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自粛警察を考える -虐殺との類似と再発防止策

今から去ること四年前の2020年、「自粛警察」と呼ばれる行動が日本中を騒がせました。

当時、どこか群衆心理、集団パニックのように感じ、これらの行動を分析する報道を待ち望んでいました。が、四年経っても自粛警察を正面から扱った書籍はどうも見当たりません。たまたま図書館で佐藤直樹著「なぜ、自粛警察は日本だけなのか」を見つけましたが、この本も自粛警察を正面から扱ったものではありませんでした。でもその本を叩き台に、自粛警察について考えてみたいと思います。

経緯

少し、当時を振り返りましょう。

世界中で新型コロナウイルスが拡がりつつある中、いつ日本に到達するだろうと日に日に不安が募り、地元にもいつ感染が起きてもおかしくない、何とか水際で食い止めて欲しいと日本中が切実に願う/望む/祈る中、まずは2020年2月、クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客にコロナへの罹患が発覚、続く4月、京都産業大学学生に集団感染が発覚しました。

「ついに来ちゃったかー、残念だなー、これからどうなるだろう」と思った私は、感染した学生に対し可哀想にと同情の念を抱いていました。ところが世の中の反応は、私とははるかに別の思いが溢れていました。それが「自粛警察」でした。

初めは大学に電話で「感染した学生の住所を教えろ」という問合せが相次いだそうで、担当者が断ると「大学に火をつける」などと言われたこともあったそうです(参照記事)。そのうねりはいつしか日本中に拡がり、コロナ感染者だけでなく、感染者のもとに行った運送業者の家族の児童に対して小学校が自宅待機を要請するなど、(特に平穏になった今日からすると)度を越した対応の数々が日常的に発生していたのです。


当初、自粛警察の報道を聞いた私は「一部の人は極右なことするんだな」と、自分には理解できない(理解しようとも思わない)人の行動と脳内処理していました。ところが連日報道されるにつれ、なぜこのような行動をするんだろうと、これらの行動を分析する報道を待ち望んでいました。でも研究論文や書籍化には2~3年はかかるだろうなとも思っていて、ぐっと我慢して?待ち望んでいました。

そして去年(2023年)5月、新型コロナウイルスが2類から5類に移行し、ようやくコロナ禍から脱しました。今ではマスクをつけている人もだいぶん少なくなりました。

時は来たれり!あの自粛警察とは何だったのか、詳細に分析した書籍がいよいよ多く出回るに違いない!と思っていたのですが、冒頭に書いたように、現状では期待外れに終わっています。

問題提起と方針

長い間不思議に思っていた私にとって、この現状はまるで、「かつて自粛警察ってのがあったよね」「気持ちわからなくもないけど困ったちゃんだったよね」と苦笑いのネタに終始しているかのようです。

それもおかしいのではないかと、私は思っています。自粛警察と自殺との明確な相関データはないものの、新型コロナウイルスが猛威をふるった2020年の自殺者は急激に増加しており(コロナ禍における自殺の動向に関する分析 緊急レポート参照)、自粛警察に追い込まれて自殺や自殺未遂にまで陥れられた人がけっこうな数に上っていたはずです。それを「困ったちゃんだったよね」で切り捨ててよいのでしょうか。


また「あのときはみんなどうかしてたし(集団パニックだったし)仕方ないよ」と、終わったこととして忘れ去るのもどうかと思います。再発を防止すべきと思わないのでしょうか。対策を講じるのには場合によっては時間がかかるかもしれませんが、最低限、対策方針の検討をすべきでしょう。なのに現状は逆に、みんなで笑って忘れようとしているように思えてなりません。


四年前の忌まわしい記憶を記録に留め、もう一度繰り返さないよう、あるいは繰り返したとしても被害をできるだけ最小限にするよう、分析・考察・検討しておくことは絶対に必要だろうと思っています。

そこでこのブログでは、自粛警察をやや狭く定義した上で、プロファイリング即ち実行者の人物像を考察します。そして自粛警察の類似例を検討した後、私なりの再発防止策を提示します。


自粛警察の定義

まず自粛警察を定義しましょう。ここでは、「自粛警察とは、(1)社会全般に望ましいとされる行動をしない者に対して(2)匿名で(3)嫌がらせをする単独犯のこと」とします。


