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自死した恋人を振り返って[私小説/短編]

(※大半を無料で読めます。知人にnoteのサービスを紹介するにあたり、私が病んでいる部分を読まれてしまうと恥ずかしいので、後半部分だけを有料化しました。)

***

 彼は虐待されていた。暴力による支配を受けていた。それは彼が物心つく前から起こっていたことで、彼にとっては当たり前だった。彼の家庭での記憶のほとんどは、暴力を振るわれている記憶ばかりだった。その暴力に対して彼が思うことは、ただひたすら、痛い、というその一言に尽きた。

 彼は幼いながらに少しずつ気づきはじめた。自分の家庭は普通ではないと。幼稚園に小学校と、他者との関わりを得るにつれ、それをひしひしと感じた。学校では誰も自分を無意味に責めない。責めたとしても暴力での解決を望むことはない。互いに話し合いができる。互いに謝ることができる。問題が解決すれば、それはもうおしまい。何日も何週も何ヶ月も責め立てられることはない。何よりも、人に手を上げてはならないと多くの人が口を揃えて言う。そう、世の中は暴力を否定していた。

 彼は小学生になり、習い事で空手をすることになった。暴力を受けることには慣れていたが、己が拳を振るうことには抵抗があった。しかし、ここで懸命に取り組まなければ、家庭での暴力は一層激しいものとなった。空手は武道と割り切った。実際に空手は武道であるし、それに他人に暴力をふるうために行うものではないということもわかっていた。自らの鍛錬に、護身にと、害するためではなく守るために使う術だとわかっていた。それでも人に拳を向けることに対して、どことなく複雑な気持ちを抱いていた。ただし、結局これは数年後、親の気まぐれで辞めることになる。

 彼はどんなに酷い目にあっても、とても優しい人であった。暴力を毛嫌いしていた。自分は絶対にそんなことをしない、と断言していたし、実際友人と対立したところで暴力を振るうことなどなかった。謝るのも彼の方からであることが多かった。しかし家に帰れば暴力、暴力、暴力。彼の我慢はとうの昔に限界を越えていた。

 十歳になる前ごろから何度も自殺未遂をした。テレビドラマや漫画、小説の真似をした。手首を切ったが湯船に浸ける勇気が出なかった。首をつったがロープが解けた。首をつったが紐が千切れた。首をつったが苦しくて抜け出してしまった。飛び降りたが骨折で済んだ。首を切ったが思った以上に勢いよく血が吹き出し、途中で包丁を手放し止血してしまった。すべてが失敗に終わった。

 小学生のある時、顔に派手な怪我を負ってしまった。病院に連れて行かれることはなく、他人にバレることを恐れられ、彼は家で留守番を命じられた。父は仕事へ、母はパチンコ店へ出かけ、彼は日中家で一人過ごした。それが三日ほど続いた頃、クラスメイトの女の子が一人、彼の家に訪れた。彼女は学校でよく一緒に遊ぶ友達の一人で、家が近いからと一緒に帰るような仲だった。その日は授業のノートをコピーして持ってきてくれていた。彼女は学校でのできごとや授業の要点を話して、そして帰っていった。二日に一度やってくる彼女と話す時間は、とても穏やかなひとときだった。

 顔の怪我も目立たなくなりつつあったある日、彼女がインターホンを鳴らした。しかし運悪く、その日は父の帰りが早かった。父は黙って玄関へ行き、ドアスコープを覗いた。ランドセルを背負った少女を見たのだろう。そのまま静かにリビングへ戻ってくると、暴力の嵐が巻き起こった。父は勘づいた、と言うより、思い立って思い込んだのだ。彼女はきっと何度か家に訪れていただろう、そして息子の顔の怪我を見たのだろう、息子が虐待を受けていると思ったかもしれない、と。扉越しに微かに、大丈夫ですかと問う彼女の声が聞こえた。きっと大きな音に驚いたのだ。父は手を止め、静かに玄関の方を見つめた。その様子を見て察した彼は、玄関へ行き扉越しに彼女に伝えた。階段で転んでしまったけれど大丈夫、しかし風邪を引いていてうつすと悪いから今日は会えない、と。

