おばあちゃんの「おはなし」の時間
黒崎のほうにね、開墾さ、しにいったのよ。
私が通う陸前高田市広田町に「黒崎」という地域がある。
半島の先っちょで、町で一番大きなお祭りが開かれる神社があって、温泉がある。もちろん人も住んでいる場所だ。
そこをシゲ子ばあちゃんはずっと昔に、開墾しにいったという。
ふむ、開墾?
手をつけていない山や野原を、耕して人が住めるようにしたり、畑にしたり…すること…。
誰かが、その昔に家を建てた。その隣にも家が建った。畑では牛を飼った。そういうことの連鎖で、この場所が人の住む場所になっていったんだ…
当たり前だけど、私の東京での暮らしらかけ離れすぎていてわけわからぬ…。
ついこの間、そんな“昔話”を陸前高田に住むおばあちゃんから聞いた。
そうやって、こたつに入って昔話を聞くなんて久しぶりだった。
誰かの話にゆっくりと耳を傾ける、
「おはなし」ってものに久しぶりに出会った。
「こないださあ〜」っていういつもの会話じゃなくて、
時が経ってもなお、その人の中に残っている風景の片鱗と、心情たち。
映画でもない、写真でもない、音声データでもないし、本でもない。
目の前の人が話してくれる、そのときのこと。
自分の知らない世界、想像もつかない世界のこと。
そのときには言えなかったことも、今だからこそ思うことも。
ちょっと記憶が曖昧で、脚色加えられちゃってたりして
そういう「おはなし」の時間は、私たちの今の生活サイクルには組み込まれていない。
誰かが作った素晴らしいストーリーや、至極の作品を味わうことは、たくさんある。とても楽しくて好きだ。
けれど、どうしても生きている人の声と、その人が目の前に存在することが尊いことだと感じてしまう私には、
「あの頃」の何でもない話をする、その時間が愛おしい。
生活の中の余白を、何かしらのデジタル・アナログコンテンツで埋め尽くしている今。
もう少し、「おはなし」みたいな、人間のあったかさとロマンスが欲しいなあ。
↑ちょこちょこ芽を出してるのは松の木。1回なくなったけど、もういっかいつくってる未来の高田松原。
カメラ:Hasselblad 500c/m
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