自粛警察についてはもうずいぶん前のことなので忘れている人も多いと思いますので、佐藤直樹著「なぜ、自粛警察は日本だけなのか」から要約します。自粛警察は、政府や有識者などを中心とした人たちがメディアを通して喧伝している、外出や営業などといった自粛要請に対して、応じない個人や店を私的に取り締まる市民のこと でした。私的な取り締まりとは、非難の電話や行政への通報、貼り紙などです。

当時は他に次のような名前でも呼ばれていましたが、これらをひっくるめて自粛警察と言われていました。

・「県外ナンバー狩り」県外ナンバーの車を攻撃する

・「帰省警察」お盆などで帰省した人を罵倒する

・「マスク警察」マスクしていない人を非難する など

これと、先に示した定義とは若干異なるというか、ここでの定義の方がやや狭い意味にしました。おわかりかと思いますが、(1)はともかく「(2)匿名で」や「(3)単独犯」を加えています。その理由は以下です。

「匿名」に限定

コロナウイルス感染が吹き荒れていた当時、電車や街なかなどで、自分以外の人がマスクを着用していないと「この人が感染源かも」と不安になり、「マスク着けろよボケ」と内心憤った人はけっこう多いのではと思います(自分がマスクを着用しているかは別として)。「その憤りが自粛警察の萌芽だ」とすることもできるとはいえ、「殺したいと思っただけでは殺人者にはならない」のと同じで、実行を伴わないのは自粛警察とは言えないのではないか、と考えています。

また実行を伴ったとしても、「職場などでマスク未着用を注意する」という場合もまた、ここでの自粛警察の定義には加えないことにします。なぜなら注意されるとその相手を恨むことができるし、「その人が思っているだけだ」と考えることができるからです。上司に限らず同僚でも部下でも、間接どころか直接でも、面と向かって「マスク着けろよボケ」と不快丸出しで言われていたとしても、さらに知らない人からの指摘も含めて、ここでは自粛警察の範囲には入れないことにします。


当時私自身、「感染者とは関わらないようにしたい」とは思いました。でも「感染者を攻撃したい」とは全く思いませんでした。自粛警察実行者は、感染者及びその周囲の人たちすらも攻撃対象としています。ここでは、誰が自粛警察かわからないという疑心暗鬼を生み出している対象の姿をおぼろげながらでも明らかにしたいため、「匿名」という条件を加えました。

「単独犯」に限定

意気投合した仲間(集団)で自粛警察行動に及ぶこともあるようにも思いますが、私は集団での行動はほとんどゼロではないかと考えています。

例えば貼り紙をしに行ったとき、たまたま同じような貼り紙をする人に出会ったとして、「あなたも貼りに来たのですか。私もです!」と声をかけることはなかったのではないかと考えています。もっとも、匿名であることが保証されている中では人が変わったように雄弁に語るのだろうとは思いますが。

もちろん中には集団で行っていた輩もいるかと思いますが、ここでは「単独犯」に限定しました。


なお書籍では自粛警察行動に「行政への通報」も含めていましたが(それも閉口しますが)、一応直接には攻撃していないという点で、ここでは「嫌がらせ」に留めました。


プロファイリング

このブログでの定義「自粛警察とは、(1)社会全般に望ましいとされる行動をしない者に対して(2)匿名で(3)嫌がらせをする単独犯のこと」に該当する人をプロファイリングしたところ、次の三つの人物像が浮かび上がりました。

A:社会的に責任ある地位にいる人

B:組織の下で不満を抱えている人

C:愉快犯

三者で共通するのは「正義感がある人」です。

具体的に見ていきましょう。

社会的に責任ある地位にいる人

まずA:社会的に責任ある地位にある人は、ふだんから人に(嫌々だとしても)指示しています。言われた通りに動くのではなく、多かれ少なかれ自分で判断して決定して、誰かに指示しなくてはなりません。本人が望んでいる望んでいないに関係なく、権限をもち、それがまかり通る環境に身を置いています。バラバラにうごめく人たちに対して「こうしろ」「それではいけない」と、自分なりの論を言い、従わせる責務を自分に課しています。

その指示を受ける人の中には、嫌な顔をしたり拒否しようとしたりする人もいるでしょう。しかしそれに耳を貸すことはできません。ぐっと我慢して指示通り行うように徹底しようとするでしょう。それがAに該当する人です。


