティブな思いを抱かなくてもよくなるなら
わたしはそっちのほうが愉しい人生だと思うんですよね。
ジョーン・ボリセンコさんは
精神神経免疫学の先駆者で、
心理学者でもあって
細胞生物学者でもある方。
多方面の文献やエピソードをからめて
ひとつの学問の枠にとらわれず
魂の癒しについて書かれているのが好きなところです。
ひとつのものの観方だけでは、
人の心や魂や身体や、
その周辺のことはわからないですもんね。
過去生療法のことを
「現代のシャーマン的魂救済法」と
表現しているのも興味深かった。
このあたりのことは、また書きたいと思ってます。
【心を耕す一歩 その38歩目】
「影の袋」の中身をみてみる。
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