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偏見と差別の関係

「偏見や差別はしてはいけない」とよく言われます。私もよく使うフレーズです。
使っていてふと、「偏見や差別がいけないのはわかるけど、でも偏見と差別って何が違うんだろう?」と思いました。まるで枕詞(まくらことば)のように使っているけれど、そもそもどう違うのか、私自身がわかって使っていないなと思い、Webで検索してみました。
いくつかの書籍が出てくることを覚悟していたのですが、とあるサイトにPDF(このサイト)を発見、それがまたすごく分かりやすく解説されていて納得しました。
このブログでは、このPDFを要約して偏見と差別との関係を確認したのち、偏見や差別をしないようにするにはどうすればよいかを考えます。

以下、このPDFしか参照していないので、引用したよと断らずに書きます。このブログがよくわからなければPDFをご参照してください。先にPDFを見てもらってもいいかも。

差別とは

まず差別とは次のように定義されています。
(1)  個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、
(2)  合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、
(3)  異なった(不利益な)取扱いをすること
人によって「これは差別だ」「いや、差別ではない」と結論が出ないことがありますが、これは(2)がはっきりしないことに問題があります。(2)に「無関係な事柄」とありますが、何が関係していて何が無関係か、ある角度で見ると関係しているし別の角度からは関係していないように見えるのはよくあります。ましてや合理的かどうかなんて、考えれば考えるほど判断するのは難しくなるのではないでしょうか。

社会的差別

差別は「合法的差別」と「個人的差別」とのあいだにグラデーションのように存在しています。

合法的差別と個人的差別のあいだ

合法的差別とは、差別をすることが広範な人々によって支持されているものです。例えば2~30年前は男か女かを明記するのは当たり前でした。男女の明記が差別なんて思う人はいなかったのです。
一方個人的差別とは、差別を正当化する論理を誰からも支持されず、個人の好き嫌いとしか言えないものです。例えば先生が特定の生徒をかわいいからとあからさまに特別扱いすると、先生本人が合理的だと考えているかは関係なく、周囲からは支持されません。
合法的差別と個人的差別とのあいだ、つまりある行為を「差別だ」ととらえる人がいる一方で、同時に「差別とはいえない」と支持したり黙認したりする人もいる状態を社会的差別といいます。
「人の世の中である限り差別はなくならない」という人もいます。確かに個人的差別で考えればなくならないのですが、でも社会的差別はなくすことができるのです。

偏見とは

一方、偏見とは何でしょうか。偏見の定義がこちらです。
(1) ある集団に属しているということで、個々の違いを見ずに、一面的な見方、カテゴリカルな一般化をし、
(2)嫌悪など感情を含み、
(3)それに食い違う情報に接しても、見方を変えようとしない硬直した態度

個人的には偏見の定義に(2)や(3)を含めるべきなのかなくてもよいのかわかりません。例えば「女の人はみんな弱いしね」と聞くと偏見だなと思うものの、本人は別に(2)「嫌悪など感情を含」まないで発言しているような気がします。それに、反論して「女の人がみんな弱いとは限らないんじゃないか」と言うと「そうかもね」とあっさり引き下げるかもしれませんが、だからといって本人は別に認識を変えようとはしない場合、(3)「それに食い違う情報に接しても、見方を変えようとしない硬直した態度」と言えるのかどうか。「いや、それがひどくなって(2)(3)を満たしてこそ偏見なのだ」と言われるとそうかもとも思うし、よくわかりません。

それはさておき、偏見は差別と似ているものの、差別は「行為」であるのに対し、偏見は「意識」と言ってよいでしょう。

差別行為と差別意識

「差別をするのは差別意識をもっているからだ」と当然のように思ってしまいますが、ここで強調したいのは、実は差別行為と差別意識は必ずしも一致していないということです。
差別行為と差別意識の二つの要素、即ち差別をするかしないかと、偏見をもつかもたないかで組み合わせると、図のように四つのタイプに分けることができます。

