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K-BOOKフェスティバルに行ってきた(後篇)

ほらね。

こんなに時間が経ってしまった。絶対に勢いで書いた方が良かったのに、もう1ヶ月も前の話になってしまった。何のためにこんなに熱量を込めて書いたのだろうという気持ちが拭えないまま、12月を過ごしていたら「後篇楽しみにしています」という声をもらった。書き進める気になった。

改めて11月25日(土)と26日(日)に東京は神保町にて行われた「K-BOOKフェスティバル」を勝手に振り返る。今回は2日目のレポートである。

❶ イ・テゴン×内沼晋太郎対談 日韓の本屋の未来を語る―本と街と人をこえて―

ブック・コーディネーターの内沼晋太郎さんと、全羅北道高敞郡月峰(전라북도고창군월봉)にある廃校を利用して地域コミュニティ「本の村ヘリ(책마을 해리)」を主宰するイ・テゴンさんによる対談。

ちなみに、私は韓国の行政区画及び地名が未だに全然分からない…。そろそろ支障が出てきている。全羅北道(日本語だと一般的には「ぜんらほくどう」と音読みするのだろうか)は、韓国の南西部に位置していて、その全羅北道の中でも海に面した高敞郡に「本の村ヘリ」があるみたいだ。特に沿岸部の干潟は渡り鳥の重要な中継地らしい。きっと素敵な場所だ。

▲こちらの動画に「本の村ヘリ」が映っている。(パク・ウンビン様♡)

その高敞郡月峰にある廃校を買い取り「本の学校」として様々な企画を立て地域コミュニティを形成しているイ・テゴンさん。詩人学校、漫画学校、絵本学校などさまざまな本にまつわる学校を開講していて、韓国全土から集まった生徒らは、ここで文章を書き、編集をして本を作るというプロセスを学ぶ。最後には、実際に本を出版するそうだ。良いなぁ。

その他にも、コチャン国際エコ芸術祭(干潟の近くにあるという地理を生かし、海辺に溜まったゴミを拾ってオブジェを作る)、惑星地球人文学(人類中心ではなく地球中心で人文学を捉えるためのワークショップ)、本映画祭(絵本が原作の映画を鑑賞する会)など、視野を広げたり、観点を変えることで新たな発想や考え方を得る様々なワークショップを行っている。

70代、80代の地域住民(おばあちゃん)を対象とした絵本制作のワークショップでも、実際に出版された本が大きく話題になっているらしい。また、地域の教師らと教育コンテンツを制作するという取り組みも数年続いているという。出版人の育成、地域社会への貢献、文化的空間の創出、環境問題へのアプローチ……すごいなぁ(感想が幼稚)。

「本の村ヘリ」には図書館もあるし、本屋もある。入場料は本を1冊買うこと。でも、上記で示したとおり、イ・テゴンさんは「“本を作る場”を作る」ということに重きを置いているそうだ。

大学では韓国文学を専攻して、卒業をする前から出版に携わっていました。大学院に進むと、より具体的に韓国の文字や言語がどのように作られていったのかを学んだのですが、紙も活字もアジアで発明されてそれが西洋に渡っているんです。それなのに、なぜアジアには文学的空間としての本の村がないのだろうかと考えました。ヨーロッパにあるような本の村は古本屋が集まって町を作っていますが、アジア(特に東アジア)には、本を生産できる基盤がずいぶんと前からできている。なので、東アジアに作る「本の村」は本を消費するところではなく「本を作る空間」「著者が生まれる空間」にしたいと思いました。

惚れ惚れする。

また、あえて地方で「本の村」を営む理由として

都心には、人文学のインフラというものがありますが、地方にはないんです。本の村は総合的なインフラ空間として(地方にあることに)価値があるのではないかと思います。

ということをおっしゃっていて、それが相当に響いた。

地方に住みながら小さな本屋を営む私が、何故本屋をしているかを問われれば「田舎ではそもそも良質な本に触れる機会がない。機会がないだけで、その機会を提供すれば本の良さに気づいてくれる人がたくさんいると思うから」などと答えるようにしている。

でも、最近考えていたのは、まさにイ・テゴンさんがおっしゃっていたようなことだったのである。

「人文学のインフラがない」ことに対する不満とか、渇望。「人生って何なのか」「生きるのって何でこんなに大変なのか」、人間とか人生とかいうものを軸に、答えが出ない問いについて考える空間っていうのが、なんか本当に全然なくて。マジでつまんない。みんな、そういうこと考えないんかな?私だけなの?

