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あなたという本を読んで。読書感想文

誰にだって「なぜこんなに嫌なことが起こるのか」と北風ビュンビュン、ため息な日があるだろう。喜怒哀楽は今日で廃止!「喜楽」な世界を希望したい人も私だけじゃないはずだ。ブルーな日の決まりごとを、今日も試そう。丁寧にお茶を淹れて、熱いうちにずずっとひとくち、呼吸を整え目を閉じる。「何をそんなに暗い気持ちになっているんだ。嫌なことを言われても、1ミリだって私は変わっていないはず。こんなにすり減った気分にならなくて良いように神様、私に強さをください」よし、本でも読んで気晴らしをしよう。

私が読んだのはある”人”という”本”だ。そしてこれから本に見立てたその人の「感想文」を書いてみようと思う。どんな小説より面白い、私とは違う人生。その本が教えてくれたのは、自分を縛らないことの大切さだ。ぱたん、と本を閉じるとちょうどブラインドの隙間から力強い夕陽が差してきた。「この夜は、嫌なことはちょっと忘れて、和やかな気持ちで過ごしてみてもいいかな」と背中を押してくれるようだ。明るい夜のための本。そう思っている。
さあ、どんどん書こう!この本をあなたと共有するために。……といってもパソコンを使うので、ペンは要らない。文字という(たいてい)黒一色の道具だが、私は好いている。文字が、文章が、好きなのだ。だいぶ未熟だが、容赦してほしいが、前置きはともかくさっさといこう。そう、私が思うことは今、一つしかないのだから。

「感想文、楽しんでくれるといいなぁ」

不自由を嘆く人には2種類いる。一般常識やルールが、あたかもそこに存在するかのように語り、従属する人。それから「自分にはできっこない」とハナから決めつける人だ。誰しも何かしらの”首輪”をつけていて、手綱は知らないうちに誰かに(社会、あるいは実体もない何かに)握られているのかもしれない。それ自体が良いとか悪いということではないし、私だって「あなたの主人はだあれ?」と問われたら「自分の主人は自分に決まっているだろう」と、胸を張って言えないところがある。だからこそ、自分を動かすのは自分だと言える人は強いと思うし、カッコよく見える。

私が社会人になりたての頃、写真学校に通ったことがあった。その学校は”ホンモノ”の写真を追い求めていて、生徒にはバエる絵なんか撮らせず、海辺に悲しく打ち捨てられたビンや、道端のゴミの「どこが面白いか」を写真で語らせるようなところだった。意味が飲み込めない、若い私の表現はなんとも”不自由”だった。

「写真はむずかしいよねぇ〜」

ごくありきたりなことを優しく言う彼は、30歳に突入した私より幾分、年上だろう。テラス席で良かっただろうか。ひょろりとしていて、風が寒く感じるかもしれない。彼は大きなシダの葉の下で滴る雨粒を楽しむ某トトロに似た、変わった雰囲気がある。妖精感、仙人感。ピッタリハマる表現が見当たらないが、金の流れる川を、ニコニコと無視しそうな人と言えば伝わるだろうか。名前はホリウチダイさんと言う。

私は「写真はむずかしい、だってボタン一つ押せば子どもだって綺麗な写真が撮れるんだから」と写真学校の消化不良の思い出を脳内再生しながら、彼にぶつけているところだ。彼はなんでも聞いてくれそうな感じがするのだ。そしてなんと言って も、彼は職業芸術家。写真のことも相当詳しいようで、色々話してみたい。
スターバックスの煎りが深すぎるコーヒーも半分無くなると、彼から出てくる言葉について考えていた。まずトゲがない。それどころか熱も感じない……というと語弊があるが、宙へふあふあと昇って、地球の外から見ているような独特視点なのだ。私はこういう人を数人だが知っている。人間を「卒業」してしまった友人たちの共通点は、あまりに辛い出来事の経験だ。彼はどうだったのだろう。ふわふわ妖精ホリウチダイさんは、無限に湧いて出てくる沢山の問題を、優しい力でよく切れるハサミのようにサクサク切り取って私に見せた。

カシャッ。枠の外。ピピッ。枠の中。

何を切り取り、どこにフォーカスするか。それこそが、人が”本”たり得る所以だ。ひとりだって同じカメラを持ってはいない。人の瞬きの数だけシャッターが下り、レイヤーになっていく。小説はその1ページだけで面白いものなんてない。ドンデン返しの結末や、キャラの魅力なんかではない。想いをどうフチに収めたのか(逆に何を捨てたのか)が、本当に見るべきところなのかもしれない。たわいもないおしゃべりにも関わらず、いくつかの哲学的発見を喜んで、私は彼とまた会う約束をして別れた のだった。

先日、世界遺産の岐阜県、白川郷に旅したのだが、そこでホリウチダイさんを見つけて嬉しくなってしまった。ばったり彼と会ったということではなく、三角の大きな屋根がひしめく田舎の一角に、ホリウチダイさんを見たということなのだけれど。「昔ながらの和やかな田舎の風景、それが白川郷」だとしか思っていなかった私は、町の歴史を知るほど怖くなった。

実は白川郷は村人に不便すぎる立地から捨てられた、廃村だった。歴史遺産保護のため復活させたらしい。資料館で見たのは、村中の人々が寄ってたかって大きな茅葺の屋根を補修する写真や、雪に閉ざされた冬の間の生活の厳しさを表した文章、大人数で作業できる蚕の部屋。寒くもないのに身震いした。この村に「だいばーしてぃー」なんてなかったことを想像できたからだ。少しでも異質な存在なら村人の積極的団結のためにイジメられ、外に追いやられただろうが、それも仕方がない。夫婦喧嘩よりも燃えやすい三角屋根の家は、火事も雪の重みも命取り。村中の人々が支え合わなければ、生きてはいけないのだ。

純粋に田舎の景色にほっこりできないのには理由がある。アリキタリなことに、私は学校が嫌いでどうにも馴染めなかった。友達もいたし、いじめられた記憶もないが、靴下の色が白一色に制限されるようなまったく合理性に欠ける校則、他人と少しでも違えばいじめの対象になる生活に、楽しさも刺激も意味も見出せなかった。今も多様性の名の下にかろうじて保護されているような私は学生時代を思い出し、「この村で私が生まれていたら、完全にのけものにされていたに違いない……」と安らげなく なっていた。

せっかくの旅行なのに元気を無くしていると、パッと眩しい光にくらんだ。辺りを見渡すと、側溝に放流された立派な鯉がうじゃうじゃと泳いでおり、初夏の太陽を天に跳ね返していた。そこに一匹だけいた黒い鯉が、群れる仲間をスイッとよけ、小川の流れに逆らい、段差をも登って進んでいた。私は目を離せなくなった。そこに学校のフェンスを軽々と乗り越え「学校には行きたい時だけ行ってたよ」と笑ったホリウチダイさんが浮かんだ。「そんなバカな。親の目、先生の目、社会の目。ぜんぶ無視して、自分のしたいことをしたって言うの?」普段は理性の下にいる、黒々とした気持ちがモゴモゴと動いていた。

不自由を嘆く人には2種類いる。一般常識やルールが、あたかもそこに存在するかのように語り、従属する人。それから「自分にはできっこない」とハナから決めつける人だ。私は自由に焦がれながらも、他人の目を気にし、自分の限界も決めてしまっていた。自分を縛る鎖をこの歳になって初めて掴み、少し呆れて笑った。「私のために動けるのは私しかいない」なんて、野暮な言葉だ。でもだからこそ、自分を動かすのは自分だと言える人は強いと思うし、カッコよく見える。

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