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富山の戦争遺跡ガイド

今日は戦後79年目の8月15日。この終戦の日を機に、富山県内にある戦争遺跡を「平和と人権 とやまガイド」から多く引用して紹介します。

平和と人権 とやまガイド

このブログをつくるにあたり(ほんの数ヶ所ですが)実際に戦争遺跡を訪れましたが、やはり戦争の記憶は(震災の記憶と同様に)引き継いでいかなくてはいけないなと思いました。遺跡を通じて、定期的に(例えば戦争の季節の8月に)あるいはふとした時に思い出し、悪しき過去に向き合い同じ轍(てつ)は踏まないよう思いを新たにすることが大切のように思います。
このブログを機に、富山でもかつて戦争のただ中にあったこと、今も戦争後の延長線上にいることを実感してもらえると嬉しいです。

—目次—
第一章 軍施設の跡
第二章 思想統制の跡
第三章 思想弾圧の跡
第四章 強制連行の跡
第五章 空襲被害
あとがき

第一章 軍施設の跡

立野原監的壕


日清戦争(1894-95、明治27年)の後、ロシアとの緊張が高まっていた1899年(明治32年)、軍は福光町立野原(たてのはら、現・南砺市)に陸軍演習場を作りました。今も残る監的壕(かんてきごう)は、約5km離れた場所から発射された砲弾の命中率や性能を近くで観察するための施設です。

富山歩兵連隊兵舎・練兵場・連隊橋


日露戦争(1905-04、明治37年)の後、婦負郡東呉羽村(現・富山大学五福キャンパス及び五福公園)に1907年(明治40年)、歩兵連隊の兵舎や練兵場を建設しました。そのとき神通川を渡る富山大橋も新設され(三代目)、俗に「連隊橋」と呼ばれました。今も市電が通る現在の富山大橋は四代目にあたります。五福公園西脇に「富山歩兵連隊跡」碑があります。

富山歩兵連隊跡(五福公園)

富山飛行場跡


今は神通川河川敷の富山市秋ヶ島にある「富山きときと空港」ですが(1963年開港)、戦前は神通川河口に近い富山市布目に「富山(倉垣)飛行場」がありました。1933年(昭和8年)に公設民営として開場しましたが、1936年(昭和11年)に国営に、1942年(昭和17年)には陸軍省の管轄となり軍用飛行場になりました。現在は敷地の一部が和合中学校に転用されています。

雄神地下工場工事跡


1944年(昭和19年)末、疎開してきた三菱重工名古屋航空機製作所は、引き続き戦闘機などを生産していましたが、1945年(昭和20年)3月、雄神村(おがみむら、現・砺波市)に空襲に備えて地下工場の建設を始めました。強制連行された朝鮮半島の人々を中心に16本のトンネル掘削工事を行っていましたが、敗戦となり未完成のまま放置されました。現在の雄神大橋の三谷あたりです。

文珠寺地下工場工事跡


1928年(昭和3年)に設立した不二越鋼材工業(現・不二越)は、兵器部品や弾丸も作っていましたが、1945年(昭和20年)分散疎開が決まったのを受け、大山町文珠寺(現・富山市文珠寺)に地上工場3か所と地下工場のためのトンネルの工事を始めましたが、敗戦となり未完成のまま放置されました。現在の大川寺駅より南あたり(立山町宮路の対岸あたり)です。

他に、伏木には工場内に毒ガスの製造施設を設置していたそうです。残存した毒ガスは終戦時に関係者によって廃棄されたとのこと。(2021年8月12日北日本放送にて放送

第二章 思想統制の跡

忠魂碑・慰霊碑


日露戦争(1905-04、明治37年)後、戦死者を悼むための石碑が、忠魂碑や慰霊碑、記念碑などの名称で、県内各地さまざまなところに立てられています。形もユニークで、「忠魂」とだけ書かれたシンプルなものもあれば、神武天皇像、砲弾の形、戦死者の彫像、「地球と鷲」といったアート?のようなものまであります。忠魂碑はのちに護国神社に準じた位置づけがされ、1930年代から終戦までは参拝礼拝の対象になっていました。

