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aaploit の2023年

2023年も終わりを迎えようとしている。aaploit は12月の展覧会で通算16回の展覧会を実施した。2023年に限定すると11回の展覧会を実施したことになる。ほぼ毎月展覧会を実施していたことになる。
aaploitはオープンから1年半経った。年が変わる節目のタイミングできちんと記録と反省をしておかなければいけないと思った。

2022年6月にオープンしたギャラリー、手探りの状態だったけれど16回も展示を経験すると知識と実践のレベルが上がってくる。展覧会で何を見せたいのか、もちろんアーティストも考えているが、ギャラリーとしても考える。アーティストとの打ち合わせは体力・精神力ともに消耗するが、何よりも充実感がある。失敗したと思うこともあるが、失敗から学ぶということは通常よりも何倍もの学びがある。システム開発、プログラミングの世界では、アンチパターンとして、これをやったら失敗するということが共有されている。アンチパターンはデザインパターンと共に用いられる。

2019年に現代アートの大学院に進学した。いろいろと学んだ。その大学院の学びは次のnoteに綴ってきた。

社会人修士として、アート・コレクターとして、現代アートに関わっていたが物足りなさも感じていた。コマーシャルギャラリーとして関わるのはどうか?思いつきの勢いもあってアートギャラリーをオープンすることになった。ギャラリーオープンの顛末は、また別の機会にまとめたいと思う。

2023年1月は石丸圭汰の「free hand」を開催した。この展覧会はゼミ仲間であり、友人でもある中澤賢さんが主催する名古屋の現代写真ギャラリーFLOWで展示した展覧会のアップデート巡回展として開催した。

2022年に開催したFlowの展覧会

石丸圭汰は佐賀を拠点とし、解体予定のビルでアート・スペース、ツー・バウンスを主催している。自身の発表だけでなく、学生や地元のアーティストの発表の場として運営している。

佐賀の所縁は、今後とも大切にしていきたい。

2月は西本春佳の「ただ集まって、春を待つ」を開催した。西本はゼミの同級生、彼女の作品は大学院の学びの中で、何度か見ていた。

西本春佳の展覧会はギャラリーにこたつを持ち込んだパフォーマンス作品。
こたつにあたりながら、お茶を飲んでお菓子を食べておしゃべりをする。

展示風景, ただ集まって春を待つ, 西本春佳

この展覧会は埼玉、京都で展示された。aaploitでの展示は3回目だった。
ギャラリーの入口はガラス戸であり、ギャラリーの中で何が展示されているのか全てわかる。ギャラリーの扉を開けて中に入るか否かという点が、アートを見るという洗礼のように考えている。

何を見せられているのか?何を見せたいのか?この点は常に考えている。ただ、作品を並べるだけの展覧会はやりたくない。とはいえ西本春佳の展覧会は緊張感があった。

展覧会のオファーをしてから展覧会までは期間が短かった。以前に展示した展覧会の再演だとしても、aaploit で展示するにあたってのアップデートが必要である。西本が考えることと、コマーシャル・ギャラリーとして見せること。その対話をアーティストと重ねた。ゼミで同級生だったことは、プラスにもマイナスにもなったが、作品についてアーティストとギャラリーとが対話を重ねていくことを学んだ。

どこにアートがあるのか?その問いが常につきまとう展示、修士で研究していた初期のコンセプチュアル・アートに投げかけられた批判、そこからのアップデートはどこにあるのか?

3週間の展示期間の中で、鑑賞者との対話、アーティストも交えた対話、そうしたことを通じて、展覧会、作品として強化されていく姿が見えた。

展覧会について西本春佳が話をしているポッドキャスト、企画の話とコレクションされた話をアーティストが語っている。

西本は2023年の秋にスリランカに活動拠点を移した。スリランカからの日々を発信している。来年、斉藤はスリランカに行く理由ができた。

4月は大石いずみの「emergence」を開催した。この展覧会はFLOWから連続する展覧会として、aaploit の初めての絵画展となった。

この展覧会からギャラリーでアートライティングのワークショップをスタートした。

アートライティングのワークショップは対話型鑑賞会を行い、そこでの気づきを持ち帰り、批評としてのテキストを提出してもらう。提出してもらったテキストについて勉強会を実施し、ギャラリーのnoteで公開していく。2023年は8回実施した。今では参加者を広くオープンにしており、大学院ゼミ外部からの参加もある。

