障がい者になる心構え<第二回>
朝活@富山で2023年6月10日に発表した内容を文字起こししました。今回はその第二回です。
第一回は、導入として私の障がいについて話しましたが、今回は障がい者が一般にどのようなイメージをもたれ、障がい者が苦しむ結果になっているのかについて述べた上で、社会がもたらしている二次的な障がいを減らす方法を提案しています。
第一回はこちらです。
なお「この内容を動画でみたかったな」という方は、次のURLか、次のところまでお問い合わせくだされば見れるはずです。2023年9月30日まで動画視聴できるようです。
https://toyama.hp.peraichi.com/0610
もし繋がらなかったら、朝活ネットワーク富山 永吉隼人 090-6819-7204
asakatsu.toyama@gmail.com まで。
7. 障がい者のイメージ
ばーっと障がい者って、どういうイメージかっていうと。
障がい者っていうと、車椅子に乗っている人だよね、とか、白杖の人だよね、普通と違う歩き方してるよね、表情が乏しくて「あー」「うー」言っている人だよね、とか、そういうイメージがあるかと思います。それ以外には、依存的だよね、とか、能力が低いよね、強みがないよね、その反対で、障がい者っていい人だよみんな、とか、努力家ですよ、とか、そういうイメージがあるとは思うんですが、(#5)
--- Footnote(脚注) ---
#5 映画などで描かれるのはたいてい ①同情・憐憫の対象=「かわいそうな人」か ②困難を克服した超越する存在の象徴か のどちらか と言われます。私たちはふだん、メディアを通してメディアが描く決まりきった障がい者のイメージと出会い、そういった印象をもったまま生活しているのがふつうです。
というか、私がそうでした。※3
※3 参考資料:好井裕明『差別の現在 ヘイトスピーチのある日常から考える』平凡社新書、2015
8. 障がい者を見かけたとき(見える障がいの場合)
じゃあそういう障がい者を見かけたとき、どうすんのか。
街で杖をついた人がいる。ああ障がい者だ。とりあえず、「かわいそうだな」「気の毒だな」という同情の対象になりますよね。可哀想だなと思って援助する。という人もいれば、それに加えて、「あの人さあ、前はものすごく不良で、無免許運転してそれで事故にあったんだって。」【後日注:ということを聞かされれば】「いやそんなん、自業自得だよ」「だいたい素行不良だったからだよね」とか、あるいは、これ【後日注:=無免許運転で事故】とは違いますけど、「不摂生だったからこうなったんだ」【後日注:「だから自業自得だ」】と非難の対象になってしまうと、やっぱり援助しないでおこう、それどころか「お前、こんな奴に援助してどうするんだ、と、援助している人を責めるようになってしまう。(※4)
【後日注:自業自得な人には支援すべきでないと思うかもしれませんが、】このように、どうしてその障がいをもつようになったのか、によって対応が変わってしまうことがあります。これって昔と同じじゃないか、と思うんですよ。
そうはいってもですね、万引をしてしまう人というのは、素行不良ですけども、窃盗症とかクレプトマニアとか言われてますけど、その人もやめたいと思っているのにやめられなくて、意思の力ではやめられない依存症の人もいますよね。じゃあその人はいつまでも悪なのか、【後日注:支援すべきでないのか、】というと、そうじゃないだろ、ということにもなります。
それが見える障がいでもある。
※4 参考資料:北村英哉・唐沢穣『偏見や差別はなぜ起こる? 心理メカニズムの解明と現象の分析』ちとせプレス、2018
9. 見える障がい/見えない障がい
じゃあ見える障がい/見えない障がいだったらどうなのか。
見える障がいに対する傾向として、障がい者として扱われます。私も見える障がいなので、わりと障がい者として扱われることが多いですね。すると、同情されるんですよ、「大丈夫ですか」みたいな。「やってあげるから」と、できることでもしてくれる。ここまではいいんですけど、できるのに、自分でやってみようと思うのに「できないからいいですよ」と決めつけてくる。ひどくなると、危ないものを隠してしまう、子ども扱いされる、こともあります。こういうことになってくると、何となく「差別されているのかなー」という感覚になってきます。