神武天皇像(上市町三杉公園)
地球と鷲(立山町利田小学校)


義勇奉公碑(富山市婦中町広田:明治40年日露戦争記念として建立されたもの)

護国神社


戦死者を「英霊」として祀る靖国神社(陸海軍省所管)の富山県版が、この護国神社です。一般の神社とは異なる軍隊神社で、1913年(大正2年)に富山県招魂社(しょうこんしゃ)として建立され、1939年(昭和14年)に富山県護国神社に改称されました。戦死者を神として祀り参拝礼拝を義務とすることで、国民に進んで戦場に行かせようとしていました。境内にある「遺芳館(いほうかん)」には戦死者の遺品や遺書、富山大空襲時の焼夷弾などが展示されています。境内には砲弾の模造碑と「支那事変記念」(当時の呼称でいう日中戦争1937年-(昭和12年-)のこと)の碑などがあります。
境内には伊佐雄志(いざをし)神社があり、亡くなった公務員が祀られています。伊佐雄志は当て字(万葉仮名)で、漢字では「勲」「功」、つまり「公の為に家の為に努め励み、功績を挙げる」という意味があります。

奉安殿


当時の学校では校舎とは別棟で耐火式の奉安殿(ほうあんでん)という建物があり、生徒は登下校のたびにその前で最敬礼させられていました。奉安殿とは天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物です。戦後ほとんど取り壊されましたが、神社の境内や石碑として残されていることもあります。八尾町(現・富山市)の任歩(にんぶ)小学校のものは近くの八幡宮に移され、本殿として使用されています。

奉安殿(立山町野町の順正寺敷地内):すぐ近くの高野小学校にあったのを移設したらしい。正面に菊の御紋があります。扉には葵の御紋・・・なぜ?


第三章 思想弾圧の跡

大沢野小作争議


1929年(昭和4年)、大沢野村の未開墾地を地主から5年間無年貢の約束で開墾していた小作人(農民)が、地主が約束を破って年貢米増を請求したことに反対して立ち上がったのが大沢野小作争議です。組合を結成した小作人たちに対し、地主はその土地を企業に売却、個々の小作人に土地明け渡しを迫るなど争議は長期化。そこに特高警察が治安維持法違反で農民15人を検挙してしまいました。特高警察(特別高等警察)とは思想を取り締まる政治警察で、1928年(昭和3年)に全国の警察署内に設けられていました。組合は争議の継続を断念、土地会社と折衝合意し終了しました。現在、八尾と大沢野を結ぶ新婦大橋の南あたりに大沢野小作争議の顕彰碑が立てられています。

泊・横浜事件


1942年(昭和17年)に雑誌に掲載された、泊町(現・下新川郡朝日町)出身の細川嘉六(かろく)の論文「世界史の動向と日本」が共産党の宣伝だとして軍部が批判、内務省もその雑誌を発売禁止処分にしました。さらに特高が細川やその雑誌編集者、記念撮影者などをまとめて治安維持法違反で逮捕しました。凄惨な取調べがなされ獄死者4名も出し、多くが有罪判決を受けるという戦時下最大の言論弾圧事件でした。裁判が横浜地方裁判所で行われたことから「横浜事件」と呼ばれています。現在、朝日町の旅館「紋左」の敷地内に「泊・横浜事件端緒の地」石碑があります。


第四章 強制連行の跡

不二越富山事業所


1928年(昭和3年)に設立した不二越鋼材工業(現・不二越)は、兵器部品や弾丸も作る軍需産業として日中戦争と共に急速に発展しました。戦争末期には朝鮮半島の人々を強制連行し労働させられていたため、戦後訴訟を起こし、日本では和解したものの、韓国では不二越に賠償金が命じられ、今も国際問題になっています
現在、不二越の通用門の西側に戦時中の塀が残っています。

不二越の塀(富山市不二越本町にある北門の西側)