作品を鑑賞し、テキストを書くというのは簡単なようで難しい。ただの感想文にならないようにアートライティングの技術が求められる。例えば作品を見て”悲しい”と感じたならば、なぜ悲しいと感じたのか、作品のどこから悲しさが伝わってきたのか、作品から得られる事実とそこからの因果関係を明らかにして文章とすること。

aaploit で実施するアートライティング実践ドリルは、大学院ゼミの自主学習会としてスタートした。実践に勝る学習なし。アートライティング実践ドリルを重ねる度に参加者のテキストのクオリティが上がった。

対話型鑑賞会(飲み会aaploit)とアートライティング実践ドリルはFacebookの公開グループで情報交換している。

6月からは全国の卒業制作展を見て回った中で関係性を築いてきたアーティストの展覧会が始まる。

最初の展覧会は、なんやゆうきの「流転の澱」だった。

なんやゆうきは名古屋芸術大学で油画を学んだ。
卒業制作で、なんやは広いスペースに多数の作品を提示していたが、それぞれの作品がちぐはぐな感じがあり、それでいて真に迫る迫力のようなものがあった。少し混乱し、なぜ、このように表現に幅があるのかを問いかけた。

全て同じであるが、全てが違うという。

対話を重ねるうちに、生き方が不器用な、なんやの多様性に対する問いかけであると解釈した。

展覧会名の「流転の澱」は、同名の作品の《流転の澱》からとった。

流転の澱, なんやゆうき

《流転の澱》はクラフト紙、地域のコミュニティ誌を包んでいた紙の裏側に描かれており、画面に見える折り目は、その痕跡を表している。笑顔の顔だけの人、その顔と対面する顔の無い背中、そして笑顔の上にある横になった顔。澱とは赤ワインを長期熟成した際にボトルに溜まる粒のようなもの、あるいは痕跡として残る色、流転するとは生生流転、生きて死んでという無常を表す。人が生まれて死んで、同じ形ではないが流れて繰り返していく。それが澱のように痕跡を残していく。

なんや作品に対する衝撃は、やはり《流転の澱》にあった。

展覧会までに打ち合わせを重ね、様々な議論、対話があったが、ドローイング、木版画、ペインティングなどの多彩な作品を展示する展覧会になった。
なんやの次回展は2024年の秋頃を予定している。ドローイングを中心とした展覧会になるだろう。

7月1日と2日の二日間のみの展示だったが、植松美月の「野村美術賞受賞特別展」を開催した。初めての立体作品の展示となった。

植松美月の作品は東京藝術大学の博士展で見た。東京藝大の陳列館で展示されていた紙を使った彫刻、いろいろとあったため在廊していた植松と二つ三つだけ言葉を交わした。

展示風景, 東京藝術大学 陳列館, 植松美月

博士展を一緒に見て回った北桂樹さんと二人、植松作品について語った。野村美術賞受賞の展覧会の鑑賞中も後も延々と話をする。この作品は何かということを話す。植松の作品について、見せている世界について。ここまで語れるならば展覧会をやらねばならない。

植松は何度かギャラリーにも来てくれた。博士展から続く作品展示について意見交換をしていた。作品についても様々なことを教えてもらっていた。陳列館を埋め尽くすほどの彫刻は aaploit では展示できない。植松の作品は彫刻だが、様々な形へと変化する。

aaploit の特別展では野村賞で展示した新作を提示した。

わきたつ, 植松美月

植松は世界の見え方を我が物とするために反復をしている。ハサミで紙を切る行為は世界を実感する行為だという。繰り返される反復、インクの浸透、二つの時間の感覚。植松の見せる世界を突き詰めていき、2024年3月の展示に臨みたい。