そんなとき、近くで感染者が出た。なんてことだ。いいかげんな生活をしないように従わせる責務が自分にはある。相手は嫌と思うかもしれない、でもそれくらいしないと生活を見直そうとは思わないだろう。いや、嫌と思うくらいの方が効果はあるのではないか。相手のために心を鬼にして、貼り紙を貼りに行こう。

そうやって自粛警察出現、となるケースが考えられます。

組織の中で不満を抱えている人

次にB:組織の中で不満を抱えている人は、ふだん誰かから指示を受けているものの、なぜそうしなくてはいけないのかと疑問に思いながらも、黙ってその指示に従っています。その疑問を尋ねることはできるかもしれませんが、指示者がすごく忙しくてタイミングがなかったり、訊くと怒られたり、あるいは丁寧に答えてくれるけど結果的に「あなたが懸念(=心配)しなくてもよいんだよ」(つまり「考えるな」)となってしまったりと、疑問は解消されないままそれ以上訊くことができなくなって、黙って仕事するしかなくなっています。


そんなとき、近くで感染者が出た。なんてことだ。この感染者のせいで感染源が私の身近にまで来たじゃないか。感染者はきっといいかげんな生活をしていたに違いない。仕事と同じでみんな黙って耐えているのに、許せない。感染者は猛省するべきだ。それを促すべく、貼り紙を貼りに行こう。

そうやって自粛警察を実行するケースが考えられます。


言い方を換えると、Aは上下関係(タテ関係)で生じるケースで、Bは自分と同等の立場(ヨコ関係)の人を自分と同様の行動にすべきと求めるケース とも言えるでしょう。

愉快犯

最後にC:愉快犯はみんながやっているから実行したというケースです。動機も薄く最も短絡的で、罪の意識も一番なく、私に言わせれば最も醜悪のように思います。でも単に「地域にコロナウイルスを持ち込む悪い奴」だから攻撃してよい、と思っているでしょうから、正義感に基づいた行動には違いないでしょう。

しかし、AやBが実行しないと行わないように思います。AやBが実行しているから、じゃあ私もと便乗するのが愉快犯の特徴のように思います。


少し話がそれますが、「割れ窓理論」をご存知でしょうか。「1枚の割られた窓ガラスをそのままにしていると、さらに割られる窓ガラスが増え、いずれ街全体が荒廃してしまう」という理論です。

例としてゴミ箱の例を考えてみましょう。地下鉄サリン事件(1995年)以降、公共の場からゴミ箱がことごとく撤去され、今は少し戻りましたが依然少なく捨てる場所に困ります。でもだからといって何もない場所に捨てるわけにはいきません。そんなとき、誰かがゴミを捨てている場所があると、これは好都合とその場所に捨てるのではないでしょうか。そうやって次々とゴミが増え、瞬く間にその場所がゴミ置き場であったかのようになっていることがあります。

愉快犯は、一つはこの「割れ窓理論」の「じゃあ私も」という心理、もう一つは安易な正義感、に基づいて犯行しているように思います。

怒られるかもしれない、でも捕まることはないだろう。例えて言うなら、学校の先生に「XXするな」と𠮟られ、「見つかっちゃったーてへペロ」といった感覚に似ている気がします。厄介なのは、どこか「構ってちゃん」の面があり、構ってもらうまで(怒られるまで)やり続けるという点です。本人に言わせると「怒られればすぐに止めるつもりだったのに」、怒られないのでやり続けてしまう。上の人(例えば警察)に言われると笑って止めるけど、被害者が犯行に対して怒ると「そんなに怒ることないじゃん」と思うし言ってしまう。被害者にとっては怒り甲斐のない、イライラする相手かもしれません。

でもブームが去ると飽きて止める。そんな軽い気持ちでの犯行が、被害者にとっては自殺に追い込まれるくらいの重圧になっているのです。

「そんな人はティーン(10代)くらいだろ」と思うかもしれませんが、確かに多くがそうでしょうが、いい年した人もストレス発散で実行するように思います。ましてや後輩(自分より若い人)の前では制止に回っても、コロナ禍という単独犯になりやすい状況なら夢中で実行するかもしれません。