小牧ダム/祖山ダム/黒部電源開発


1920年代から建設された小牧ダム(砺波市庄川町小牧)、祖山ダム(南砺市大字祖山)、黒部電源開発では多くの朝鮮人労働者が働かされ、爆発や崩壊などの事故で多数の犠牲者を出しました。現在祖山ダムの先の小山に慰霊碑が、宇奈月温泉に供養塔や「萬霊之塔」が、富山地方鉄道内山駅西側の林の中に朝鮮人の遺骨を納めた「呂野用(ヨヤヨン)墓」があります。いま恩恵に預かっている電気や観光の背景には、強制労働があったということです。

捕虜収容所


1945年の終戦時、富山県内6ヶ所に捕虜収容所があり、約1,600人が収容されていました。富山の収容所は名古屋から疎開してきた分所で、労働力不足を補うため使役していました。現在収容所の跡は全くありませんが、場所は特定されています。

  • 富山市下新50(富岩運河の下新橋西):日本曹達富山製鋼所(現・太平洋製鋼)

  • 富山市下奥井町1(路面電車富山港線下奥井駅の南東側):立山重工業(現・富山化学工業)

  • 富山市東岩瀬町大広田(路面電車富山港線荻浦小学校前駅東付近):日本通運岩瀬支店

  • 富山市西宮大広田森(森二丁目第一公園付近):日本曹達岩瀬製鋼所(現・太平洋ランダム岩瀬工場)

  • 高岡市能町(JR能町駅北東側):北海電化伏木工場(現・日本重化学工業)

  • 高岡市能町(材木町交差点北西側):伏木海陸運送


第五章 空襲被害

富山大空襲


1945年8月2日午前0時36分、長岡・水戸・八王子と同時に、富山市中心部が米軍の空爆を受けました。この富山大空襲は市街地の99.5%が焼かれ、推定2700人超死亡、約8000人負傷、11万人が被災し、地方都市としては最大規模の被害(人口比で最も多くの犠牲者)を受けました。爆撃中心地は城址公園南東端で、現在はモニュメント「夢の聖地」が立っています。
富山市が選ばれたのは工業地帯だったからですが、実際には工業地帯ではなく市街地の人口密集地帯を対象としたといわれています。目的を変更した理由として米軍は「日本の軍需産業が家内工業に頼るところが大きい」という点などを挙げています。なお当時富山市内は完全な燈火管制下にあったようですが、先頭機が照明弾を投下したためあまり意味をなさなかったようです。

空爆で投下される焼夷弾(しょういだん)は、通常の爆弾とは違います。通常の爆弾は発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊するのが目的ですが、焼夷弾は着弾して中に入っている燃料を燃焼させ、火災を発生させるのが目的です。木造の日本家屋を効率よく焼き払うために開発されたもので、瓦屋根などへの貫通力を高め、上空でリボンに着火、対象への激突後発火します。着火したリボンがあたかも火の帯のように一斉に降り注ぎ、火の雨が降るように見えたと言われています。
映画「火垂るの墓」で、主人公らが空襲に遭い、そのときは静かなものの、急いで家から飛び出た後に徐々に周囲に燃え広がっていくというシーンがありますが、それがまさに焼夷弾の描写です(ひゅーん、どかーん、ハイ終わった ではないんですね)。焼夷弾は一基の中に複数の焼夷弾を格納し上空で分離させ、より広範囲に飛び散るようになっていて、その中にはナパーム弾という高温で燃焼するゼリーが充填されているものもありました。
多数の小型爆弾が広範囲に飛び散るものをクラスター爆弾といいますが、今まさに行われているウクライナ戦争でクラスター爆弾の使用が急増しています。国際条約で禁止され日本も批准していますが、ロシア側もウクライナ(に供与するアメリカ)側も使用を止めていません。直接被害だけでなく、濡れた地面や柔らかい地面に着弾し不発として残った小型爆弾もまた、拾われたり踏まれたりするとその人を死傷させる危険があります。

富山大空襲の遺跡


焼け野原となった富山市で辛うじて残ったものは、富山大和/電話局/電気ビル/富山県庁/富山放送局/日本興業銀行富山支店/及び神通中学校です。今も使用されている富山県庁や電気ビルもまた戦争の遺跡と言えるでしょう。