偏見と差別の関係

タイプⅠとタイプⅣは意識と行為が一致しているのに対し、タイプⅡとタイプⅢは一致していません。言い換えると、タイプⅡとタイプⅢは「差別してはいけない」という規範があるところでは差別しないし、「差別を勧める」規範が保たれているところでは差別するのです。
「そんな人いるの?」と一瞬思いますが、たぶん(特に日本人は)この日和見型がほとんどだと思います。

日和見型の人は、地域社会や身内の集団がどのような行動を期待しているのかを察知して同調しています。そう言われると、ああ日本人ってそうかもね、と思うのではないでしょうか。
例えば、当人は部落出身者との結婚を望んでいるけど、親や親戚の反対でやむなく断念するとか(偏見をもたないが差別をするケース)。逆に、当人は「男は仕事、女は家庭」が当たり前と思っているけれど、若い男性が育休申請してきたとき会社の方針だからとしぶしぶ許可するとか(偏見をもっているけど差別はしないケース)。「日和見型がほとんどでは」と思うのも、わかる気がしませんか。

法律では必ずしも変わらない

では差別をなくす、あるいは差別行為をしないようにするにはどうすればよいのでしょうか。そのためにはまず、「差別するのが当たり前」という合法的差別から、「差別にあたるかどうかわからない」という社会的差別にもっていかなくてはいけません。

「よくわからないから法律に従っていればよい」と思ってしまいますが、法律も時代や社会状況によって変わってきます。その「時代や社会状況」も、季節のように自然と変わっていくものではなく、差別に苦しむ人々が血のにじむような闘いで訴えていたからこそ、ようやく少しずつ変わってきた歴史があります。
その上、法律に定められたとしても、身近な集団規範の方が優先されます。
例えば生活保護制度はずいぶん前から法律で定められていますが、今でも制度の利用を躊躇(ちゅうちょ)する人が多いと聞きます。おそらく多くの人が生活保護利用者という偏見をもたれる(レッテルを貼られる)ことを嫌がるからとは思いますが、このように法律で定められていても国民の意識が変わらないと結局は変わらないのです。

偏見をもたない意識

差別にあたるかどうかわからない社会的差別に対しては、「差別にあたると思う人がいる」と耳にした時点で偏見をもたないようにすることは可能です。偏見を「もたない」から「もつ」に変えることは意識的にしないようにしましょう。なぜなら、意識しないと集団規範にいつの間にか流されてしまう危険性があるからです。
例えば関東大震災での朝鮮人虐殺は、それまで朝鮮人に対して何も思っていなかった人でも、周囲の雰囲気から、直接手を下さないまでも黙認していた人は多いのではと思います。「偏見をもってはいけない」と強く意識する必要があります。

とはいっても、多くの人は「私は偏見をもっていない」「差別なんてしていない」と当たり前のように思っていることでしょう。でもその無自覚さこそ危険かもしれません。
「私も偏見をもっているかもしれない」「差別しているかもしれない」と思うことこそ、意識する必要があります。むしろ否定する人こそ怪しく、自信たっぷりに「俺は偏見なんてもっていないから」という人こそ偏見の権化のような人かもしれません。

差別をしないようにするには

「偏見をもたないようにしよう」と意識することは大切ですが、でも意識だけでは限界があります。偏見をもっているかどうかは、悲しきかな、自分ではわからないからです。
だからせめて、差別をしないようにしましょう。自分が偏見をもっているかどうかはどうあれ、日和見型でもよいので、行為としての差別をできるだけしないことが重要です。
もちろん「今振り返ってみれば、あれは差別だったかもなあ」ということもあると思います。思い立ったが吉日、そう思った後からは行動を改めましょう。その積み重ねが差別をなくしていく一歩ですし、よりよい社会に繋がる道だと思います。

差別をしないようにするには

偏見と差別について書いてきましたが、偏見や差別を100%なくすことは事実上不可能と思います。だからこそ、「私も偏見をもっているかもしれない」「差別しているかもしれない」と常に観察し、社会的差別の遡上(そじょう)に上ったものには意識してなくしていくようにすることが、差別のない社会に繋がると思います。

【参考文献(再掲)】
野口道彦「差別と社会」(大阪府)
ぜひお読みください。

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