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人はなぜ創作するのか

私はふだん音楽をつくったり、絵をよく描いていたときもあったり、いまこうやって文章を書いていたりします。

それらの活動をなぜするのかと問われるとけっこうむずかしくて、やっていてたのしいからとか、良いと言われたらうれしいからとか、そういう表面的なことはもちろんあるのだけど、もっと根源的なところの「この別にやらなくても生きていける活動」を積極的にする理由について考えたりします。

これからも考え続けると思うのでたぶんそのうち変わっていくかもしれないですが、少なくともいまの自分のなかで一旦腑に落ちている考えを書き留めておきます。

結論のようなもの

なにを書いているのだ、となりそうな予感がするので、先に結論(のようなもの)を書いておきます。

人間が生きる強い動機として「自分の存在証明をすること」というものがあり、創作はその期待値を以下2つの側面で高めようとする営みである:

1. 作品として世に残すことで他者が観測可能な状態にする
2. 過程において自分の内面と向き合うことで自己理解を深める

これに思い至るまでに考えたり寄り道したことを、ここからつらつら書いてゆく。

創作は自己の存在証明であるということ

思考実験

たとえば、自分が完全に閉じた世界にいることを想像します。

  • その世界には生活に必要なものや娯楽は十分に揃っていて「一方向的に享受するモノや情報」は現実世界とまったく変わらない

  • ただし現実世界とは1点のつながりもなく切り離されており、世界の外側に情報を残すことも、世界の外側の誰かが自分の生活を覗くこともない

  • 自分の人生が終了すると世界ごと消去される

人と会ったり話したりすることは誰かの記憶に情報を残す可能性を生み出すのでできませんし、視界に入ることも許されません。デジタルまたは物理的にいつかの誰かに向けて何かを書き残したり生きた痕跡残すことも不可能です。

つまりこれは、自分という存在を他者に評価(これはなんらかの"対象になる"くらいのそれはそれはとても広い意味で)をされる可能性が完全になく、現在から未来のすべての時間軸においてその希望を抱く隙すらない、という世界です。

雑に想像するなら、だいたいなんでもある自由で広大な宇宙船に自分が1人だけ乗っていて、通信はできず、自分の死とちょうど同時に宇宙船ごとブラックホールに潰されることが確定している、みたいな状況でしょうか。


その状況に立ったとき自分は創作をするのだろうかと想像してみると、0ではないのだけど、思っていたよりその動機は小さいかもしれないです。

はじめは少し考えて「それでもやっぱりするような気がするな」と思い浮かんだのですが、もう少し向き合ってさらによく考えていると「とは言ってもなにかしらの痕跡は残せるだろう」「それをいつかは誰かが見つけてくれるだろう」という、無い可能性の無い隙間を信じていただけみたいでした(非現実的な世界の設定に想像を膨らませきれていなかった)。その思い込みがそこそこの割合を占めていて、差し引いて残る気持ちはけっこう小さくなっていました。

いつかの誰かに届くかもしれない希望の大きさと、創作の動機の大きさが比例しそうという感覚、この気持ちの動きはけっこう重要な気がして、創作には「観測されてはじめて確定する価値」が少なくともあり、それを期待する気持ちによって突き動かされている部分が一定あるのかもしれない、と考えました。そして、一連のその意味を「自己の存在証明」と読むこともできそうだ、と思い至ったのです。

と、極端なケースを思い浮かべて自分の気持ちの変化を内省することで創作を突き動かす重要な要素を考えてみましたが、大きな視点からも考えてみます。

生物としての存在証明

一般的な動物(というか生物)の使命は、子孫を残し、種を繋いでいくことです。

この種を繋いでいく活動は、自分の遺伝子を受け継ぐ存在をいま目の前にたしかに作り出し、さらにいずれ死んでしまうその先も、自分が存在した痕跡が未来永劫に続いていく可能性を持つという意味で、一種の存在証明とも言えるかもしれません。子孫を残すことはあくまでその手段という解釈です。