去年(2023年)あたりに「私人逮捕系ユーチューバー」が一時話題となりましたが、彼らとC:愉快犯は類似しているように思います。

コロナウイルスによる集団パニックの中では外出先で活動すること自体タブー視されていたので、チャンネル登録数を上げたいという動機のもと承認欲求をも満たそうとするユーチューバーにとっては、外出のタブーを侵す自粛警察行動は多くの人から支持を得られなかったのではと思います。でも外出自粛という障害がなかったら、YouTube上での「感染者狩り」に発展していたかもしれません。

自分の思いや信念ではなく、多くの人が望むことをしているだけだという感覚は、AやBとは異なり、罪の意識が希薄というだけでなく、仮に法の下で裁いたとしても何が悪かったのか理解できず、釈放されれば同じことを繰り返すかもしれません。


考察

もちろんAB双方を満たしても自粛警察にならない人も多いでしょうし、逆にAもBもCですら満たして実行する人も多いでしょう。またAやBをみると現役の社会人のようにも思いますが、そうとも限りません。Aは退職したけれど十分元気な人も含まれるでしょうし、Bも一度就職したけれど会社に馴染めず今は無職で転職活動中の人や、引きこもりの人も含まれるでしょう。

そう考えると、ほとんど全ての人が対象かもしれませんが、私は別に犯人探しがしたいわけではありません。目的は自粛警察のプロファイリングであり、再発を防止するにはどうすればよいのかを考えたいのです。

プロファイリングからみえる人物像

私が知る限り「自分こそが自粛警察である」と公表した人は一人もいません。加えて自粛警察行動は人に見られたくない、見られると始末が悪い(目を背け黙る)だろうことから、実行者も内心では「悪いこと」と認識しているように思います。

なのに実行してしまうのは、Aのプロファイリングで書いたように、「相手に嫌な顔をされてもすべきなのだ」という正義感に支えられているからと考えます。

正義感は転じて親切心にもなり、「相手がどう思おうがこれは親切なのだ」という信念を胸に、「一見悪いことのように思われても時が経てば本人もわかってくれるはずだ」と文字通り心を鬼にして実行しているのでしょう。実際には時が経っても本人に伝わらないどころか不快感が増し、いっそう苦痛を抱えることになるのですが。

ましてやネット(主にSNS)でエコーチェンバー化している昨今、自分の正義感を増強させて実行に駆り立てられているように思います。


また、AやBが実行しているのをメディア等で知って便乗するのがCであろうことから、A・BとCはタイプが違うように思います。もちろん書いたように全て満たしている人もいるでしょうが、ベン図でいうと重なる部分は少ないように思います。

A・Bの犯行がわずかでも、Cが大きくしている可能性は十分考えられます。さらにCは、メディアで流すのが多ければ多いほど(長ければ長いほど)、被害を大きくするように思います。映画「空白」のように、嫌がらせの貼り紙で家の周りを埋め尽くされる状態になるのは、メディアがCを呼んでいるからとも言えるでしょう。そのメディアのソースの多くはソーシャルメディアでしょうが、ソーシャルメディアは従来メディアの拡声器のようなものと考えてもよいので、従来メディアは自粛警察に関する報道をなるべく控えた方がよいと言えます。


そうするとAやBの犯行がより問題になります。AとB両方を満たした人、即ち「組織の中で不満を抱えているが、それなりに社会的に責任がある人」こそ、自粛警察実行者になりやすいのではと考えます。

Aは、報道の呼びかけに従っていない人がいると「従わせる責務が自分にはあるのでは」と思うものの、「でも自分の責任範囲じゃないし」と冷静になるのがふつうです。ところが同時に、組織に不満を抱いている(Bの要素を併せ持っている)場合、自分に引き付けて連想し、「みんなは黙って耐えているのにいいかげんな生活をして許せない」と思い、いわば報道機関の主張を忖度して自らが尖兵となって自粛警察行動に出るのではないでしょうか。


報道で呼びかけられたことを何も考えず受け取り、それに従わない人は許せず正義の名のもとに鉄槌を下す。そういう人は、まれというほど少ないわけでもなく、多くて20人に一人、少なくとも50人に一人くらいはいるように思います(調べたわけではなく、あくまで私の主観ですが)。

自粛警察とは違いますが、能登半島地震に対して「ボランティアに行くな」と声高に叫んでいる輩も、報道=従うべきこと=従わない人は許せない、という等号が成り立っている人かもしれません。目立った行動には出ていないものの、動機は自粛警察と同様のように思います。


