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「永遠が通り過ぎていく」

1月19日 「永遠が通り過ぎていく」


(映画の感想というよりは私自身の話が多いので不快になられたらすみません。)

吉祥寺で「永遠が通り過ぎていく」を観るのは二回目だった。

アリアとマリア


アリアとマリアは私の話でもあったように感じる。

【「母」としてのアリアとマリア】
私は母の前では無垢でなければならなかった。母は幼少期、現在にかけて私からあらゆるリスクを排除した。禁止、制限されることがあまりにも多く、二十歳になってもスマホには制限をかけられているし、S N Sは監視され、男の子と遊ぼうとすれば諫められ、理由をつけて無かったことにされる。
それは母の愛でできた温室だったけれど私はその温室から抜け出そうともがいている。

【「恋心」としてのアリアとマリア】
私はアリアでもマリアでもあった。
私はアリアのように結婚する(その人に永遠を捧げる)と決めた人としか愛や恋をしたくない。その人と出会えるまで私の純潔と永遠は守らなければならないと思っている。今好きな人がいるけれどその人に永遠を捧げられるのかと問われたら私は頷いてしまうし、否定もすると思う。わからない。恋なんてまともにしたことがないから。一過性のものなのか、永遠なのか、見定められるほどの経験則が私にはない。

私はあのシーンのマリアのように恋をすると「信仰」のような状態になってしまう。
それは加害性を孕んでいて盲目であるのは理解しているのにじわじわと恋に脳みそが蝕まれていく。マリアがアリアのことを抱きしめて独善的に囁くシーンでぞっとする。私も誰かを好きになったら同じことをしてしまうと体感的に分かる。一方的に愛を募らせて、ぶつける。恋には加害性があって私はずっと「誰かに加害してまで恋をするのは悪」だという概念に囚われている。

Blue Through


あの物語は私の欲しいものを映していたように思う。

私は私の育ったこのくそみたいな田舎の死臭のするような町から逃げ出したかった。パパから、ママから、弟から、おばあちゃんから、家族から逃げ出したかった。暗くてじめじめした陽の当たらない学校から逃げ出したかった。教室から、部室から、保健室から、女子トイレの一番隅っこから、校庭から、体育館から、プールから、委員会から、先生から、友達から逃げ出したかった。
好きになるのは年上の男の人ばかりで理解され、庇護されることを望んでいた。絶対に叶わない恋ばかりして無尽蔵に愛を求めていた。このおしまいの現実から連れ出してくれる人を待っていた。

でも、あいこのように家を飛び出す勇気もなければ、れんのように(それが束の間だとしても)一緒に居てくれる男の人も、遠く北へ乗せていってくれるキャンピングカーも私にはなかった。

私も永遠が欲しかった、腕を切り刻んでもいつか傷が癒えてしまうのが嫌だ。私が傷つけた、傷ついた記録として烙印として一生そこに残り続けて欲しい。
私の世界から誰かがいなくなってしまうのが嫌だ。いつか来るお別れにびくつきながら生きるのは苦しすぎる。

永遠。

私もずっとあいこと同じく叫んでいる。
「永遠が欲しい。そうじゃないなら、死にたい。」






「永遠が通り過ぎていく」を観て思うのは、戸田真琴監督の中にあるものと私の中にあるものが共鳴しているように感じるということだ。
ご本人とお話した際にもお伝えしたのだが作品を観て、「同じ血が流れている」ように思えた。それは血縁とかではなく、もっと根本的なもので、それでも「血」と表現するのが一番正しい。
映像制作を生業とすることを目標にし始めた私にとってこのタイミングで「永遠が通り過ぎていく」、戸田真琴監督の作品に触れられたことがほんとうに嬉しく、これから制作をしていく上でのしるべになっていくと思う。

これからも活動を応援しております。





P.S
良い作品ができたら送ります。髪色褒めていただいて嬉しかったです。

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