たまたまある程度の知能を手に入れた私たちは、それぞれにさまざまな価値観や思想を持つようになり、加えてそこそこ高度な文明がつくられたいまこの時代においてはもはや、別に「子孫を残す」という形でなくたって、自分が自分として存在したことを証明する手段をもっと自由に選択できるようになったのかもしれないです。

たとえば、誰かと対話を重ねて良い関係を築くことはその人の記憶容量の一角に自分という存在を書き込みその輪郭や色を濃くしていく行為とも言えますし、すべての仕事は大なり小なりその結果が誰かに届きなんらか作用をするという意味で社会に自分の爪痕を残す行為です。

そしてそれらと並列して、高い自由度で自分を形に起こし世に出すことができる「創作」も、1つのつよい存在証明の手段として位置づけられるのではないでしょうか。

存在証明の期待値を高めるということ

創作による存在証明を分解する

ここまでちょっと概念的な階層で考えを巡らせながら「創作が存在証明であるかもしれない道筋」を考えてみましたが、もっと具体的に、たとえば「文章を書くこと」をイメージしながら、創作を分解し存在証明につながる要素を取り出そうとしてみます。


ある物事について思ったり感じたことを、いま文章に書こうとしています。

その物事に対して自分の中でうまれた感情を、表面的なところだけを見て、よくある言葉を借りてきて文章にするよりは、その表面をめくった奥にある実は複雑に作用しあった感情のもつれにまで目を向け、じっと観察し、できるかぎり鮮明にかつ等身大の自分の言葉で書き表した方が、読んだ人に「私がほかの誰ではなく"この私"として存在したこと」がより届く気がします。

また、それを読む人の数を考えてみると、10人よりは100人、100人よりは1000人に読んでもらえる方がおそらくその実感は強まります。

さらに同じ10人でも、見知らぬ誰かに宛てて手紙を出すよりは、10人の観客の前で朗読した方がきっとよく伝わります。

これらの感覚をまとめてみると、創作による存在証明は次の3つの要素の「かけ算」でその期待値を定義できるのではないでしょうか。

1. 創作物に投影する自己の純度
2. 体験可能な他者の多さ
3. ちゃんと届く確率

1は創作の内容について、2と3は作品としての存在のさせ方についての部分が大きいかなと思います。

とくに「体験可能な他者の多さ」というのはなんらかの形としてあらわす創作の本質の1つかなと思っていて、インターネットで世界に向けて発信したりすることはもちろん、そうでなくてもたとえば手もとのノートに文字として残しておくことさえも、それは「世界に情報を保存する行為」であって、いま生きている人だけでなく、自分がいなくなった未来に生きる無限に近い人たちが観測する可能性を生み出していると言えます。

冒頭の結論の1つ目のことを言っています。

人間が生きる強い動機として「自分の存在証明をすること」というものがあり、創作はその期待値を以下2つの側面で高めようとする営みである:

1.作品として世に残すことで他者が観測可能な状態にする
2. 過程において自分の内面と向き合うことで自己理解を深める

ちなみに、ジャズのセッションのようにその場でつくられその瞬間にのみ存在する創作もありますが、これもおなじように先の3つの要素で定義できそうです。

その演奏はいま目の前にいる観客に対して自分自身を表現作品に投影して届けようとする試みであり、観客は有限で時間的な広がりはあまりないかもしれないけれど、受け取り手が確実にそこに存在して自分の方を向いてくれているという“確かさ”がある、それが存在証明の期待値を高めているのだと捉えられます。

なので、創作の定義はいろいろ考えられそうですが、物質的な実体があるとか繰り返し体験可能かとかは関係なく、広く捉えてよいと思います。

創作はその過程で何をしているのか

3つの要素のうちの1つ目の話にもどるのですが、創作による存在証明が成り立つためには、そこになんらかの「自分の部分」が投影されている必要があります。(ほかの人の作品やただそこに落ちている石はそのままでは自分の存在とつながりが無いのでそれはそう)