そのように考えていくと、一定程度は自粛警察の存在を受け入れなくてはいけないのかもとも(絶望した気持ちで)思いますが、それならなおのこと、便乗犯(=愉快犯)を可能な限り少なくすることが課題となるのではないでしょうか。

カスハラとの類似

今年(2024年)5月、東京都がカスハラ(カスタマー・ハラスメント)防止条例の制定を検討と報じられ、それを機にカスハラが一気に話題となりました。厚生労働省もカスハラ対策を呼びかけています。そこに上がっているPDFをざっと読んだところ、さすが行政コンサルの作った資料の質は高いなと唸らせてくれる一方、なぜ自粛警察については取り上げてくれないんだと少し不満です。

それはともかく、その資料で指摘されているカスハラ実行者と、いま検討している自粛警察実行者とは、多くが重なるものの一部は異なっているように思います。即ち、社会への不満を抱え、さらにストレスが大きい人という点では同じですが、「自分を認めて欲しいという承認欲求」は少し違うような気もします。

いずれにせよ大枠では類似しています。今は自粛警察という名称こそ影を潜めたものの、先に触れた「能登半島地震ボランティア自粛警察」と同様に、密かに自粛警察ライクのことが問題化していて、社会問題として取り組もうという機運が高まっているように思います。

望むならば、「自粛警察」「カスハラ」「ボランティア自粛」などと別々に論じるのではなく、共通する問題として取り上げ、そして注意喚起し再発防止に繋げて欲しいと思っています。

関東大震災での虐殺との類似

去年は関東大震災100年でした。それに乗じて映画「福田村事件」も公開され、私も拝観し考えさせられました。この関東大震災での虐殺と自粛警察とを改めて合わせて考えると、どちらも民衆の不安が高まり「悪」を作り上げたという点で類似しているのではと考えています。


関東大震災での虐殺は、震災の混乱が直接の引き金になったのは確かではあるものの、震災の混乱があったから虐殺されたのでは決してないと言われています。即ち当時の日本社会の殺戮に向けさせる差別・偏見があったからこそ、震災をきっかけに虐殺へとなだれ込んだと解釈するべきとされています。

にも拘らず、長らく「民衆が理性を失ってやったこと」とされ、さも群衆心理が原因かのように言われていますが、実際は「井戸に毒を入れた朝鮮人」という偏見・デマに基づいて意図的に行ったと考えるべき、とされています。


自粛警察騒動もまた、コロナウイルスの蔓延が引き金になったのは確かかもしれませんが、たまたま感染した人が悪いわけでは決してありません。当時、国境または県境に絶対防衛線を引き、感染者を決して中に入れてはいけないというハラハラ・ピリピリした不安がピークに達しており、そして防衛線を突破された恐怖から、それまで充満していた不安が一気に感染者へのバッシングになだれ込んだと言えます。だからこそ、いま振り返って「あのときはどうかしていたから仕方がないよね」と苦い思い出として忘れ去るのではなく、再発を防止するにはどうすればよいかと、考え方をシフトする必要があると思います。

類似する事例としてはナチスドイツによるホロコーストもあります。以前は「狂気に取りつかれた人が流されてやったこと」とされてきましたが、今は「冷静に、意図的にやったこと」とされています。


関東大震災は100年経ってもなお語り継ぐべき課題として取り上げられています。一方自粛警察は、わずか四年で忘れ去られようとしています。

それでよいのでしょうか。

少なくとも関東大震災の虐殺と同様の集団パニックが、つい四年前に起こっていたのだと認識すべきではないでしょうか。


まとめ

考察をまとめると、自粛警察実行者は次のように考えることができます。

・正義感があるが、内心では「悪いこと」と思っている

・自発的に実行する人と、それに便乗する愉快犯の大きく二種類がいて、後者は従来メディアの報道に比例して被害が拡大する

・自発的に実行する人は、社会的に責任あり、かつ組織の中で不満を抱いている人である


上を踏まえ、再発防止策として以下の四点を挙げます。

1.正義感は「正義」ではない

2.古き良き時代を許容してはいけない

3.従来メディアの役割

4.自粛警察を真剣に向き合う

正義感は「正義」ではない

映画やドラマなどのフィクションでは主人公がおり、およそ主人公が「正義」で、困難に立ち向かいつつも「正義」を勝ち取りハッピーエンド、というのが原則です。しかし現実はフィクションではありません。自分には正義と思っていても対する相手からすると悪でしょう。また、多くの人が「正義」と思い称賛したとしても、それで虐げられる人にとっては差別以外の何ものでもないでしょうし、またふとしたことで「正義」ではなくなってしまうことがあります。