そういう場所には必ず傍に本があるはずなんだけど、そういうところがそもそもない。だから、うちは移動書店だけど、空間も作ってみようと思って2023年は満月の夜にだけ開く本屋をやってみたりもした。

地方で本を媒介にして生きている(これからも生きていきたい)私にとって、イ・テゴンさんのお話はスケールの違いこそあれ、大いなる慰みとなった。そして「もっと仕掛けていかねば」と思った。ないなら作らないとダメだ、と。

次回、韓国に行くときは必ず訪れたい場所だ。


❷ 한국에서 왔어요!(ハングゲソ ワッソヨ!)

↑これは「韓国から来ました!」という意味。

この時間は、K-BOOKフェスティバル開催に合わせて来日された著者や訳者の方からお話を伺った。

お一人目は絵本『おとうさんをかして』の著者ホ・ジュンユンさん。通訳は、この絵本の翻訳もされた古川綾子さん。あ!NHKの『K文学の散歩道』の講師を務めた方だ!この数年で、尊敬すべき韓国語の翻訳者の方々をたくさん知ったので、芸能人に会えたような気持ちではふはふした。

子どもの頃にお父様を亡くしたご自身の経験が反映されたこの絵本は、父の喪失の生傷が癒えていない私にはあまりにリアルで、まだ読める気がしないので、時期を待って読もうと思っている。

ホ・ジュンユンさんは、未邦訳の『手を差し出した(손을 내밀었다)』という絵本も出版されていて、こちらもチョ・ウォニさん(絵)とタッグを組んでいる。

2015年にシリアからの難民ボートに乗って海を渡る途中で亡くなり、トルコの海岸に打ち上げられた男の子、アイラン・クルディの死についてがモチーフになっているという。こういう絵本って日本にはあるのかな。

あと、ホ・ジュンユンさんの声とお話の仕方がとても可愛らしくて素敵だったことも書き添えておきたい。まだ全然韓国語ができない私だけど、この2日間で聞いた韓国の方の中で一番聞き取りやすいのがホ・ジュンユンさんだった。あと、お洋服の感じが完全に好きだった。「あ、好き」ってなった。赤や水色のお花が立体的に施された白いニットに、柔らかな黄色のロングスカートを着こなすホ・ジュンユンさん。好き。

お二人目は、『ウネさんの抱擁』の著者チョン・ウネさんとそのお父様。チョン・ウネさんは、発達障がい者でダウン症候群でもある(人物の紹介するとき、その人のもつ身体的特徴をお話しすべきかすごく悩むが、今回は書誌情報をそのまま引用した)。

チョン・ウネさんは、カリカチュア(似顔絵)作家として、これまで4,500名を超える人々の似顔絵を描かれてきたらしい。今回、初めて存じ上げた作家さんだ。チョン・ウネさんもお召し物がとても可愛らしかった!

チョン・ウネさんの言葉は、まっすぐで嘘偽りがない。

ウネさんは、絵を描き始めるまでのことを「洞窟(동굴)の中にいたようだ」と表現されていた。すごく暗い闇のなかにひとりぼっちでいたのだろう。「동굴」という韓国語を、このとき初めて聞いたけど、たぶんもう忘れないなと思った。

この言葉を聞くたびに、その洞窟から光を見だしたチョン・ウネさんのことを思い出すだろう。抱きしめ合うことが大好きなチョン・ウネさん。「東京の方ともハグしないといけないですね!」とおっしゃっていた。

3人目は、『ふつうのノウル』を翻訳された山岸由佳さんが登壇。ご挨拶だけの数分間だったが、これがとっても嬉しい出会いとなった。後述する。


❸ 日韓SF作家対談 キム・チョヨプ×小川哲 -時をこえ、自分をこえて-

目玉企画だったのだと思う。ついに先着50名の椅子に座りそこねた。私も特に楽しみにしていたプログラムだったのだが、SF作家のキム・チョヨプさんのことばかり考えていて(ファンです)対談相手の小川晢さんのことを忘れていた。

『君のクイズ』の作家さんじゃないか!

今年の初めに一気読みした作家さんだ!今年、一気読みした本は『君のクイズ』しかない。直木賞作家ですよ。そりゃ誰もが楽しみにするだろう。

東京大学の理科一類から文転して教養学部を卒業。大学院ではアラン・チューリングについて研究された小川さんと(私いまwiki見たんだけど奥様が山本さほさんて知ってびっくりしている)、化学を専攻し大学院でタンパク質センサーの研究をしてきたキム・チョヨプさん。とても高いところで学び続けてきた人の言葉は本当に魅力的だ。ここでは、脳に刻みつけたい言葉をつらつらまとめてみる。

(基本的に通訳さんが通訳された内容をそのまま書き起こしているのですが、若干改変しています。文脈のなかで生の言葉を追うほうが良いに決まっているので、気になる方はぜひ動画をご覧ください!)