植松はテラスモール湘南が主催するアワードでグランプリを獲得した。

7月は前田梨那の「tide land」を開催した。

前田のアトリエへ訪問し、ギャラリーでも打ち合わせを重ねていく。前田の作品を初めて見たのはNACCの展示だった。

写真展は伊藤雅浩、桑迫伽奈、前田梨那と3回目となった。

当初は前田の作品シリーズの多さに戸惑ったが、別の視点から見ると、これだけの作品シリーズを制作できる写真を使ったアーティストは珍しいことに気が付く。

銀座野村ビルでも展示していたランタンは、昼と夜で違った表情を見せた。

展示風景, tide land, 前田梨那

8月に展示したのは春名真歩の「まっすぐ歩く」
大型作品で aaploit の壁を埋め尽くす。ギャラリーに届いた作品の梱包を見て、一通りの展示を経験してきたと考えていた小さな自信は打ち砕かれた。

アーティストの指示に従い、一番大きな作品を日干しする。

東北芸術工科大学の東京選抜展で見た時も、作品の多さと大きさを認識していたものの、想定以上の大きさだった。
まだアート・コレクターだった時にギャラリーで見た作品が自宅に届いて飾った際に、思っていたよりも大きかった。そうしたことを再体験してしまった。

春名真歩は純粋に絵画に向き合いたいと言う。「絵画の山の中から絵がでてきた」そうした作品を目指している。ストイックに絵に向き合う。その姿は野武士のようであると感じた。見た目は小柄な美大を卒業したばかりの女性であり、作品と作家のギャップに驚いたのは、私だけではなかった。
ギャラリーの床に撒いたドローイングは、これまで描き溜めていたもの、恐らく高校生の頃からのドローイングではないだろうか。もっと前かもしれない。

展示風景, まっすぐ歩く, 春名真歩

春名真歩展にあたっては、絵画史と具体美術協会をおさらいした。こうして展示を重ねていくことで学びと成長の機会をもらえている。

そして、春名真歩の展覧会ではファンもできた。ギャラリーに何度か来てくれていた鑑賞者の一人が春名の作品を大変に気に入り、会期中に何度も見に来てくれた。こうしたコレクターがアーティストだけでなく、ギャラリーを育ててくれる。2024年の秋に春名真歩の次回展を計画している。

9月の展覧会は道又蒼彩の「own pace」を実施した。
道又はanonymous collectionで優秀賞を獲得した。ギャラリーとしても応募から審査までサポートしていたので嬉しいサプライズだった。ただし、6月からの展覧会の企画、搬入、運営、作品発送と並行して実施していたので、正直しんどかったけれども、こうした時にこそギャラリーのオペレーションの効率化ができる。これは本業の情報システム構築のコンサルティング経験が大いに役に立った。

いよいよ道又展の開催となった9月、武蔵美まで作品を迎えに行き、そのまま搬入を行う。"カフカの階段"と"own pace"の2つのシリーズの展示、いずれも油性木版画の作品シリーズ。道又作品は画面の見た目以上にコンテキストを持ち、展示空間へと繋がり、それは鑑賞者自身へと接続するものである。画面の奥行きと同様に、何重にも解釈を巡らすことになる。

この展覧会と並行して、anonymous art projectのanonymous bldg.で展示する作品制作が進行していた。

道又は夏休みを返上し、大型の木版画を制作、あわせて aaploit の展示にあわせて新作を提示してくれた。感謝してもしきれない。

そんな中でカフカの階段の提唱者、生田武志氏からコンタクトがあり、メディア掲載につながる。アーティストによってギャラリーが育てられる経験だった。

2024年の春に道又作品をご覧いただけるように準備を進めている。

9月は韓国・ソウルへも出かけた。国際的なアートフェアを体験するということと、ソウルのギャラリーとの提携交渉のためだった。2024年の初めには第一弾の発表ができるように準備している。

10月は秋野イントロの「attachment」を開催した。
秋野は電話機にペイントをする作品を制作している。ダイヤルを取り外しているのは、こちらからの連絡手段は無いが、知らない誰かからのコミュニケーションは受けることができる。ただし、受話器をとるかとらないか、最後の選択が委ねられるという。そうしたコンセプトで作られた作品、それならば実際に電話線を繋いでみる。展覧会期間中に、実際の電話番号を付加して電話を受けられる仕組みとなった。秋野はNFTでも作品を発表している。