見えない障がいに対してはそうなんですけど、厄介なのは見えない障がいの方なんですね。
見えない障がいに対しては、健常者、一般の人として扱われる。障がい者じゃなくて。そうすると、できないことが際立つんですね、障がい者だから。で、なぜできないのかと責められてしまう。責められると、「いや障がいなんだけどな」「なんとか見えない障がいをわかってほしいな」と思うんですけどもなかなか言えない。あるいは言っても、「でもねー」【後日注:「障がいのせいだけじゃないんじゃないの。もっと注意しようよ。」】みたいな感じでわかってもらえないと(#6)、追い込まれたり、劣等感を植え付けられたりしてしまう。そういうことがありますよね。
まあそのような見えない障がいにも理解してほしいんですけども、
--- Footnote ---
#6 私自身、脳障害のひとつ注意欠如障害になっていて、運転検査に何度も不合格となりましたが、自分では十分に注意しているはずなのに見落としていることが多くありました。注意しても十分ではないのは、不安だし恐怖です。
これは発達障害のひとつADHDの方でも似たことが起こるようです。※5
※5 参考資料:岩瀬利郎『発達障害の人が見ている世界』アスコム、2022
10. 障がいとは?
じゃあそういういろいろある障がいってそもそも何なんだ、ということなんですけれども。
まあ、辞書的な話でいうと、障がいっていうのは「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」。よくわからないですね。
じゃあとりあえず病気と比較すると、「心や体に不調または不都合が生じた状態」のこと(#7)。
うーん【後日注:障がいには】社会的障壁というのはあるけど、どう違うのかよくわからない、というのはありますね。病気と障がいっていうのは。
とりあえず障がいっていうのは大きく三種類と言われています。身体障害と知的障害と精神障害。
だけど、先天か後天かとか、治るか治らないか、見えるか見えないか、というのは、この三つの分類からはわからないですよね。
とりあえず、治るのが病気、治らないのが障がい、と思っていると、それは違います、ということはあります。じゃあ障がいとか病気ってどう違うの、ということなんですけど、
--- Footnote ---
#7 「病気」とはどうやら、およそ内臓疾患のことを「病気」と言っているようです。
<Column>
Webや上市町福祉課「障害理解促進パンフレット」などを参考にすると、障がい三種類とは次のようになっているようです。
・身体障害・・・身体の機能の一部が不自由な状態
・知的障害・・・知的機能のおくれによって適応行動が困難な状態(明確な定義はない)
・精神障害・・・精神疾患により支障をきたしている状態
いずれにせよあまり明確ではありません。
第一回で述べた通り、高次脳機能障害は2001年に新たに作られた日本独自の障がいですが、ではこの新しい障がいはどれにあたるのか、身体障害なのか知的障害か精神障害か、どの障がいも新たな障がいを組み入れることに難色を示したため、けっきょく精神障害に落ち着いたようです(個人的にはちょっと違うような気がしているのですが・・・)。
それを聞くと、障がい三種類なんてやめてしまえばいいのに、とも思うのですが、長年の行政上これで組み上がっているので何とも簡単にはできないようです。
11. 障がいの分類
「障がいの分類」として、病気とか障がいとか、ばっとバラバラに挙げてみました。知的障害とか発達障害とか、高次脳機能障害とか内部障害とか、風邪とか骨折とか、認知症とかもありますね。
これをとりあえず病気と障がいに分けてみると、
こうなります。病気はこんな感じで、障がいはこんな感じだと。
これに先天か後天かを分けると、
こうなります。先天性というのは生まれつきもっているというものですね。後天性はいわゆる中途障がいっていいますが、それはこのようなものがある。まあだいたいこんなふうに分けられると思います。
で、治るか、治らないかって話もありますね。治るか治らないかを書いてみると、