私の小説の中には、登場人物が他の世界に行ったり、自分が属しているところから他のところに行ってそこからまた弾かれてしまったり、さまざまな出会いがあったりということが描かれていますが、そういったストーリーは現代社会を生きる私たちの人生にも似通っているのではないかと思います。私たちはどこかに属してはいるけれども、所属感を得られないまま生きていたり、自分のアイデンティティを探しながら奮闘している人たちが存在していると思うんです。(キム・チョヨプさん)

小川さんは、キム・チョヨプさんの作品について、(キム・ウォニョンさんとの共著『サイボーグになる』のなかで)「我々人類は人間の在り方について暗黙のうちに異常と正常を切り分けている」という指摘があるということに触れつつ、以下のように読み解かれていた。

キムさんの作品にも「人間とはこうあるべき」という「正常」を押し付けられることによって苦しんでいる人たちが話の中心になることが多い。単に身体的なものだけではなく、精神的な、社会にうまく馴染めないなど、いろいろなかたちで「正常」や「普通」を押し付けられて困っている人がたくさん出てくるのが共感できるところ。さらに、世界自体がある種の正常を問われている作品が多いのかなと言うのが僕の読解。個人に対して押し付ける正常を世界に対しても押し付けている。(小川さん)

すごい。(繰り返される貧弱な感想)

私もこんな読解力が欲しい。頭よくなりたかったな。こういう感想しか出てこないのが、どうしようもない。

僕が小説を書くときに一番大事にしているのは「他者を知りたい」という気持ちなんですね。『君のクイズ』でいえば「クイズプレーヤーってなんであんなに真剣にクイズをするんだろう」というのが、僕が小説を通じて考えたいことでした。僕が小説を書く上でするチャレンジというのは、自分にとって分からない存在や、未知の存在について考えること。自分から遠いものだと思っても、分かり合えるかもしれないという希望を捨てないことが僕の中での挑戦です。(小川さん)

現実が嫌で他の時空間に飛んでいきたいという気持ちがあって、未来を多く描いているような気がします。過去には答えがないと思っているのかもしれません。それは、私が女性作家だからかもしれませんし、過去にあまりノスタルジーを感じたり、前向きな印象を感じることがなかったんです。だから未来に行って「未来における過去」や「未来の未来」のようにさまざまな重なりを描くことによって恋しさ、寂しさのようなものを楽しんで書いていたように思います。最近は、暗いことでいっぱいになっている世界のなかにも光を発見していくという作業が、まるでSF作家がディストピアのなかから光を見出していく作業に似ているのではないかと思うようになって、そのことに意味を感じるようになってきてもいます。(キム・チョヨプさん)

「過去には答えがないと思っているのかもしれない」と「それは私が女性作家だからかもしれない」はどう結びついているんだろう。質問すればよかった。

宇宙人(究極の他者)って、僕たちの価値観や常識や前提を共有していない存在なわけですよね。とりわけ生物学的に考えた場合は、腕と足が2本ずつあるのか、脳みそがあるのか、どういう考え方でどういう見た目かも想像がつかない。宇宙人について考えることは、他者について考えることのいちばん極端なかたちなんですね。(中略)僕は小説を通じて、自分が持っている偏見や、自分が勝手に常識だと思い込んでいることや、自分の誤った価値観を小説を書くことを通じて描きたい。自分で気づくことができればというのが人間としての希望なんですね。(小川さん)

他者を理解することを、小説を書くことを通じてするというのは、小説家ならではの答えであると感じた。私も、他者を理解したいという一心でなるべくたくさんの本を読んでいるが、逆にそれしかできない。書くことそのものや、書く過程のなかで学び、考えることで他者を理解していくということ。それは、読むことよりもより深く他者を理解しようとする行為である気がする。

しかし、他者を知る、または何かを理解するというのは、ややもすれば危険性や落とし穴があるものだとも思うんです。私が化学を専攻しながら感じていたことですが、理解するということは、それを突き詰めていくと、ときには相手が望まないものであったり、対象となるものが壊されてしまう場合もあります。ありのままの状態で受け入れるのではなく、その対象を理解することを追い求めていくと暴力的に扱うことにもなりかねない。そのような危険性も含む行為だと思うんです。それらがすべて「理解する」というプロセスだと思うのですが、だからといって私は「理解する」という行為を否定的に捉えているのではありません。「理解する」「理解しようとする」という行為のなかにその行為が孕む危険性を理解した上でアプローチしている。そういった研究者などがとても好きですが、何かを知ろうとするというアプローチは、もしかしたらそのことによって自分自身のことを省みて覗き込む。自分自身を省察する行為にもつながるのだと思います。(キム・チョヨプさん)

ここで進行役のカン・バンファさんから「全知全能という言葉がありますが、人間として生まれた限り全治というのは不可能ですよね。(中略)お二人が思う全知とはどういうイメージでしょうか?」という質問をされる。なんて難しい質問なんだろう!ワクワク!

