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赤ちゃんスポーツマン[私小説/ショートショート]

 間もなく一歳になる息子が、うっかり夕方に寝てしまった。寝る準備を終えて、気づけば時刻は二十時半。目標就寝時間は二十一時。いつもなら三十分あれば寝てくれるが、きっと今夜は寝つきが悪いだろう、と覚悟はしていた。そして、私はその覚悟を胸に、電灯のリモコンに触れた。この時、まさかこんなに激しい寝かしつけになるとは、思いもよらなかった。

 ピッ。リモコンのスイッチを押すと、部屋の灯りが常夜灯に切り替わった。仄暗い部屋には、すっかり夜の雰囲気が充満している。眠りにつく頃合だ。間もなく三歳になる娘は、クマとキリンのぬいぐるみを抱えて、大人しく布団に入った。その様子を見て、私はいつものお決まりであるおやすみのキスを、娘の頬にした。すると、娘も私の頬にキスを返してくれる。しかもそのお返しが中々に濃厚なものなので、もう少し軽くでいいんだよ、と伝える。この一言もお決まりだ。その後、娘は彼女の弟にあたる息子の頬にも、濃厚なキスをする。そうして、大好きだよ、おやすみ、また明日遊ぼうね、と小さな声で言い合う。そうすると娘は満足するのか、静かに目を閉じて眠りにつこうとする。
 一方、息子の目は爛々としている。やはり眠くないのだろう。それでもいつも抱いて揺らしていれば、徐々に徐々に、あくびをし、目を細め、次第に眠りについてしまう。今日もそうなることを信じて、私は息子を優しく抱いた。しかし、この日は違った。どうやら息子は参加を表明していたようだ。赤ちゃん陸上競技会に――。

***

 赤ちゃん陸上競技会、本日初出場の息子選手。参加競技は赤ちゃん四種競技です。しかし、既に母親の腕に抱かれています。このまま寝てしまうのでしょうか。おや、急に体をひねり始めましたね。準備運動でしょうか。体を捻り、捩り、抜け出しました。
「だっだっだっ!」
息子選手は早速、一種目目の赤ちゃん競歩を開始しました。ここ数日、飛躍的に歩ける歩数が増えてきた息子選手、思ったより素早く歩きます。早速六歩進みました。
「でへへぇー」
何やら満足気な面持ちです。そんな息子選手を母親が追いかけます。本日不参加の娘選手は息子選手の動向を目で追っていますね。息子選手、一旦壁に手をついています。休憩でしょうか。母親が追いついてしまいます。いや、再び歩き始めました。また六歩進みましたよ。今度はタンスに手をかけ、すぐさま離しました。またしても六歩進みましたね。今度はソファに手をかけています。
あ、ソファに登り始めました。
「ぶぶぅー……」
息子選手、二種目目の赤ちゃん障害物競走を開始したようです。競歩の記録は十八歩でした。初参加にしてはまずまずの記録ではないでしょうか。
 すでに開始されている障害物競走の様子を見てみましょう。息子選手、既にソファを登りきっています。そのまま部屋の出入口の方へ向かっています。ソファの脇には息子選手が向かうことを予期して、既に畳まれたカーペットがクッション代わりに置かれています。これが本日の障害物競走のゴールです。息子選手、果たしてゴールできるのか。ゆっくり上半身から下りていきます。両手を伸ばして、のばして、両手が着地しました。引き続きゆっくり下りていきます。母親の手が息子選手のそばにあるのに、母親は中々息子選手を捕まえません。どうやら息子選手はゴールする前に捕まえると泣いてしまうため、ゴールするまで見守っているようです。と、話している内に息子選手、ゴールしました。無事障害物競走を終えました。
「えへへへへぇー」
立ち上がって、にっこりと、してやったりという顔をしていますね。その様子を見た母親が息子選手を抱きかかえます。
 息子選手、どうやら横抱きが嫌な様子です。母親が縦抱きに切り替えます。正座した太腿の上に息子選手を座らせ、まるで胸の音を聞かせるかのように抱いています。息子選手は断然縦抱き派なので、このまま寝てしまうかもしれません。残り二種目、無事に記録を出せるでしょうか。あれ?見てください。
「あうー!あうー!」
息子選手が縦抱きにも抗っています。母親の太腿に一生懸命足をかけ、膝を曲げたり伸ばしたりして脱出を試みているようです。母親の腕が息子選手の背中に回されていますが、それにも抗うように仰け反っています。膝を曲げ、伸ばして、ぐんと仰け反る。この動き、赤ちゃん高跳びですね。三種目目です。あとは着地するだけ。息子選手、また体をひねりはじめました。右回転にひねります。勢いに負けて、母親の両腕の拘束が解けました。息子選手、両腕を伸ばし、見事に腕から着地を決めます。高跳びの記録は五十センチでした。
 再び母親に縦抱きで捕らえられた息子選手、残すは最終四種目目のみとなりました。果たして全ての種目をこなすことができるでしょうか。気づけば娘選手はすっかり眠りに落ちています。そんな娘選手の傍らにあるキリンのぬいぐるみを、母親がおもむろに掴みます。それを、息子選手に渡しましたね。息子選手はぬいぐるみを抱えると寝つきが良くなる傾向にあります。母親の優しい揺れも相まって、このままでは四種目目に入る前に寝落ちてしまうかもしれません。おっと、息子選手、ぬいぐるみを左手で掴みました。ブンブン、ブンブンと勢いよく振っています。
「んうっんうっんうっ!」
おおきく振りかぶって、息子選手、投げました。これぞ四種目目、赤ちゃん投擲です。しかし、一投目は息子選手のすぐ横に落ちました。中々飛距離が伸びません。息子選手、体をよじり、左手を伸ばし、再びぬいぐるみを掴みます。ブンブン、ブンブン、振りかぶって、投げます。また近くに落ちてしまいました。また掴んで、ブンブン、ブンブン、振りかぶって、投げます。出ました、息子選手の新記録。飛距離三十センチです。息子選手、無事に赤ちゃん四種目競技を全て終えました。随分と穏やかな顔をしています。
「だぁー……だぁー……」
やり切った、燃え尽きた、そんな顔でしょうか。

***

 腕の中で、ようやく眠りにつきそうになった息子とともに、私はゆらゆらと揺れていた。優しく優しく揺れていた。息子の瞼がゆっくり閉じていく。あと少し、あと少し。しかし、私は気付かないふりをして先延ばしにしていたあることが、間違いなく押し寄せて来ていることに気づいてしまった。尿意だ。我慢すれば、私が我慢さえすれば、息子はもうすぐ寝入り、そのまま穏やかに眠り続けるだろう。しかし、万一ここで漏らしたら、それこそ息子を起こしてでも後処理をしなければならない。それ以前に、大人の人間としての尊厳が傷ついてしまう。私は意を決してポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。
〈漏れそう。助けて〉
夫にメッセージを送る。数秒後、夫が現れた。私は急いで息子を夫の腕に渡し、トイレに駆け込む。すぐさま事を済ませ、手を洗い、戻る。
「う゛わ゛あ゛ぁー!」
息子がよく泣いていた。堂々とした、貫禄のある泣き顔を披露している。どうやら今度は、泣き相撲大会の赤ちゃん力士として土俵入りしたようだった。

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