2023年の体験たち(前編)
2023年、いろいろなよい体験をしました。体験というのは音とか言葉とか空間とか、ぜんぶです。たくさんの心が動いたので書く。
書く、と言っても、よい体験をしたときは忘れないように気持ちを言葉にしてどこかのsnsに置いたり、知人にぶん投げたりするくせがあるので、それらをいろんなところから集めてくるだけです。
本『古今和歌集・新古今和歌集』
むかしの人(とは言ってもたかだか1000年前ですけど)は世の中のどんなようすにどんな風に心を動かされて、それをどんな言葉にしていたのかに触れたい!と思って読みました。
原著だとぜんぶあわせて40巻あって、それをそのまま読んだというわけではさすがになく、選りすぐって1冊にまとめてくれた本(ありがたい)があったのでそちらを手に取りました。
(『日本の古典をよむ 古今和歌集 新古今和歌集 』小沢正夫・松田成穂・峯村文人 [改訂・訳])
よいな〜と思った歌をメモしながら読んだので、そのなかからおきにいりを3つ。(『孤独の音色』リファレンス で2つ書いてしまったのでそれら以外)
1つめは晩夏の夜明け、目覚めに感じた風が昨日とはうってかわった冷たさを持っている、このたった一夜のあいだにどうやら秋が来たらしい、という歌。
2つめは、春の夕暮れに一面に霞む山の麓と流れる川の眺めが美しい。枕草子では「夕暮れは秋がすばらしい」だとかなんとか言っていたけれど、この景色を見ろ、秋でなくてもすばらしいだろ!と詠んでいます。
3つめは寒い冬の明け方、空の月は冴えていて、庭の池の水の凍っている。月の冷たい鋭さを飲み込んだ池は真っ先に凍ってしまったのだと思い馳せます。
どれもそのときのその瞬間の空気の温度や動きが伝わってきそうだし、それをさまざまに表現する感性がすごくうつくしい。
展示『テート美術館展 光 ーー ターナー、印象派から現代へ』国立新美術館
イギリスのテート美術館のコレクションから「光」をテーマに作品展示されていたのですが、ジュリアンオピーの風景画にとくに心を掴まれました。
(写真を撮るのがへたなので、反射してみづらいです)
絵ももちろん良かったのだけどそれよりも、タイトルの付け方がほんとうによい。
月が光る夜の林に『トラック、鳥、風』
人の居ない薄暗い病院の廊下に『声、足音、電話』
よすぎる、、、
ただの視覚的な鑑賞体験ではなく、タイトルをきっかけに自分の記憶が想起されてこの絵の中の世界で鳴る音や空気のその中に、ほんとうにいるかのような感覚をおぼえます。
「現実世界の中にぽつんと飾られた1つの絵」と「事実その表面しか見ることができない鑑賞者」
この強い制限のもとでの鑑賞体験を、たった数文字のタイトルで、最小限の介入で、直接体験にぐっと近づけるのだ、みたいなそういう洗練された試み(と勝手に受け取った)が美しすぎて見惚れてしまいました。
私の脳が記憶しているこの経験は何をもってしてその経験であるのか、その経験は何によって何パーセント再現するのか、そういうことにぐるぐると考えを巡らさせられる作品でした。
ほかにも素敵な作品がいっぱいあったけど書ききれない。音声ガイドで聞いた光の魔術師ジェームズタレル氏の言葉だけ置いておきます。
「私の作品には対象もイメージも焦点もない。あなたは何を見ているのか?」
展示『あ、共感とかじゃなくて』東京都現代美術館
他者との共感をテーマにした展示です。
目の前の人に対して「わかる」とか「共感する」とかそういった言葉を発することは、言っても言わなくてもまあどちらでもよいかな、という感じなのですが、相手の行動や価値観やバックグラウンドについて考えをめぐらせてちゃんと分かろうとする姿勢は、まわりの集団ひいては社会全体がもっと平和になるうえでだいじなことなのだろうな。
この姿勢では “いわゆる共感” を本当にしているかどうかというのは大して問題ではなくて、結果的に共感できないとしても、そのちがいについて寄り添おうとすることが、そういう人が増えることが、いろいろな価値観やバックグラウンドの人たちが同じ集団、社会で、それぞれにとってできるだけよい形で共存することを可能にするのだろうと、そんなことを思いながら作品を見て回っていました。
これは渡辺篤さん(たち)の作品。コロナ禍にはじまったプロジェクトで、孤立を感じている人を募って月の写真を送ってもらうというものです。
自粛期間が終わったいまも、数は減ったものの写真は集まり続けてるそうで、そういう孤立を感じている人、その人たちそれぞれのたしかな存在をあらためて認識し想像させられる作品でした。