富山県庁
富山電気ビル

当時東田地方町にあった富山赤十字病院も大空襲で焼失。現在の牛島本町の敷地内に、日中戦争以後に戦病死した職員も合わせた慰霊碑があります。
前田利次の菩提寺であった光厳寺(富山市五番町、中央小学校横)も空襲で焼失。ですが富山市が神通川原とともに遺体収容所として指定したため、多くの遺体が収容されました。光厳寺の三重塔(鉄筋コンクリート製)は骨格だけが焼け残り、のち移築再建されています。
松川にある舟橋右岸(南側)の常夜灯は笠が大きく破損していますが、これは大空襲によるものとされています。
富山市奥田町にあった旧富山薬学専門学校の門柱は焼夷弾の炎と熱で変色し、現在は梅沢町二丁目交差点の立像寺近くにあります。また富山市梅沢町の応声寺にある石碑も、表面が焼夷弾で焼け碑文も読めなくなっています。

なお私の記憶では、富山駅前のモニュメント「平和群像」も富山大空襲からの復興を願い設置されたものだったと記憶していたのですが、違ったのかな? 現在は「平和群像」というタイトルだけで設置理由は書かれていません。Webページにはありましたが、一言も「空襲」の文字はない・・・新幹線に伴う富山駅大改装に乗じて、撤去されなかっただけよかったとは思いますが。現在は位置が変わってホテルα-1の前(MALOOTの南側)にあります。

富山駅前にあるモニュメント「平和群像」:タイトルだけで何のモニュメントなのかわからない。マッチョな男と子どもと鳥でわかる人ってどれだけいるのかな(私はわからん)

伏木・新湊への空襲


富山県内への空襲は富山大空襲だけではありません。それに先立つ1945年5月24日~25日伏木・新湊へ、海上に300個、陸上に100個投下。これにより船舶の航行はできなくなり、係留中の上陸用舟艇や防波堤も爆砕されました。これ以後も伏木及び新湊への空襲は連発し8月まで続きます。その空爆で犠牲になった人の銅像が放生津八幡宮に立てられています。
以後、海上への機雷投下も複数回あり、戦後に調査したところ未だ47個超の機雷が伏木・新湊一帯の海底に残存しているそうです。当時、太平洋方面の港湾のほとんどが封鎖されていたので、軍需産業地域を擁する伏木港は食料補給の観点からも軍事的観点からも重要視されていたようです。

模擬原爆


模擬原爆とは、当時特殊な形状だった原子爆弾(ファットマン型)を投下する際の弾道特性などのデータ採取のために製作され投下されたもので、弾体が橙黄色に塗装されていたことから「パンプキン爆弾」またはかぼちゃ爆弾と呼ばれています。原爆と同じ形状・比重・質量配分になるよう調整されているものの、中身は高性能爆薬(TNT火薬など)だったようです。模擬原爆は日本全国で合計50発が投下されていますが、その内の4発が富山市に対して投下されたことになります。
投下の目標とされたのは原爆投下候補地(京都市/広島市/新潟市/小倉市)の周辺都市にある軍需/民間の大規模工場/鉄道操車場等でした。富山は候補地のひとつ・新潟市の周辺都市として選ばれ、7月20日に3発(森/中田/下新)、26日に1発(豊田)が投下されましたが、いずれも天候不良のため目視攻撃できなかったと言われています。それでも被害は死者53名、重軽傷者90名に及びます。

  • 森地区(富山市森住町の北西あたり):日満アルミが目標

  • 中田地区(富山市中田3丁目3、東富山駅前交差点より少し東):不二越鋼材東岩瀬工場が目標

  • 下新・富岩運河西岸(富岩運河の下新橋と大島橋の中間あたり西):日本曹達富山製鋼所が目標

  • 豊田地区(富山市豊田本町2丁目9、豊田口バス停を西に入ったあたり)

うち豊田地区には「平和祈願之碑」が、中田地区(中田公園)には投下地点に「爆心地」の石柱が立てられています。

豊田にある模擬原爆投下地
中田にある模擬原爆投下地

やたら長いあとがき


今年(2024年)は戦後79年。来年は1945年(昭和20年)の終戦からちょうど80周年となります。
8月ということもあり、ラジオで戦争について多く放送されていました。それに影響される形で、地元・富山の戦争遺跡について改めて検索してみようかと、何の気なしにWeb検索窓に「富山 戦争 遺跡」と打ってみました。予想ではアレとアレとアレと・・・どこかはよく知らないしよく覚えてないけど引っかかるだろう、他にどんなのが上げられて(Uploadされて)いるのかなと思っていました。

