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本当と本質はどこに宿る②


“さて前述した休暇の過ごし方に話をもどすのだが、googleに聞いてしまっている時点で、「僕は本当にやりたいことをできるのだろうか?」という疑問にたどり着いてしまった。 そもそも「やりたいこと」などなかったのではないのだろうか? 週5日以上、心身削りながら社会に貢献し、それ以外の時間を「豊かにするため」「人生を幸福に過ごすため」に生きていたのではないのだろうか? 余暇の過ごし方を、他者や大衆に聞き、カタログから選択していることは、自由意志ではなく、売られている商品を選択しているだけではないのだろうか?? iphoneという一強しか選択肢がない携帯電話しかり、余暇の選択肢も「流行っている」もののなかから選択するしかないのだろうか??

本当と本質はどこに宿る①

さて、自分のやりたいことは【自分で考えることができないもの】なのだろうか。
自分の欲求は【webやカタログの中にしか存在していない】のだろうか。
そうだとしたら、【生産者が意図した売りたいもの】を消費させられているだけではないだろうか。
僕たちは自由に選択しているように見えて、美徳も価値観もある程度狭められた世界(生産された世界)の中からしか得ることができないのではないだろうか?と思えてくる。

さてまず僕が欲しかったものは、余暇で【消費するもの】であるということを前提としていきたい。

昨今のSNSに従属している人類は、一般的かつ大衆的になった「承認欲求」という名の社会的評価を得るために消費させられている。
・吸い込まれそうな星空を見上げる写真。
・広大な湖に浮かぶボートが凪いでいる写真。
・水平線に沈みゆく夕陽の刹那的な写真。
・昭和レトロな喫茶店の空間を切り取った空間写真。
・色鮮やかな街並みを映し出す異国の写真。
他者からバズることが目的となり、「承認されること」から派生する「多大な喜びを得ること」が、一般的な価値観となり絶望的な欲求に紐づいているからに他ならない。
そこには他者との同調性が付随する。本来あるべく「自分が欲しかったもの」は関係ない。
社会的評価という新しい欲求が、自律性を包み隠しPRと資本力に偏った生産物のみで組み立てられていく。

ということは、消費とは社会的評価という”価値”であるとも言えるのではないだろうか。
僕たち消費者は、生産者が上手にPRして生み出された価値に、選択せざるを得ないものに、呼び寄せられていく。それはもれなく承認欲求を得やすいものでもある。

iphone(applle)ならこんなこんなことができる!

15に至るまで変革しシリーズ化された価値観は、とどまることなく僕たちに選択を与えてくれる。
これがあなたのやりたかったことです。
これがみんなの欲しかったものです。
これが価値観です。
これが美徳です。
これが社会的に評価される方法です。
これが人間社会です。

このような書き方をすると、なんと絶望的な世の中なんだと思えてくる。
価値基準で大衆化された生産者主導現代。

いや、違うのだろう。
僕の欲しいものは、他者の想いなど関係なく、自分が望むものの中にのみ存在するのではないのだろうか。
そこに社会的評価は必要ないはずではないだろうか。

ならばその情報はどこにあるのか。
新しい情報(生産物)が、このような仕組みで作られているのであれば、僕たちが得ることのできる欲しかったものはどこにあるのだろうか。

つづく

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