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7月28日

《ままならない日本語も贅沢な愉しみ》

定期的に言葉に対して諦念のようなものを感じる。それは自分の言葉の幼さから来るのだと思う。いろいろなものがぼろぼろとこぼれ落ちて粗い。流麗な文章に出会ったときも、私には到底届かない世界だと思ってしまう。そして、美しさを身体で感じた時もまた、これを言葉にすることの困難さに背中を向けたくなる。

これは日記を書いていなかった言い訳。

そう思うと、言語を扱うレベルとしては、いま勉強している英語と母国語である日本語はさして変わらないようにも思える。どちらもままなっていない。

英語を学び始めて気がついたのは、語学は語彙や文法を暗記することではなく、日常的に転がっているいろんな言葉を自分の体感と結びつけながら身に染み込ませていく行為だということ。

あたりまえのように使っている日本語も、語彙を英語より多く知っているというだけでは、上手く扱えていることにはならない。より自分の体感に近い言葉を見つけて、使ってみて、感じるという不断の努力によって、言葉の味わいや質感が変化していく。

上達や習得を急がなければ、その発見の連続の道のりはたのしいと思う。面倒なときもあるけれど、面倒でないことで得られた喜びは儚いから。これは贅沢なたのしみだと思う。

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