「自分の部分」というのはとくに、自分の内面にある価値観や思想やセンスや技術などです。「大事な自己の部分」と言い換えておきます。この「大事な自己の部分」をできるだけ高い純度で創作に投影するほど、鑑賞者が作品をとおして自分の存在をより高い解像度で見ることを期待できるのだろうと思います。

ただ、それがなかなか簡単ではなくて、そもそも投影する自己が見当たらなかったりぼやぼやしていたり、ということが全然ある。

その第一歩は作品(ここでいう作品は世の中のぜんぶと捉えていいです)を鑑賞しながら自分の心の変化を観察することだと思っていて、これは主に既存のカテゴリーや要素をたくさん拾い集めてコレクションするようなイメージです。それらは自分のある部分に共鳴したパーツたちなので、それをツギハギすればそこそこに高い純度で自己が投影された創作物になります。

そして、そこからさらにもっと純度の高い創作物を生み出しやすくするプロセスが、創作そのものにあるのだ、と思っています。

創作の過程は、「大事な自己の部分」との照合作業の連続です。

たとえば文章では、1つの文、1つの単語を書くごとに、意識的あるいは無意識的にいくつも選択肢が検討のテーブルに上がっては棄却したり採用したり、という作業を繰り返します。書いたあとに「やっぱり気に入らない」と戻ってやり直すこともあります。

この過程は、自分の内面の奥にある価値観やらセンスやらに当てはまるかどうかを確かめ続けている行為で、その積み重ねによって価値観やらセンスやらが自分にとってより確かなものになり、活用しやすくなります。

先のイメージで言うなら、拾い集めたコレクションからさらに厳選していくつかを手に取ってテーブルに置いてみて、余計だとおもう部分を削ったり、凹凸を磨いて無駄のない曲線をつくったり、2つをくっつけて1つにしてみたり、とにかく自分がより美しいとおもう形に調整してコレクションボックスに戻す、みたいなことです。

そうやって、創作はその過程自体が自分の内面と向き合い「大事な自己の部分」を磨き上げる工程であるので、時間や回数を積み重ねるごとに自己理解が深まり、より純度の高い創作物を生み出せる確率が高まっていくのだと思います。

雑に言うと、文章にしてもなににしてもすべてのものに対して人はそれぞれ「すき」とか「きらい」があって、その度合いもさまざまでものによってはどっちでもよかったりするわけだけど、その判定ができるということは自分の中には少なくともちゃんと判断軸があるはず。それは自分でも存在に気づけていないものだったり、存在には気づいているけどぼんやりしていたりもする。創作の過程ではこの「あるはずの軸」との当てはまりをずっと確かめ続けているので、だんだん軸が鮮明になったり新しい軸が発見されたりする、その更新された軸を持ってもっと自分らしい創作ができるようになる、みたいなことを言っている。

というのが、冒頭の結論の2つめのこと。

人間が生きる強い動機として「自分の存在証明をすること」というものがあり、創作はその期待値を以下2つの側面で高めようとする営みである:

1. 作品として世に残すことで他者が観測可能な状態にする
2. 過程において自分の内面と向き合うことで自己理解を深める

ちなみに「軸を鮮明にする」というのは「言語化される」ということも含まれるけど必ずしもそうではなくて、どちらかというとまず自分の中で経験的に体系化されるようなことを指しています。なので、自分が何を理解しているのかを理解していなくても、高い純度で自己が投影された創作は実現され得ると思っています。

おわりに

「創作をする人」がなにか特別な存在のように扱われするのをたまに見かけたりしますが、そんなことはないのではないかなとずっと思っています。いちばん根っこの部分にある動機はだれもが同じく持っていて、たまたま創作という手段を選んだ人たちがそうなっているだけ、なので選びたい人はいつでも選ぶこともできる、というかそうだといいなというところを発端にしてふわふわと考えを膨らませていた次第です。みんなが創作する世界は良い世界だっておもっているので。

考えたことをただだらだらと書いてしまったし、実態のない話がおおくて読みづらい文章な気もしていますが、さいごまで読んでくれてありがとうございました、またね。

あそ

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