NFT の秋ということで、11月はitokawa enの「t○ken」を開催した。

itokawa は素性を明らかにしていない。イラストレーターとしても活動をしているし、フィリピンやイギリスでも活動の実績がある。

itokawa の魅力は、周囲の人達が応援したくなるという点だろうか。展覧会期間中、ファンの来廊が絶えることがなかった。会期中にデザフェスが開催されていることも関係していたかもしれない。
ファンとのエンゲージメントとしてグッズ販売を行った。何らかの形を持ち帰ってもらう。コマーシャルギャラリーらしからぬグッズコーナーの出現に訝しむ人もあったが、これは新たな価値の作り方を試行したかったためである。そもそも aaploit は、現代アートの価値生成とはどのようなものなのかを探求するためのスペースとしての役割も持っている。
現時点では価値の在処は、鑑賞性、批評性、マーケット性のトライアングルと捉えており、このトライアングルを平均的に広げていくことが価値生成において重要ではないかと仮説を置いてモデル化している。ところがitokawaが実践したNFTコミュニティによる価値生成は、このモデルとは違った所にあるのではないかと考えた。実際に itokawa は、ソーシャルメディアでコミュニティを広く、深く築いてきており、バイラルにコミュニティが広がっている。だからこそ、見に来てくれた人と一緒に展覧会の体験を築いていくことが必要だと考えた。

「t○ken」で見せたかったことは、もうひとつある。現代アートの様式化という点に危機感を持つようになっていた。aaploit の展示が「現代アートらしい展示」という言葉を聞いて愕然としたことがあり、確かにエッジ、若手、オルタナティブな展示を指向しているが、自分自身、現代アートぽいものという意識があったように思う。

趣味と様式については、修士時代に向き合ってきた。ニコラ・ブリオーがピエール・ユイグに宛てた手紙からの考察、次のように書いていた。

ユイグが作る作品は、プラットフォームを構成しているとでも言うのだろうか。様式を反復する芸術家とは明らかに違いがある。

現代アートという様式に捉われているのでは無いか?
itokawa の展覧会は、そうした様式の反復からの脱却も試行してみた。この展覧会後については、様々な展開が起こりそうな気配がある。

itokawa の作品については、別にテキストとしてまとめる。時期は未定だけれども 次の itokawa 展では違った形を披露したい。

イラストあるいはキャラクター、この領域も修士論文に含んでいた。

思えば、なんや、前田、道又、秋野の展覧会は、アイデンティティの問題を問いかけるものだった。itokawaの展覧会にもその片鱗は見えるが、itokawa展はコミュニティそのものを見せたかった。会期中はDiscordとZoomを使ってオンライン在廊を行った。

展覧会とは何か?今後も aaploit は継続して探求していく。

2023年の最後の展示は松下みどりの「彼此方の」だった。
松下は京都芸術大学の修士課程で日本画および日本画の素材を研究している。松下が見せる日本画は、画面だけにとどまらない。素材と向き合い、素材に語らせるように作品を作り上げる。例えば膠は接着剤であるが、松下は膠そのものを見せた。

展示風景, 松下みどり
名, 松下みどり

和歌を参照し、日本画の伝統的な技と素材に向き合う。松下のアトリエのある大原が、日本の風土をより一層意識させていることだろう。
新しい日本画の表現を探究する。アーティストとして活動していくということを考えると相当な回り道をしていると思う。だからこそ aaploit は二人三脚で応援していきたいし、見せていきたい。

コマーシャルギャラリーの運営をすること。当初想定していたよりも大変だけれども、やりがいも充実感もある。ホワイトキューブは空っぽでなくてはならないが、すぐさま充填されなくてはならない。もちろん充填するのは作品であるが、その隙間にギャラリーとしての仕事があるだろう。これが展覧会の役割ではないだろうか。個人的なよかった点だが、ギャラリストとしてアーティストと共に展覧会に関わることで、桟敷でアーティストが見せる世界を見ることができる。これ以上の喜びはない。

実践に勝る学びはない。痛感した2023年だった。2024年は海外ギャラリーとの提携の話が具現化していく。その他にもいろいろとチャレンジしていきたいし、そうした案件が動きはじめている。

今後とも aaploit の取り扱いアーティストと aaploit の活動にご期待頂きたい。

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