「そんなことはわかっている」と思うでしょう。恥ずかしながら私もそうです。でも、自粛警察を実行する人は「自分が正義」と言い聞かせているように思います。

「自分は正しいことをしているんだ」と言い聞かせているとき、または匿名でしか活動できないとき、一歩立ち止まり、相手はどう思うだろうか、名前を知られたとき恨まれる覚悟はあるか、名乗らずに活動する理由を誰かに訊かれたとき明確に答えられるか、などを考えて、それでもなお実行すべきと思うならすればよいと思います(断念して欲しいですが)。実行する上では、「自分は正義だ。だけどそうは思わない人もいる」というのをもう一度噛み締めて欲しいと思います。また「自分は多数の人に支持されているのだ」と思っている場合は、次の行動で一気に支持を失うかもしれないと考えて欲しいと思います。

自粛警察活動はたいていが単独です。組織ではありません。組織でないのでいつ中止しても気を止むことはありません。それが唯一の救いのように感じています。

古き良き時代を許容してはいけない

1970年代くらいまでは、近所のおじさんが子どもに対してあれこれ注意というか助言というか指導を頼まれもしないのに小うるさくやっていたと聞きます。私は(地域的なものか時期的なものかはわかりませんが)言われていた記憶はないものの、当時アニメやTV番組で日常風景としてよく取り上げられていたので、そういうおじさんが実在するんだろうなと思っていました。

今では少子化の影響もあるのでしょう、一人も見なくなりましたが、今思うとかつての小うるさいおじさんと自粛警察実行者とは、けっこう重なるように感じています。正義感があり、特にA:社会的に責任あるという点で共通しています。もしかして、近所の小うるさいおじさんは活動の場を失い自粛警察に衣替えしただけではないか、とも考えてしまいます。

近所の小うるさいおじさんに思い浮かべると、「あの頃はよかったなあ。地域で子どもを育てるという雰囲気があったよなあ。ああいう人がいたから悪ガキでもまっすぐ育つことができたんだよなあ」などと思う人もいるかもしれません。TVでもそういう古き良き時代を懐かしむコメントをしている人もいました(ずいぶん前ですが)。


その延長で、自粛警察も「(愉快犯はともかく)かつてはにらみを利かせる近所の人がいたからこそ、子どももそこで道徳を学び、地域に自主防犯の輪ができるんだから、むしろ復活させるべきなんだ」と思う人もいるかもしれません。ですが、犯罪率は年々減少していること、それ以上に子どもの数自体が減っていること、地域で防犯する空き巣や強盗よりも特殊詐欺の被害の方が多くなっていること、それに加え、自粛警察は何ら落ち度もない感染者に嫌がらせをしていることなどを鑑みると、私には仮にかつての小うるさいおじさんが自粛警察に衣替えしていたとしても、やはり自粛警察は禁止すべきと思っています。

従来メディアの役割

自粛警察の再発を防止するには、決定的に、従来メディア(TV、ラジオ、新聞、雑誌など)の役割が重要と考えます。

実際にコロナウイルス感染が再び生じてしまったら、ハラハラ・ピリピリした不安から「冷静になろう」と呼びかけたり、それが無理でも「感染者へのバッシングはすべきでない」と呼びかけたりする必要があるでしょう。それができるのは従来メディアしかありません。

そして「自粛警察行動はよくない、悪である」と繰り返し報道すべきだと思います。


今回のコロナウイルスによる自粛警察は、直接には実際に活動していた輩に問題があるものの、間接的に従来メディアも関与していたと考えるべきです。「従来メディアがあおった」とまでは言いませんが、黙殺していた、第三者の立場を固守していたように感じています。

「従来メディアが第三者の立場で報道するのは当然ではないか」と言われそうですが、いつもそうではありません。自粛警察によって命を落とした人もいるのです。再発防止のために第三者でいるわけにはいかず、被害阻止に全力をあげるべきです。

また「自粛警察について報道しない」というのもよくありません。百歩譲って30年前までならそれも選択肢だったかもしれませんが、今やソーシャルメディアが巨大化し、報道を控えることがかえって憶測やデマを呼び、なおさら悪化する可能性もあるためです。

