短歌「読んで」みた 2021/09/26 No.16
凹凸の見本としてのワッフルはレゴブロックにあこがれている
九螺ささら『ゆめのほとり鳥』(書肆侃侃房 2018年)
ないものねだり、という言葉が頭に浮かんだ。
ワッフルと言えばあの幾何学的凹凸。お菓子。各種ワッフルのどれをさしているかが定かではなくても、だいたいはっきりとした凹凸がある。ワッフル地という、表面に規則的かつ正方形のまるでベルギーワッフルのような凹凸を持つ布地もあって、全くもって凹凸の王道を行っている。属性にゆらぎなどどこにもない。ワッフルと言えばあれ、というほど強固なアイデンティーがある。
そのワッフルが憧れている。視線の先にあるのはレゴブロックだ。レゴブロック。子供の頃に結構な数の人が触るであろう、知育遊具ともいわれるカラフルなおもちゃ。一番の特色は、凹凸が組み合わせられるように出来ているということで、色んなものを作ることが出来る。大人から子供まで世界中に愛好者が存在する。
それがワッフルから見たらどう見えているのだろう。組み合わされて別のなにかになれること。たくさんの組み合わされるべき相手・仲間がいること。人に愛されその手によって組み上げられるという、その立場。
傍目に見るその人らしさが本人にはあまり見えていないことは往々にしてある。反対に欠けていることならよく分かる。そしてそれを持っている人のことも。よくあることであるが、それを我が身に引き寄せて考えるのは難しい。誰もが多少こそあれ、このワッフルと同じなのかもしれない。
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主観の眼鏡はだいたい歪んでいる。言っても言っても本人には届かないものである。そうじゃない、あなたはこんなにいいところがあると伝え、粘るものの伝わらずしぶしぶ撤退することもある。生きていれば何度かそんな状況に遭遇する。他人のことであるからそんな感じなのだが、その主観の人が自分だったら。もしかして、気づいてないだけで今現在もそうなのかもしれない。そう考えると居心地がおかしくなってくる。
ワッフルは美味しい。世界中に好きで好きでたまらない人がたくさんいるのだ。凹凸と言えばあなた。だからゆったり構えていればいい。でも自分は。自分には何がある?と考えると途端に足元が揺らぐ。好きな事はたくさん数えられても、人様から憧れられるものなんてわからないものだから。
しかし自分のいいところが滔々と言える人も恐ろしい。それが事実で等身大の自分を知っているならいいけれど、自意識が肥大した、ありもしないものだったら。そんな幻をあるものと思ってやっていくことの危うさを思ったら、誰かに憧れを持って生きていく方が、それが言うて詮無いことだとしても、一周回って健全に思えてきた。