 数日後に登校すると、彼女はいなかった。家庭の事情で引っ越して、転校したそうだ。机の引き出しに彼女がとったノートのコピーが入っていた。その中には新しい住所と電話番号が書かれていた。その後、彼女とは数ヶ月に一度ほど電話で会話をした。彼女の方からかけてくることの方が多かった。しかし、中学生になった頃からはすっかり頻度が減り、いつしか電話をしなくなっていた。

 そんな風に時の流れに身を任せていると、気づいた頃には高校生になっていた。彼女から久々に電話がかかってきた。久しぶり、電話できなくてごめんね、と彼女は言った。彼は彼女に会いたいと、電話口で約束を取り付けた。

 久々に会った彼女は、外見は少し大人びていたが、性格はあまり変わらない様子であった。すると彼女が、この約三年間連絡をしてこなかった事情を話し始めた。彼女は転校先でいじめにあっていた。特に中学校に上がってからはそれがエスカレートした。ネガティブなことばかり考えてしまって、電話しようにもかける言葉が思いつかなくて、と言って彼女は笑った。その後、中学校を卒業してそれが落ち着いたので連絡したと言うのだった。彼は長年の想い人であった彼女に告白した。そして、長年両想いであったことを知った。

 彼女と付き合い始めてからは自殺未遂をしなくなった。未来がある、そんな希望を持てるようになった。もうあと数年したら成人する。そしたら早く就職しよう。そしたら家を出てしまおう。そして早く彼女と暮らしたい。そうすれば、自分の人生に初めての安寧が訪れるのだ。

 ただ、彼の我慢が限界を越えてからもう何年経っただろう。もう彼の中には黒ずんだおどろおどろしい絶望とも言える気持ちが溢れかえり、それは溢れかえったその先の行き場さえも完全になくすほどの量であった。限界を越えた先にもまた、限界があったのだ。

 また時は流れ、彼女はその日、高校の同窓会へ向かっていた。卒業して一年後だった。携帯電話は鞄に入れて、その鞄は自転車のかごに入れていた。一時間近く自転車を漕ぎ、目的地に着いた彼女はふと携帯電話を確認した。彼からの着信が数回入っていた。電話をかけようとした途端、見知らぬ番号から電話がかかってきた。普段は間違い電話かと無視するところだが、その日はなんだかすんなり電話に出た。彼の親だった。

 「息子が死にました」

 彼女と付き合ってから初めての自殺は、初めての成功を迎えたのだ。もう少しすれば、親元から離れられたかもしれないのにね。

 彼女は同窓会に出ることなく家に帰った。その後仕事も休職した。彼の親は矛先を向ける相手がいなくなり、彼女に日に何度も連絡してはこう言った。お前のせいで息子が死んだ。お前と付き合うまでは生きていたのに、と。電話に出なければメールが送られてきた。メールに返事をしなければ警察に通報された。

 彼女もさすがにそこまで馬鹿ではないので、彼の自死の理由は遺書など無くともわかる。彼女といる時、彼はいつも穏やかな気持ちになれると言っていた。そして、早く家族から逃げたい、早く一緒に過ごして暴力のない生活をしたい、と常々言っていた。そう、彼は家族から逃げたかったのだ。

 彼女は当初、彼の家族に対しては、彼との関係を繋ぎ止める、証拠づける、数少ない糸のようなものだと思っていた。だから彼らからの連絡を受け止めていた。しかし、彼女はどんどん精神的に病んでいき、とうとう決断した。彼の家族から逃げよう、と。ただし、彼女の頭の中は既に彼の親の言葉がぐるぐると駆け巡るようになっていた。お前のせいで死んだ、その言葉は呪いのようだった。そして彼女はふと考えてしまった。彼の心臓に銃口を突きつけたのは彼の家族だとしても、もしかしたら本当に、引き金を引いたのは自分だったのかもしれない。

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