こうなります。精神障害は、まあ難しいんですけど、とりあえずは治るんじゃないの、と言われているので、ここでは「治る」にしています。病気の中でも、だいたい治るんじゃないの、というのはこのようなものがあります。(#8)
また「治らない」といっても、今は【後日注:医学の進歩により】治るようになってきたかもしれないですけど、【後日注:とはいえ】まあだいたいは【後日注:完全回復までにはなかなか至らないので】「治らない」に入りますね。
また「治らない」といっても、今は進行が抑えられることがあるんですよね。いわゆるがんとかね、前はもう死刑宣告みたいな感じで、「がんになったらさよならしかない」ように思われていましたけど、今はけっこう、糖尿病と同じで「付き合っていく病気」になっているようですね。
けっこう進行は抑えられるようになっていることが多いってことがあります。
で、それに対して、さらに見えるのか見えないのかを加えると
こうなる。黄色で囲ったのが見える障がい、それ以外が見えない障がい。
いろいろなんですよね。障がい者って【後日注:依存的とかいい人とか努力家とか】いろいろ言うけど、【後日注:実際はどういう障がいを持っているかによって】いろいろなんだな、ということがわかると思います。
それに複合障害ももちろんありますし、見えない障がいをわかってもらうのはたいへんなんですよ、というのもあります。
そういう障がいの分類にはいろいろあるんですけどね、
--- footnote ---
#8 先天性の障がいも(ざっくりながら)「治らない」とする位置づけとしました。
12. いつかはあなたも障がい者
でもいつかはあなたも障がい者かもしれない、ということで。
医療の進歩で長生きができるようになりました。それはいいんですけど、障がいをもって生きなくてはいけない期間が増えてしまう、かもしれない。障がい者になる可能性があるんじゃないかな、と言えますよね。
<Column>
障害者白書によると、国内の障がい者の人数は身体障害/知的障害/精神障害合わせて963万人(重複含む)、国民のおよそ7.6%が何らかの障害を有していることになります。うち身体障害は45.3%/知的障害11.2%/精神障害43.5%になっていて、中でも身体障害の増加が顕著です。
パワーポイントに示したグラフにあるように、65歳以上の身体障害者は、1970年(昭和45年)の44.2万人から2016年(平成28年)の311.2万人に増えています。精神障害者も同様で、65歳以上で2002年(平成14年)の60.9万人から2017年(平成29年)の144.7万人に増えています。
一方で64歳以下の身体障害者は1987年(昭和62年)の143.9万人から2016年(平成28年)108.1万人と減ってはいます。
「障がい者はあまり見ないから施設などにいるんじゃないの」と思うかもしれません。ですが、先に示した国内障がい者数963万人のうち施設入所者は49.5万人と、5.1%に過ぎず、ほとんどが施設外で生活しています。※6
※6 参考資料:厚生労働省『令和3年版障害者白書』
13. 社会が障がい者をつくっている
昔はですね、「障がいっていうのは因果応報によって起こるに違いない」と言われていた。江戸時代とかですね。
その時代には本人とか家族とかが責められたりあるいは追い出されたり、というのがあって、いやあ今はそんな時代じゃなくなってよかったねえ、いやあ今の方がよかったねえ、と思うんですけど、思うんですけど、今【後日注:でも】「なぜその障がいをもつようになったのか」によって対応が変わるのは、さっき出てきましたよね、けっこう昔と同じじゃないのか、と思いますよね。
また、もしメガネをかけていても、障がい者とは思われないですよね。メガネをかけてて、あ障がい者だ、と思う人はいないですよね。
それをいいますと、障がい者の「できない」ことを社会が受け入れられれば、障がい者とは思われない、ということになります。
もう一回言いますと、社会がですね、障がい者の「できない」ことを受け入れられていないから、障がいのある人が障がい者になっている、と言えるんですね。社会が障がい者をつくっているんじゃないか、といえると思います。
<Column>
