見出し画像

自分事の死と他人事の死

いつか人は死ぬ。
死を忘れるな。

メメントモリとか。

死に関した言葉に触れることは多い。
ニュースとかでも毎日のように、
事故や犯罪で誰々が死んだだの日常茶飯事。

でも、案外身近な死っていうのは少ないもので。
どこか他人事になってることもよくある。

私の場合母方の祖父母は健在だ。
だから、私の身近でこれまで「死」というものに触れることって、
それこそ自分の昔の担任が亡くなったくらいで。
そのときは小学3年生で、
そこまで現実感もなくて。

大体の場合は、
遠い人の死から近い人の死という順番で、
死に慣れていくものなのかなとか私は思ってる。
祖父母に始まり、親戚、その他身近な人、そして、親とか。
私はこれまで、身近な死を経験してこなかった。
最初に経験したのが、
1年半前の12月。
自分の父親の死だった。
1年半の癌の闘病生活。
ここでも色々あったけど、そこはとりあえず割愛、また今度。

何となく、身近な死がなかったせいか、
それとも自分の親は大丈夫とかいう不合理な考えのせいか、
何だかんだ私の父親はそんな簡単には死なない、って思った。
でも現実は甘くなかった。
大学院で実習先に勉強に行ってる最中に父親は亡くなった。
連絡に気付いたのも夜で、死に目に会うこともできなかった。
電車の動く時間になって、
もう死んでることもわかってたけど、急いだ。
着いたとき、
父親の冷たい亡骸が横たわってた。
人間ってこんなに冷たくなるものなんだと驚いた。

右目が少しだけ開いてた。
死体は緩くなるから口とか目が開くのも当然なんだけど、
私の顔を見るためなんじゃないかとか、そんなことを考えた。
すんなり、また心臓が動いて、
急にいつもの調子で私の名前を呼ぶんじゃないかって思った。

でも、当然そんなことはなかった。
死が身近なことなんてわかってたのに、
結局こうなるまで私の中で死はリアルなものじゃなかった。
ニュースで見てたような、あの他人事の死。
いつか人は死ぬ、なんてわかってるようでわかってなかった。
ニュースを見て「ああ、可哀相だな」なんて思うのと比にならないくらい、
辛くて悲しい。
自分事の死はこんなにも重い。
もう1年以上になるのに、
まだ死に目に会えなかった罪悪感で動けないでいる。

早く動いてくれと焦る一方で、
でもそうなるくらい自分事の死は重いものなんだなぁと痛感する。
罪悪感から逃れることはそうそう簡単じゃないことだろうから、
少しでも折り合いくらいはつけられるようになることを祈るばかり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?