警察もあまり強くは言えません(なお法務省が示した注意喚起はこちら)。従来メディアだからこそ、強く訴えることができるのです。

従来メディアは、一時の出来事として忘れてしまうのではなく、れっきとした社会問題として真摯に向き合って欲しいと強く望みます。

自粛警察と真剣に向き合う

自粛警察の人物像が「あまり人に見られたくないけれど仕事をしていると動きにくい」ことから、定年退職したシニア層が浮かび上がってきます。それに関して、最近気になる記事がありました。

カスハラに関連する続報として、報告書の「威張りちらす行為」をする人の説明で「社会的地位の高い人、高かった人、定年退職したシニア層などに傾向が見られる」という記載が「高齢者差別に当たるのでは」などとの抗議を受け削除されたそうなのです。

本当にそうでしょうか。つまり「カスハラする人にシニア層が多い」と指摘するだけで高齢者差別になるのでしょうか。

報告書を見る限り「シニア層がみんなカスハラしている」とは読み取れず、「シニア層のごく一部に傾向がみられる」という記述に過ぎません。差別というためには、まず「高齢者はみんなカスハラをしている」といった偏見(ステレオタイプ)があって、かつ出入り禁止などの行動がなくては成立しません(「偏見と差別の関係」参照)。

この記事にいう「高齢者差別」はむしろ、高齢者自身がやり玉に挙げられているのを不快に思い、「逆差別だ」と苦情を寄せたように思えてなりません。(なお逆差別は、差別をしている側が差別をなくそうという動きに対して行うもので、「逆差別だ」を訴えた時点で当人が差別していることを認めていることにもなり得ます。)


自粛警察はカスハラと違うといえばそうなのですが、この記事をあえて自粛警察に置き換えると、「自粛警察実行者から正体ばらすなと文句を言われたので、すごすごと削除しました」となっていたように思います。

これでは何も解決しません。

このブログでプロファイリングを行ってきたのは、実行者の人物像を絞り込み、再発防止策を講じるためです。「人物像を絞り込んだら文句を言われたので削除しました」では、再発防止策も検討できません。自粛警察を再発防止するには、自粛警察問題にまっすぐ向き合い、「やっても何も効果は生まない」「あなたのやっていること(自粛警察行動)は自己満足、自慰行為でしかない」「フォロワーは短期的表面的には集まっても本当は誰も支持していない」と報道すべきです。そして特に従来メディアは、上から目線で「自粛警察はやめるべき」「ダメなものはダメ」と訴えるべきです。


確かに犯罪とは言えないので逮捕はされません。でもだからといって「逮捕されないからよい」ことにはなりません。「私は、警察には捕まえることのできない悪に注意を促している正義の代行者なのだ」というのは全く見当違いの解釈です。

二次大戦時「街かどで朝鮮人を見つけたので殴って殺し、褒められるだろうと思って得意顔で警察に死体を持っていったら、逮捕された」という話があります。本当にあった話かはわかりませんが、「自粛警察は正義の行為だ」と思うあなたは、朝鮮人だからと殺して得意げに自慢する人とそれほど違いません。


おわりに

今後、四年前のようなコロナウイルスパニックが同様に訪れるとは思いません。だから「全く同じ状況が再発」されることはないでしょう。というより、「同じでない」部分はいくらでも指摘できます。

でも集団パニックは起こり得ます。しかも自分では「パニック状態にある」とは思わず/思えず、冷静に/意図的に逸脱した行動に出てしまい、過ぎてしまうと「どうかしてたから」と自分の責任を放棄しようとしてしまいます。

認識すべきは、自粛警察を特異な出来事として片付けるのではなく、関東大震災やホロコーストなどとの共通した要素が多分にあり、それらが身近なこととして繰り返していたのだという点です。

次いつ自粛警察のような行動が生じるかはわかりません。でも「人間の本能だから仕方がない」などと諦めるのではなく、多少なりとも抗(あらが)い、声を上げていく必要があると考えます。


★以下、当記事を書く上で特に参照したわけではありませんが、関連する書籍として参考までに挙げます。

安田浩一 著「地震と虐殺 1923-2024」中央公論新社

田野大輔 著「ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか」大月書店

ギュスターヴ・ル・ボン 著、桜井成夫 訳「群衆心理」講談社学術文庫

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