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さくらんぼさん[私小説/ショートショート]

 「さくらんぼ食べる!」
 本日三歳になりたてホヤホヤの娘が、嬉々として言った。昼食のデザートに、貰いもののさくらんぼを食べたいそうだ。
「いいよ。種取ってあげるね」
そう言って、私は小ぶりなさくらんぼを十粒洗って皿に乗せた。キッチンバサミでそれぞれ二等分するように切り込みを入れ、そうして実を割って種を取り出す。すると、全部で二十片のさくらんぼになった。それを娘に差し出す。
「食べていいよ」
娘は皿の中を見るなり、目を輝かせ、
「うわぁ、いっぱーい!」
笑みをこぼした。
「今日はお誕生日だから、デザートもいっぱいあげるよ」
それを聞いた娘は、一生懸命指を曲げ伸ばし、三の数字を表現した。
「んっと、んっと……これ!」
得意気な顔をしている。と思ったら、
「これ、何だっけ?」
小首を傾げた。
「三歳だよ」
「三歳!」
再び得意気な顔をしている。
「三歳だから、いっぱい食べられりゅ!」
三歳になったけれども、まだたまに舌足らずなところが出てくる。
「いただきまぁす!」
元気よく言いながら、スプーンを右手に握り締めた。早速一片のさくらんぼを掬う。
「……」
先程の威勢はどこへやら、じーっと、スプーンの上のさくらんぼを見つめている。
「さくらんぼさん、食べてもいいですか?」
質問の後、少しばかりの沈黙が流れる。
「……食べてもいいですか?」
返事を待っているようだ。これは母親にアテレコせよと言う圧力だ。
〈いいですよ〉
私はさくらんぼ役になって返事をした。
「やったぁ!」
娘は嬉しそうに食べる。そうして、また次のさくらんぼを掬う。
「さくらんぼさん、食べてもいいでしゅか?」
舌足らずが見え隠れしているが、気にする事はない。
〈いいですよ〉
「やったぁ!」
再び嬉しそうに食べ、新たなさくらんぼを掬う。
「さくらんぼさん、食べてもいいですか?」
もしかして、
〈いいですよ〉
これ、
「やったぁ!」
ずっと続くの?
「しゃくらんぼさん、食べてもいいですか?」
二十片全部?
〈いいですよ〉
嘘でしょ?
「やったぁ!」
娘は私のそんな気持ちなど、構うことは無い。
「さくらんぼさん、食べてもいいですか?」
いや、気づくことさえ無いのかもしれない。
〈いいですよ〉
私は無心で返事を続けた。
「やったぁ!」
……そうして、かれこれ何度このやり取りを繰り返しただろうか。
「さくらんぼしゃん、食べてもいいですか?」
私はふと思った。
〈いいですよ〉
そもそもさくらんぼに、拒否権があるのだろうかと。
「やったぁ!」
娘は延々と食べることへの是非を問うているが、
「さくらんぼさん、食べてもいいですか?」
その相手はさくらんぼだ。
〈いいですよ〉
食べ物なのだ。
「やったぁ!」
しかも娘の好物、果物である。
「しゃくらんぼしゃん、食べてもいいですか?」
否が応でも、食べられてしまうのではないだろうか。
〈いいですよ〉
万一拒否したところで、それは受け入れられるのだろうか。
「やったぁ!」
さくらんぼに権利はあるのか。
「さくらんぼさん、食べてもいいでふか?」
まるで食に関する数多の主義者のようなことを考え始めてしまいそうだ。
〈いいですよ〉
娘はどう考えているのか。
「やったぁ!」
それとも、
「さくらんぼさん、食べてもいいですか?」
最初からさくらんぼの権利を認めているから、
〈いいですよ〉
だからこそ聞いているのか。
「やったぁ!」
果たして、さくらんぼの権利とは。
「さくらんぼさん、食べてもいいですか?」
皿の上には、残り三片のさくらんぼが見える。
〈食べちゃやだ〉
娘はぴたりと動きを止めた。
「やなの?」
〈食べないでぇ……〉
娘は既に空になっていた茶碗に、そっとさくらんぼを置いた。
「大丈夫、食べないよ。ここにいていいよ」
その言葉は、とても優しく柔らかな声で話された。さくらんぼは食べられずに済む権利を認められた。その後再び、娘の視線がさくらんぼ片たちの皿に向けられる。
「んー……」
残り二片のさくらんぼとにらめっこをしている。
「さくらんぼちゃん、寂しいでしょ。お友達よ」
娘は残り二片のさくらんぼも茶碗に入れた。三片のさくらんぼが並ぶ。
「これで寂しくないよ」
さくらんぼは、友人と共に過ごす権利をも認められた。一粒にも満たない一片のさくらんぼが、こんなに思いやりのある待遇を受けられるとは、思わなんだ。まるで生き物のような、最早人間のような、そんな扱われ方に近いと思えた。すると、三片の内一片のさくらんぼが口を開く。
〈娘ちゃんに今食べてもらわないと、腐って食べられなくなっちゃうよー〉
今度のさくらんぼは、食べてもらう権利を主張した。
「そうなの?」
娘は眉間にシワを寄せ、何やら難しそうな顔をしている。
〈そう、だからぼくのこと食べてー〉
「いいよ!」
一瞬で食べられた。スプーンで掬う瞬間さえ見逃しそうになるほどの、本当に一瞬の出来事だった。さくらんぼの食べてもらう権利は、無事に認められた。
〈私も食べて欲しいなー〉
「いいよ!」
またしても一瞬で食べられた。さくらんぼ瞬間食い選手権があれば、右に出る者はいないだろう。
〈ぼくは食べないでぇ……〉
残すはたった一片のさくらんぼ。
「わかった」
すんなりと認められた。けれど、このさくらんぼもこのままでは腐って行くだけ。娘の体の栄養となる方が、私からすればずっと有意義だ。
〈けど、ぼくも腐っちゃうから、食べてもらった方がいいのかなぁ?〉
「うん……」
娘は言いかけて、少し考えてから再び口を開いた。
「大丈夫、娘ちゃん、怖くないよ」
〈怖くないの?〉
「うん、娘ちゃん、優しいよ。優しいお姉ちゃんだよ」
それを自分で言うのはどうかと思うが、事実なので否定はしない。
〈優しいの?〉
「うん、だから大丈夫だよ」
娘が優しく微笑む。
「じゃあ、」
さくらんぼは決心する。
「食べてもいい「やったぁ!」
一瞬で食べられた。娘が食い気味に声を出した刹那のことだった。生き延びようと権利を主張していたさくらんぼが。その権利が認められ安堵していたさくらんぼが。晩年まで友人たちに囲まれ、思いやりのある生活を送っていたさくらんぼが。友人たちが相次いで天に召され、まるで後を追うかのように。本当に一瞬の出来事だった。
 私は人生で初めて、さくらんぼを偲んだ。

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