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陸軍省で働いていた祖母のこと①

 8月になると私も戦争のことを考えます。
それは周囲の雰囲気で、というわけではなく、人と少し違う戦争体験をした人が私の祖母であったから。
17歳の女の子がたった一人で、体を壊して実家に連れて帰られるまで特殊な環境で働きながら過ごした1年8ヶ月ほどの過酷な東京暮らし。戦争体験談の中でもあまり見ないものなので、ここに書いておきたいと思います。

昨年94歳で亡くなった祖母は私の母方の祖母です。2歳手前から進学で出る18歳まで一緒に暮らしていました。子である実母や叔父・叔母よりも、この手の話は私がよく聞いていたようです。

祖母が陸軍省で働き出した経緯

祖母は昭和2年生まれ。早生まれで大正15年/昭和元年生まれと同学年です。佐渡で育った祖母は昭和18年3月に県立の高等女学校を卒業します。職業婦人を夢見て、東京の栄養学校などに進学を考えましたが父親が大反対で断念。結局卒業後家事など手伝っていたところ、就職話が舞い込みます。「東京の陸軍省で、職員を探している」という話。身元のしっかりした高等女学校卒程度の学歴を持つ女子の求人とのことで、身内に軍・警察関係に勤める人が複数あったことで話が来たようです。他に選択肢もないことから祖母は話を受け、東京に出ます。

上京し、昭和18年8月から陸軍省軍務局軍務課で働き始めた祖母。職場はいわゆる三島由紀夫事件の、三島がバルコニーで演説している旧一号館と呼ばれるあの建物の2階だったそうです。勤めていた期間、仕事は上から回ってくるものを読めるかたちにタイプライターで打って清書する、というもの。かなりの機密文書もあったようで、机に向かっている時は必ず後ろに一人、ドアの外に一人、男性の軍人が立って監視していたそうです。打ち間違えた用紙は後ろの軍人に手渡し、ひとかけらも持ち出さないように特によく見られていた、と言っていました。
と言っても、仕事はいつも忙しいばかりではなく、暇な時はたくさんある反故紙を火種にして、食堂から借りてきたアルミ盆で大豆を炒って同僚女子たちと食べていたとか。

職場環境

仕事中は監視もありなかなか緊張する環境で、急ぎの残業もあり楽ではなかったものの、男ばかりの陸軍省で女子、しかも最年少の部類でとても大切にされたそうです。空襲といえば真っ先に地下に避難させられ、天井の高いとてもきれいな場所に行かされたそうです。そこは長野までつながるものと聞かされていたとのこと。
おおっぴらに異性と仲良くしてはいけないとのルールがあったため廊下を歩けばあるかないかの接触で、さっと手に食堂の蜜豆券やうどん券を握らされたとのこと。とても食べ切れる数でもなく、人にあげるわけもいかず困った、とのこと。
「将校さんは例外なく洗練されてかっこいいし、野蛮な人なんて一人もいない。でも関東軍だけは嫌だった。えらそうで押し付けがましくて下品で乱暴で嫌なことを言ってきて全員嫌いだった」というようなことも言っていました。何十年経っても関東軍に対する鮮やかな嫌悪感。祖母はこんな印象を持つような体験をしていたようです。

戦時下の一人暮らし

とにかく大変だった、と言います。
まず配給がそうそう無いのに、あっても小さな枯れたような芋1個とか、大豆を升に軽く一杯とか。ろくなものがもらえないので佐渡から米や味噌を送ってもらったり、親戚に融通してもらってしのいでいたとか。後に祖母の妹がしばらく同居していた時は、釜で焚いたご飯の取り分で揉めていたそうです。
上京した時点ですでに空襲はありました。いつも通りの時間で退勤して帰れば空襲には遭わず、落ち着いて夕食も作れるのですが、しばしば急ぎの仕事で残業があり、遅くなると電車内や路上で空襲に出くわしてしまう。時間としては8時45分頃。電車内で空襲に遭うと、非常停車した上で電気も消され、逃げようもなくとてもこわかった、とのこと。それより前にアパートに帰っても煮炊きをするタイミングで空襲が来ると、調理途中で火を消すから飯もおかずも失敗して、とても嫌だったそうです。だんだん慣れてくるとはじめから押し入れに七輪を持ち込んでご飯を炊いて、空襲が遠ければ逃げずに真っ暗な中でそのまま炊いていた、とも言っていました。

モンペ禁止、一礼しない

祖母は板橋の小さなアパートの1階を借りていました。そこから陸軍省のある市谷まで電車で通います。一回乗り換えると言っていたような記憶があるのと身分証明書の住所から、東武東上線の上板橋駅から乗っていたようです。
軍務課ではスーツが推奨されていて、今で言うリクルート用のようなタイトスカートのスーツに白ブラウス、黒のパンプスで通勤をしていたこと。そして、職場では靖国神社で一礼する習慣はなかったということ。祖母もそれに習いそうしていましたが、目立つ服装に一礼しないことで憲兵に誰何され、身分証を出すと飛び退って敬礼された、ほんとにいやだった、と言っていました。

一人者はなめられる

アパート暮らしでも町内会には入っており、しばしば来たのが献血の当番。本当は志願者のみのはずが、痩せて見えない体型と若さに目をつけられて毎回行かされたとのことです。いざ行けば今度は血液型も加わって300ccも400ccも抜かれて、帰りはいつもふらふらで帰った、とのこと。
そうまでして町内のために頑張っても、いざ空襲になると町内の人々の態度は一変。やっとのことで防空壕に行ってもいっぱいで、冷たい目で断られて泣きながらアパートに戻ったことも何度もあり、「若い娘の一人者なんてなめられるばっかり」と話していました。

楽しいこと

 祖母は長い休みは佐渡に帰っていました。新潟から佐渡汽船に乗るのですが、それがなかなか佐渡に着かない。原因は機雷で、海中に漂う、触れれば爆発するものを避けながら行くので、ものすごくゆっくりしか進まない。青く澄んだ海中にある機雷を祖母も見たとのこと。とにかく半日以上かかるのでやっと帰宅して数時間後にはまた船に、ということもあったようです。
土日は中央線に飛び乗って長野のおばさんの元へ。子供のいないおばさん夫婦にとても可愛がられたそうです。職場の皆さんで、と桃を持たされると途中で傷んでアパートまでに毎回汁が滴る状態になってしまい、困ったとのこと。
若者らしく、大学生とグループ交際したり、短歌の会に顔を出したり、それなりに楽しんでもいました。

こんな感じで祖母は東京に暮らし、陸軍省に勤めていました。この調子でやれたのはほんの数ヶ月で、状況はどんどん変わっていきます。

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