渡辺さんの写真集『アイム ヒア プロジェクト』も購入しまして、こちらはひきこもりの人に自分の部屋の写真を撮って送ってもらうというプロジェクトなのですが、ほんとうに、ほんとうに心にきました。
望まずして社会に出てこれない人が多くいるのなら、それは先に書いたような寄り添う姿勢が十分でないのかもしれない。そして自分の生き方は無意識にそういった人たちを切り捨てることになっていないだろうかと、深く考えさせられる作品でした。
本『未来をつくる言葉』ドミニク・チェン
たくさんの短めのパートにわかれていてそれぞれで著者の体験とそこから感じたこと、考えたことが語られている。とつぜん脈絡がなさそうな話に飛んだりするのだけど、読み進めていくうちにそれらの点の集合からふんわり1つの理解が見えるような、そんな感覚でした。
「わかりあえなさの隙間は埋められるべきものではなく新しい意味が生じる余白だ、既に自分の中に存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られるが、じっと耳を傾けて目を向け続けているとお互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる(雑意訳)」
そんな感じの文章で締めくくる最後の方のパートはすごく印象的で、心に残りました。
わかりあうために人はコミュニケーションをするのだ、とどこか思っていたところがあります。
ただその前提が思考に根を張っていること自体が、寄り添う姿勢を欠いていたということなのかもしれないです。
「わかりあえなさ」をどう受け入れて、どうお互いにとってより良い形で関係性を定義しなおすか。
そういうコミュニケーションの周辺から、世界はさいあくじゃなくなっていくのかも。
芸術祭『さいたま国際芸術祭2023』
これはあまりによかったので、切り出しで書きました。もう終わってしまったのですが、さいこうの体験だったのでよんでください。
個展『Sucker』小松千倫
場所は根津にあるマンションの一室で、中に入ると物は一切置かれていない、壁も床も真っ白の空間です。
スピーカーなどもないのだけど壁そのものが音響装置になっているようで、ただただひたすら誰かが何かを語る声が延々と流れている。その声は早口だったり、囁くようだったり、アクセントが不自然だったり、複数人の声が重なったりしていて、決して聞きとりやすくはないのだけれど不思議な心地よさがありました。
視覚的には意味のありそうな情報がまったく無いこの空間で、時々刻々不可逆に流れていく音情報を必死に追いかけようと耳と脳を使って鑑賞する体験は、物理的なモノがある作品鑑賞ともちがうし、音楽ライブや英語のリスニング問題ともちがう新鮮な体験だったのはまちがいないです。
気づいたら1時間以上、その空気に頭まで浸かっていました。
個展『架空のテクスチャー』平野真美
ユニコーンを精巧に骨格から再現して生命維持装置を施した作品。
平野さんは前作『保存と再現』では自身の愛犬が病気で弱っていく中で、その大きさ骨格構造を正確に調べて再現することで愛犬の生と向き合う作品を作っていたのですが、今回はそもそも実在してない動物の生に向き合った作品でした。
この活動の見据える先を想像してみると、我々がなんらか動物(これは人間も)に対して愛情を注いだり憧れたりするとき、その対象が生きていることはほんとうのところどれだけ重要なのだろうか、と考えさせられました。
ほんとうに生きていることはすごく重要なことだという気持ちはそういえば心の底に張りついていて、それに対してうんうんとあらためて同意はするのだけれど、じっと向き合って考えてみると思っていたよりは重要ではないのかもしれないな、とも思ったりする。
テクノロジーで擬似的に故人を蘇らせようとする試みにはもちろん倫理的な問題がすごく大きくありつつ、だけど一方である種の希望である面もあるので、どうにか良い方向に技術と制度と民衆の空気が整っていくとよいな。
つづく
いろんなところから集めてくるだけと言いつつ、なんだかんだ書くところは書きました。
音楽の話も書くぞって思ってたのですが、そうじゃない書きたいことをたくさん書いていたら長くなってしまいました、後編は音楽の体験も書きます。
前半よんでくれてありがとうございました、またね〜
あそ
(後編はこちら)
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