(この空間、良い意味で異様だと思った。作家が思い描く「全知全能」について不特定多数の読者に共有される場というのが、本当に斬新で。とにかく良かった)

他人を自分がわかるはずだと思い込んでしまうことは、ひょっとすると自分の都合よく、自分の理解したいように理解してしまうという恐怖もはらんでいる。理解するということ自体は知ろうとするということや、ただ受け入れるということのもう一歩奥にある概念だと思います。人と人はお互いを理解し合おうとすることはあると思うのですが、だからといって自分はどんな存在でも理解できるはずだって思うことは非常に危険なことだと思う。だから僕は全知全能という存在がもしいたとしたら、すごくおこがましいやつだなと思う。お前なんかに俺の何がわかると言ってやりたいですね。(小川さん)

人間が持っているほとんどの知識は、もちろん客観的な部分もありますが、同時に社会的な脈絡の中でもっているものがとても多いと思うんです。同じ知識を巡っても、見方や観点によって知識は違うものになってくると思います。だから全治という言葉、全知的な存在があるとすれば、おそらく人間が持ちうる全ての観点をもっている存在でなければ、不可能なのではないかと思います。(キム・チョヨプさん)

(゚Д゚ ) ホエェェェ
(稚拙な言葉ですら表現できないほど感嘆している)

私は自分自身が物理的な現実に縛られていると感じます。化学を研究してきたわけですけれども、私が世界に対してもっている観点がやはり物理的な世界、そのルールに縛られているような気がして、本来SFであればその物理的なルールを超えてそれを破壊したり荒唐無稽に突破していくことが面白さでもあると思うのですが、そういうものを書こうとすると、自分の中に抵抗感のようなものが湧いてしまいます。(キム・チョヨプさん)

私は、SF小説をほとんど読んだことがない。

そんな私がキム・チョヨプさんの作品を楽しく読めるのは、彼女のSF世界が彼女が学んできた化学的な法則を基に築かれていて、現実世界と地続きにあるものだからこそだと思う。

近い将来訪れそうな未来、もしくは、どこかで交錯する可能性がある並行世界が描かれているような気がするというか。荒唐無稽で突飛ではないから、登場人物の恋しさや寂しさに共感して読めるというか……。

9月に発売された最新刊を購入して、サインを入れてもらった。私には、おふたりの話す内容こそがSF的で、今いる世界とはちょっと違う場所にいるような感じがした。とても良い時間だった。ゆたかなじかん〜


❹ 音更町ご出身の翻訳家さんに会えた!

「한국에서 왔어요!(ハングゲソ ワッソヨ!)」で最後にご登壇された翻訳家の山岸由佳さん。お名前に、どこか引っかかるものがあった。

今年の初め頃に十勝毎日新聞に掲載されていた音更町出身の韓日翻訳者さんだ。「こんなに身近に韓日の翻訳をされている方がいらしたのか!」と驚いた。現在は韓国にお住まいだが、もし今でも音更にいらしたらすぐに会いに行っていたに違いない。

「もしかして、音更ご出身の方では…」と、思って大急ぎで下記の記事を検索した。間違いなかった。こういうときの強運と自分の記憶力を心から褒めたい。

ご登壇の後、訳書『普通のノウル』を刊行した評論社のブースでサイン会の時間があるいうことで、この機会を逃してはならぬとお声がけした。十勝在住であること、北海道で移動書店をやっていること、どうして本屋をやっているのかを手短に自己紹介すると、とても好意的に受け入れてくださり「今度、十勝に戻るときは必ず連絡します」とまで言ってもらえた。「韓国に来るときは連絡してくださいね」とも。韓国の伝統菓子(薬菓)までお土産にくださった。嬉しかった。

お隣にいた『優等生サバイバル』(ファン・ヨンミ著)の訳者キム・イネさんも弊店に興味をもってくださり、山岸さんもキム・イネさんも、Instagramで相互フォローまでしてくださった。嬉しかった。

ただただ、嬉しかった!