現在の日本の障がい者行政では、障がいというのは「個人の身体に存在するもの(個人モデル)」ではなく、「社会との間に存在するもの(社会モデル)」と位置づけているそうです。
例えば、足の動かない状態にある人が移動困難者になるのは「足が動かない」という身体状況で移動困難になるのではなく、街なかに段差がたくさんあるとか、乗りやすい福祉タクシーがあまりないとかといった状況が、その人を移動困難者にしていると捉えるようになっています。
逆に言うと、仮に足が動かない人であったとしても、段差がなかったり福祉タクシーが容易に利用できたりすれば、移動障がいを被らないかもしれない、と言えます。※7
※7 ラジオPodcast「荻上チキSession」2023.6.20放送より
14. 周囲が障がいを生む
そういう社会なんだなあ、【後日注:社会が悪いんだ、悪い社会だなあ、】と思うんですけど、そこに生きている障がい者は一般に、「健常者とは同じようにはできない」ことはわかっているので、それをなんとか隠そうとするんですね。そのために、社会への参加をためらう。
例えば私は、何とかしゃべりにくいのを克服しようと、今いますけど、言語障害がちょっとあります。しゃべりにくいとコミュニケーションを敬遠するようになりますね。うまくしゃべれないと、同じようにできないから、それを隠すために、恥ずかしいなと思って、コミュニケーションを敬遠する。すると社会との交流とか参加【後日注:とかをする機会】の減少がありますよと。するとよりしゃべらない、よりきかない、それがよりコミュニケーションを敬遠する、となって、もうぐるぐるぐるぐる回ってしまう。
「このままでは社会から取り残されてしまう!」【後日注:という危機感めいた】ことがあって、今回この朝活にも参加させてもらっているんですけども、その社会との交流が減少するってことがあります。
それがひどくなると、いわゆる孤立化・分断化が起こってきます。そういうことになると、分断されることで、外で生活できない、そのコロニーの中でしか生きていけないような「障がい者」にしてしまうんですよ。(#9)
今はこういう形が【後日注:高度成長前に比べて】多くなっているんじゃないかな。ふだん障がい者ってあまり見ないよね、というのは、分断されているからそうなる。ということになるんですね。
だけどですね、裏返せば、周囲の人の対応次第で、二次的な障がいを生まないことができる、っていうのがポイントなんですよ。私がしゃべりにくいとか聞き取りにくいとかあったら、「しゃべりにくいよね」「聞き取りにくいよね」とふつうに受け入れてもらえば、【後日注:気にせず話ができれば】社会に多く出ていけることがあるかもしれない。それが、周囲の人次第で、二次的な障がいを生まないことができるんだよ、ということがあります。
--- footnote ---
#9 孤立化・分断化が進むと、乱暴な言葉を吐いたり、適応障害や鬱病になったり、場合によっては自殺に至るケースもあるようです。
適応障害とは、自分が置かれている環境に適応できず、ストレスにより心身に影響が出て、生活に支障が出ている状態のことです。
15. 外在化
「そんなことねえ、簡単に言うけど、そんなん【後日注:どうすればいいのかわからんし、】難しいわ。」と思うと思います。だけど、それに対するヒント【後日注:となる考え方】として、ここで示しますけど、それを「外在化」といいます。
「なんだよ、余計難しいよ」と言われそうですが、そんなに難しくないです。
ふつうは多少違和感があっても、障がい者の言動を肯定的に受け止めます。だけど、障がい者の言動が受け入れづらいものだと、途端に障がい者全体を否定してしまうことがありますよね。障がいによって引き起こされている言動を、その人のキャラクターなどの特性として捉えてしまう、ということが起こります。起こるんですよ。
例えば、想定ですけどわかんないですけど、ふつうはふつうの人と同じようにしているのに、あるとき突然やたら怒り出す人がいるとします。あの人また怒ってるよ、この人は怒りっぽいなあ、と思うことがあると思うんですけど、もしかしたらその人は障がいかもしれない。その障がいを、個人と障がいを切り離して捉える、ということをします。