ところが! その検索結果にすごく驚きました。
「富山大空襲」のことばかり。ページをめくったわけではありませんが、1ページ目は全部富山大空襲。
私はリベラル寄りの思想を自覚しているので、エコーチェンバーにより他の人の検索結果より比較的多くの項目が表示されるかと思っていましたが、これまで「戦争」をキーワードとして検索したことはなかったからでしょうか、あまりにも偏り過ぎだろう、と思いました。もちろん富山大空襲がトップにくるのはわかる。でも唯一っておかしいだろ。

それならと富山市立図書館と富山県立図書館のWebページで、同じく「富山 戦争 遺跡」と打ってみました。いくつかヒットしたものの、求める内容が近いかもと思える書籍は「戦争と平和の考古学」県民カレッジ編のみ。
ええ!?地元の戦争の学習ってやらないの?と思うと同時に、少し腹立たしくも思いました。富山市もそうだけど、特に富山県は何しているんだ。戦争について広報する気がないのか。いや、ここまでないと戦争をなかったことにしていると言われてもおかしくない気がします。
ちなみに図書館検索で「富山 戦争」とだけ打つとけっこうの数がヒットします。それでも現地に赴いて思いを馳せるガイドはヒットしません。

富山県だけでなく、他県も似たようなものかなと思い、お隣の石川県でWeb検索をかけてみました。するとヒット、石川県平和委員会の「記憶の灯 希望の宙へ いしかわの戦争と平和」という書籍が、いの一番に表示されました。この書籍がなかなかに秀逸。1,300円とちょっと高いのが玉にキズですが。
つまり富山県が特殊なのか。富山は戦争の歴史に向き合っていないのか。これは問題だし恥ずかしいと思うべきだ!と思っています。
もちろん石川県特に金沢市は富山と異なり、空襲を受けていない(?違うかも?)ので遺跡も多く残されたという事情はわかります。だからといって「富山は遺跡がないから悪しき過去は抹消してよい」とはならないはずです。
もちろん、県内各地の博物館などの施設で、これまでも戦争をテーマにした企画展は少なからずありました。でも多くが「昔の民具」の展示会と同じ感覚で、「わー懐かしいねー 終わり。」という印象でした。その世代でなければ「ふうん」としか思えない。「行政は公平中立でなくてはいけない」というのはわかるような気もしますが、(もし軍国主義になったら行政はそれに従わなくてはいけなくなる、のは考えないことにして)「恒久平和を目指そう」くらいの漠然としたメッセージで同じ轍を踏まないよう促すくらいはあってもよいように思います。

毎年8月初めに行われる神通川花火大会が、富山大空襲の犠牲者の鎮魂や復興、平和を願って行われていることは知っていても、ほとんどの人がそれ以上のことは知ろうとはしないでしょう。知る手段もないし。だからこそ、過去に向き合い広報することが、県ほか行政の責務ではないでしょうか。
「思い出したくないから」「もう過去の話だよ」と一笑に付する人もいるでしょう。でも関東大震災での虐殺のように、歴史学者が確実にあったというのに「いろいろな解釈があるようなので」と曖昧にしていては、いつかは富山大空襲も「なかった」という人も出てこないとは限りません。いや、「なかった」と思っている人も少なからずいるのではないでしょうか。記憶が薄れ反省すべき点を賞賛する点に捻(ね)じ曲げられつつある今だからこそ、行政はひつこく広報すべきと思っています。

そのように悶々としていた矢先に、幸運にも、富山の戦争遺跡を案内するガイドを見つけました。それが「平和と人権 とやまガイド」(富山県歴史教育者協議会ほか発行)です。目次を以下に表示します。