❺ 通訳さんって本当にすごい。

以上で各プログラムに関する具体的なレポートを終えるが、2日間参加した感想を以下に述べる。

まずは「通訳さんって本当にすごい!」ってこと。

一連のプログラムにおいて、韓国の著者を招いたトークイベントは通訳さんが即時通訳をしてくれた。日本人と韓国人のゲストが一度に登壇する場合は、日本人ゲストによる質問や語りを韓国語に通訳する方と、それを受けて韓国人ゲストが答えた内容を日本語に通訳する方との二人体制で行われていた。

ゲストが話す韓国語を、高速でメモに取り、ときに言葉の意味を本人に確認してから日本語に訳す姿も見られた。ほとんど同時通訳。文章を組み立てる時間なんて全くない。どうしたらこんなことができるんだろう。どのくらい修練を積めば、こんなに尊いお仕事ができるんだろう。

ゲストが韓国語でお話をされる間、私も韓国語学習歴2年の成果をここで発揮しようと頑張ってリスニングをしたのだが「今だいたいこんな話をしている」という程度しか分からなかった。耳をそばだてるのと同じくらい、通訳さんのメモの取り方や通訳の仕方も注意深く、興味深く観察した。私はたぶん誰かが日本語で話した内容を、即座に日本語で言い直せと言われてもできないと思う。脳が足りない。

❻  改めて本屋をやっていて良かった

今回は、各出版社が自社で刊行されている韓国語の本を携えて即売会を行なっていたので、各社の代表や営業担当者さんとお会いすることができた。

本屋は基本的に「取次(とりつぎ)」と呼ばれる卸業者から本を卸してもらうので出版社との直接的なやりとりは、あまりない。私が本屋をやって利益を得られているのは、メーカーである出版社が良質な本を作ってくれているおかげだ。そのお礼もしたくて懇意にしている出版社さんにご挨拶をさせてもらった。

驚くべきことに、うちの本屋のことを「名前だけは知っている」という方が数名いらして、「月のうらがわ書店」という名がいつの間にか津軽海峡を越えて内地まで届いていることに若干の怖さを感じた。悪いことをするつもりはさらさらないが、この突飛な書店名とともに「どうやらとても良い本屋らしいよ」という噂も一緒について回るよう、これからも誠実に仕事をしていこうと改めて決意した。

いちK-BOOKの読者ではなく「北海道で移動書店を営んでいる韓国文学好きな書店員」というのが、いつのまにか私のアイデンティティになっていた。このアイデンティティがあるからこそ、山岸さんともお話ができたし、出版社の方とも交流ができた。

私はいつも本によって生かされている。

❻  まとめ!

(もうこの後は、完全に私的なことなので読まなくても大丈夫です)

行ってよかった。

最初から最後まで、この一言に尽きる。

私は年に数回、本当に気心知れた2人の友人と「会合」を開いていて、そこで生活する上で考えたことや、自他を理解するための意見交換みたいなものをしているのだが、去年末の会合で「これからの人生は韓国に賭けている」というような話をした。

そのときは『女ふたり、暮らしています。』『ママにはならないことにしました』などを読んで「今の自分の悩みに寄り添ってくれる本が韓国にはたくさんあるのかも?」と感じていた頃で、韓国語を学び始めて1年半が経っていた。

新しく何かを始めるにも(考えようによっては)遅いと言われてしまう、つまり決して若くない30歳も半ばに差し掛かって、急に韓国という国が眼前に開けて、毎日1〜2時間を韓国語に費やして、もしかしたらその時間に安定した収入を得られる資格取得の勉強とかすれば良いのにせず、韓国語が仕事にできるとも、仕事にできるレベルにまで上達できるとも限らないのに(そもそも仕事にしたいのか?)でもやっぱりいま、私の知りたいとか、学びたいとかは全て韓国にあるから、時間とお金を韓国に賭けてみるかって感じで言ったのである。

この勝負の結果はまだ出ていないとは思うのだけど、なんかもう射幸心を煽られちゃっている感じもする。韓国文学を起点に、どんどん韓国に夢中になっている感じ。その最中に「K-BOOKフェスティバル、行ってみるか」って行ってみて、当たっちゃった感じ。それで良い。全然楽しい。夢中になれるものがないと、地方に暮らすって私できなかったと思うし。

というわけで、もうすぐ1万字だ。

私は2024年も韓国語の勉強を続けるし、韓国の本を読むし、韓国にも行くと思う。それが今後の自分にどう作用するのか、今のところ分からないけれど、もう好きだから難しいこと考えなくてもいいやって思う。

好きな気持ちが続く限り、続けていこうと思う。だって好きなんだから。




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