[恋愛小説]1978年の恋人たち...14/初台のアトリエ
美愛と優樹は、鎌倉の材木座海岸に来ていた。
まだ春先で、天気は良かったが、海風は冷たかった。
今朝も南台の桃花荘前に、美愛の赤のシビックが停まると、大家のおばあちゃんが出てきて、美愛と何か話している。最近では、顔見知りになり、親しげである。
久しぶりのドライブで、相変わらず、優樹は助手席である。一昨年の湘南海岸から比べたら、美愛の運転も大分上達した。安心して乗って居られる。
カースレオからは、イーグルスのホテルカリフォルニアが流れている。美愛はユーミンや日本の歌手が好きだったが、最近は優樹の影響かウエストコーストも聴くようになった。
優樹「イーグルスは湘南や鎌倉に会うね。」
美愛「風は冷たくて、気持ちが良いわ。」
運転する美愛の横顔には、昨年末からの優樹の入院騒ぎの憔悴から、漸く元の明るさが戻ってきた。やはり、健康は大切である。自分が病気になると、美愛にまで、影響が及ぶことを痛いほど知った。
今日は、美愛が優樹の快気祝いのつもりなのか、鎌倉八幡宮にお参りしたいと言う。その前に、材木座海岸で休憩している。ふたり、遠くの水平線を見ている。
優樹「事故や病気でいつも、美愛には迷惑掛けてすまない。」
美愛「ゆーちゃん、急にどうしたの。事故も病気も好き好んでしてる訳じゃないんだから、気にしないで。」
優樹「…。」
優樹「教授が、3月から初台のアトリエでバイトしないかと言ってくれたんだ。」
美愛「アトリエ?」
優樹「小さな設計事務所だよ。」
美愛「良いじゃない。どうせ遊んでいるんだし。」
優樹「まー、桃花荘から近いし。9時、5時だっていうし。」
美愛「9時、5時?当たり前じゃない。」
優樹「いや、設計事務所って、夜遅くまで仕事するんだよ、銀行とは違うよ。」
美愛「銀行だって、残業するときはあります!月末なんか、忙しいし、合わないと、合うまで計算するし。」
優樹「へー、そうなんだ。」
美愛「残業もするんなら、お給料も良いの?」
優樹「設計事務所って、零細で、給料も安いし、残業代もでないし、後々自分で独立できるメリットしか無いって、先輩から聞いたことがあるけど。」
美愛「じゃー、ゆーちゃんも将来自分の事務所で社長ね。」
優樹「そんなに簡単じゃないよ。駄目そうなら、何処かの会社に入るよ。」
美愛「駄目よ、最初から諦めちゃ。」
最近では、美愛の方が、優樹を指導しているような場面が増えてきた。
旗色が悪くなった優樹は、「じゃー、そろそろ八幡宮さんへ行こうか。隣の近代美術館も寄って良いかな。坂倉準三ていう有名な建築家が設計したんだ。」と美愛を促した。
優樹が、退院まもなく上野の手伝いをしていたのを、指導教授の村田藤吾が知り、優樹に事務所でリハビリを兼ねてアルバイトしないかと、言ってきた。教授のアトリエのレベルは高いことで知られており、来いと言われることも滅多にないので、研究室の他のメンバーから羨ましがれた。
教授のアトリエは、スタッフも2名しか居なかった。出社した日は、ちょうど八王子校舎に教授が設計した大学図書館の竣工式を翌日にひかえて、そのオープニングの準備に、同行させられた。
アトリエのレベルは高かった。それまでの腰掛けのバイトは違い、実務レベルの下書きや、雑務を担当した。3ヶ月もすると、簡単な図面も描いたが、やはりプロのレベルは違うことを痛感した。
そのままアトリエで働くことも出来たかもしれないが、事務所の仕事量を知るにつけ、卒業設計の準備があるという理由で、10月に辞めた。
それが1980年10月の事だった。
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