平和と人権とやまガイド 目次

Web検索前に想定していた富山連隊跡、富山飛行場、立野原監的壕も記され、ほか忠魂碑や兵士碑の一覧もマップで紹介され、ひとまずは満足。でも「富山 戦争 遺跡」でヒットしなかったことには首を傾げるし、また悔しくも石川県の「記憶の灯 希望の宙へ いしかわの戦争と平和」に劣っていると感じました。石川県のは「加害の歴史」「被害の歴史」などと体系立てているのに対し、この書籍でもある程度はそうとはいえ、石川県ほどわかりやすくない。何より薄い。持ち歩けるよう配慮した結果かもしれませんが、私が求めるほどの詳しさはない。登山ガイドブックだってもっと厚いぞ。発行が石川県より前なら少し仕方ない面もあるかなとも思いますが、増補改訂版が発行されたのは石川県より後でした。
この内容で500円はすごく安いとは思います、が、石川県の1.300円とは言わないけれど800円くらいでもう少し内容を充実させてほしいと思いました。
富山の戦争遺跡に興味があり、現地に行ってみたい方はぜひ手にお取りください。富山県内の図書館ならたいてい置いてあると思います。

ガイドへの不満を受け「もし私が編集するならこうする」というのを作ってみよう、としたのがこのブログです。編集に重点をおいたこともあり、文章はこの本のを非常に多くパクリながら(申し訳ありません)書きました。繰り返しますが、詳細は当書籍をご覧ください。

このブログでは「我々はいかにひどい被害を受けたか」「憎し米軍、けしからん」という被害者スタンスではなく、「軍国主義万歳」「戦時中の戦闘機ってカッコイイ」でもなく、明治から昭和20年(終戦)に至るまでのわが国がどうだったかを、非難と反省を込め、できるだけ現在に引きつけて捉え、今後を考える糧にしたいという思いで作成しました。冒頭に書きましたが、一見平和で戦争とは全く関係なかったかのように今は思える富山でも、かつて戦争のただ中にあったこと、今も戦争後の延長線上にいることを、このガイドを通じて少しでも実感してもらえると嬉しく思います。

蛇足ながらもうひとつ。
周辺から中央はよく見えていますが、中央から周辺を見るのは極めて難しいものです。富山から東京はよく見えますが、東京から富山は見えづらいです。同様に上市町の一集落(私の住む場所)から富山市は見えますが、富山市からは上市町の一集落なんて気にも留めていないでしょう(もちろん意識して見れば別です)。
このように中央と周辺は対等には考えることができません。それどころか、ややもすると中央から周辺への一方的な不理解が強行されてしまいます。
歴史も、中央の視点からだけ見ていると、周辺は見えず一面的です。周辺から見て初めて多角的に捉えることができます。それを共有していくことこそ、今必要なことではないかと考えています。
これを大きく捉えると、マジョリティ(多数派)とマイノリティ(少数派)も似ています。私は障害者ですが、健常者はふつう障害者のことなんて考えていません。でも障害者はいつも健常者と同じようにしたい/しなければと思っています。健常者(中央)からだけしか見れない人が障害者施設殺傷事件を引き起こすのでは、とも思います。また、男性は男性の視点でしか考えていませんが、女性は女性と男性両方の視点で見ようとする傾向があります(特に夫婦の場合)。このように中央と周辺との非対称と自覚し、マイノリティの視点をもつことを意識すれば、それだけ多様な見方・捉え方ができるように思います。
もっとも、よい方向に少しずつ変わっている兆しはあります。だからそれを維持するよう気を付ける必要があります。何かを決めたとしても、改めて他の人の意見も聞いてみるとか、Yesとしか言わない相手だとしても相手の立場だったら自分はどう思うだろうかとか、マイノリティを想定しその視点で考えてみるとか、多角的な視点で考えて見ることが求められていると思います。

戦争の歴史も、教科書でがんばって覚えることも必要なのは確かでしょう。とはいえ、富山という周辺からも見ることによって、より実感を持ちかつ立体的に捉えることができると思います。
このブログを読んで、できれば現地に足を運び、いま/これからを考える機会としてもらえれば幸甚です。

<参考>
「平和と人権 とやまガイド 増補改訂版」富山県歴史教育者協議会、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟 富山県本部


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