例えば、わーっと怒っている人がいたら、また障がいのせいなんだねーというふうに思って、やり過ごして、で、落ち着いてから「今回のはまたひどかったねー」と本人と話したら、本人も「ああそうなんですよ」というかもしれない。
いや例ですよ。自分が考えて話しているだけですけど、とりあえず個人と障がいを切り離して捉える、ということを、「外在化」といいます。
このようにですね、障がい者の不適切な言動を「外在化」によるものと捉えることによって、本人も周囲の人も、その言動への関わり方を変えることができます、というのが「外在化」です。
まあこういう形でね、少しでも障がい者を受け入れてもらえればいいなと思うんですけども。
で、だいたい話としては半分くらいかと思いますので、ここで休憩しようと思います。
(参加者)アル中で人が変わるというのも同じですか。
そうですね。人が変わるっていうことは、・・・障がいということが正しいのかどうかはわかんないですけど、とりあえず別の人格をもったということは、それはそれで本人とは切り離して考えて、もちろん暴れているときどうするかは別なんですけど、アル中で困っているんだったらもうちょっと考えた方がいいかもしれないね、というのが、この「外在化」になるんじゃないかなと思います。
<Column>
自分でも何を言っているのか、このページの内容は全部、よくわからなかったと思います。申し訳ないです。
外在化について、本に書かれていたのは次のようなことです。
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11歳になる息子の「おねしょ」に困り果てた親が相談に来ました。その息子はタロウといいます。(中略)母親は「夜寝る前にトイレに行くようにさせているのですが、してしまうのです」と嘆きます。(中略)相談者がタロウに気持ちを聞くと「気がつくと「おねしょ」をしているの。したくてしているわけじゃないんだけど」と小さい声で答えます。
この話に見られることは、親はタロウを「おねしょ」をする困った子と捉えていることです。(中略)つまり「おねしょ」をする子ども自体が悪く、困った子だということです。しかし、タロウの答えのように、タロウは自分から「おねしょ」をしようとして、しているわけではありません。そこで、外在化による働きかけになります。
相談者は、タロウの「おねしょ」に名前をつけました。それは「オネショマン」です。このオネショマンがタロウに「おねしょ」をさせている悪者です。さあこの悪者を家族そろってやっつけましょうとタロウと両親に働きかけます。そして、どうしたらやっつけられるかを、家族全員で考えて、その対応をしました。結果、タロウは「おねしょ」をすることがなくなりました。
この「おねしょ」に名前をつけ「オネショマン」としたのが人格化。つまり疑似的人格に仕立てることです。これによって、タロウも両親も「おねしょ」を客観的に捉えることができるようになったといえます。
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※8
「おねしょ」を例に出すのは、障がいをテーマにしているこの発表では少し離れてしまうかな、精神疾患として「突然怒り出す人」という方が例としてよりよいかな、と思って置き変えたのですが、失敗でした。
参加者にアル中を例に出してもらったのは助け舟だったかと思います。なのに、やはりきちんと答えられずすみませんでした。
例えば、アル中で人が変わってしまったとき、「悪魔がきている。悪魔の好物である酒の量を減らせば、もしかしたら悪魔に対抗できるかもしれない」などと別人格を作り上げ、当人と障がいを切り離すことにより、その上で障がいにどう向き合うかを当人と一緒に考える、というのが「外在化」です。
もちろん万能ではないでしょうが、当事者とともに障がいに向き合う解決策のひとつになるのではと思います。
同様に、外在化によって、障がいによって引き起こされている言動を当人の性格などとして捉えてしまうことを避け、結果的に二次的な障がいを生まないようにすることができるのでは、と思います。
※8 参考資料:石井京子ほか『高次脳機能障害のある方と働くための教科書』日本法令、2020
第三回に続く →
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