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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと4

少しだけ私の話を。平成十八年(二〇〇六年)に『きものの花咲くころ』という本を上梓しました(一昨年に『きもの宝典』として再版)。十年在籍した主婦の友社の、看板雑誌『主婦の友』から、きもの関連の記事を選り抜いて再編集し、解説をつけたもので、大正六年(一九一六年)に創刊された『主婦の友』九十年分に目を通してみると、表紙や口絵、テーマ、執筆陣、記者の語り口などから、リアルに時代の匂いを感じることができ、濃縮されたその時間が今も体に染み込んでいます。

戦前の生活を当時の雑誌を通して知ることで、父が過ごした戦前の上野桜木町の日常を、うっすらとではありますが、感じ取れるようになった気がしました。この本が出版された時、父は「おふくろも『主婦の友』を買ってたな。きものの洗い張りもしてたよ」とふと思い出したようにつぶやきました。

では今回も、父が書いた「思い出の記 故・尾崎一雄おじさんの一年祭」を引き続き引用しましょう。

上野桜木町時代、私は自分の家と同じように気兼ねなく、お向かいの尾崎家へ出入りしていました。おじさんの『暢気眼鏡』は、当時、一世を風靡した作品でした。そんなこともあり、女学生がよく家を覗きに来ていました。表札もしょっちゅう盗られて、つけ替えてもすぐになくなります。そのため、だんだん粗末になっていって、あるとき、墨が薄くて見えにくい表札になってしまっていました。私はそれが気になって仕方なく、意を決して筆に墨を浸し、名字を濃く書き直しました。我ながら上手くやったつもりだったのですが、大人から見れば、ただただ汚すだけの不出来という始末。おばさんは、すぐに犯人を割り出し、私を捕まえて高々と抱き上げながら、「あんたがやったんでしょ」と私の顔を表札にこすりつけるようにしたのですが、その二の腕の力こぶが逞しく、恐い思いをしました。そういえば、おじさんも力こぶ自慢で、ひょいと袖をまくってつくってみせてくれました。当時の大人はみな着物だったから、二の腕をすぐに晒せたのだな、と懐かしく思い出します。

第五回芥川賞を受賞し、一世を風靡した『暢氣眼鏡』は、尾崎作品の新境地と呼べるものです。志賀文学に心酔するあまりに自縄自縛状態となり、また昭和初年のプロレタリア文学全盛の時代から長くスランプに陥った尾崎さんが、苦悩ののちに悟りを得て、自らの道を切り開いたものでした。作品『なめくぢ横丁』に、執筆時の心境が綴られています。

長い間離れてゐた仕事に久しぶりで取りつき、先づ出来上った『暢氣眼鏡』といふ短編は、それまで先生(志賀直哉のこと)の眞似をしようとばかりあせつてゐた間違ひに氣づき、自分流になりふりかまはず書く、といふ心で、自分の愚を愚としてぶちまけたものだつた。心柄とは云へ、何と自分は愚事に愚事を重ねてきたものだらう、何と恥と悔に充ちた我が年月だつたらう。ああ、わツと一聲、透明な風となつて消え失せてもしまひたい。

『なめくじ横丁』など上野桜木町に引っ越す以前の様子を描いた作品には、近代日本文学に名を残す、錚々たる文士たちが多数登場しますが、いずれ貧しい彼らでした。しかし、文士の間にはごく緩やかな互助システムがあったようで、金に困りながらも算盤勘定などしもしない文士という人種の、作品に描かれた悲喜こもごもは、落語の「長屋の花見」的な可笑しみがあります。結婚して子どももできた尾崎さんと松枝さんは、そんな仲間たちの中で、尾崎さん曰く「貧寒を極めたその日暮らし」をしながら、執筆への情熱を取り戻し、そうして生まれた作品が、思いがけず芥川賞を受賞するのです。

そんな尾崎さん一家が、どうして上野桜木町(当時は下谷区上野桜木町。現在は、台東区上野桜木)に引越しをしてきたのか、その理由が『質屋について』という作品の中にありました。

翌十二年の初秋、私は上野櫻木町へ引越した。その春四月、最初の著書を出すと共に、小説の仕事にも少し身を入れる氣になり、「早稲田文學」の編輯を辭したのである。あとは淺見淵が引受てくれた。すると、前書いた通り、思ひがけなく七月になつて、その著書により芥川賞を受けた。その本を出した本屋が上野櫻木町にあり、主人が私の奮い友人であるため、仕事の片手間に出版の手つだひをしないかといふ話で、それも好し、と私は引受けたのである。ついては、近くがいいから、こつちへ來ないか、適當の家が近所にある、よからう、──それで櫻木町への引越しとなつた。

なんと芥川賞受賞が、父の家の前に尾崎さん一家が引っ越してきた理由だったのです。ところで、『大観堂の話』という作品に、芥川賞の賞品と賞金について触れている一節がありますが、賞品は懐中時計で、時によりロンジン、ナルダン、オメガ、と変わったようです(尾崎さんの時はロンジンでした)。大観堂は引越しを勧めた本屋とは違いますが(引越しのきっかけとなった本屋は砂子屋書房)、古書店兼出版屋、で、尾崎さんが早稲田第一学院の学生だった頃からの旧知であり、古本のやりとりのみならず、尾崎さんたちが始めた同人誌の出版を請け負い、また、尾崎さんの短編集や随筆集も出版していて、何かと頼ってお金を借りる相手でもありました。賞品の懐中時計もまた、その後、借金のかたに預けてしまったのです。「時計が大観堂に行つて、飲み代に化けた」と。しかもそれは、壊れていました。

酔ってゐる時、強く巻いたため、龍頭のひつかかりが無くなってゐたのである。それを直しにもやらず、大観堂へ持ち込んで金を借りたのだ。大観堂は私には全て無利子だから、とかく預けつぱなしになりがちだつた

つまり、質流れには決してならない安心できる預け先だったのです。賞金は五百円。現在の芥川賞が、やはり懐中時計と賞金百万円ですから、当時もそれに匹敵する金額だったのでしょう。ちなみに、そのころの公務員の初任給は七十五円でした。長女の一枝さんが尾崎さんから聞いたところによれば、質屋に入っていた松枝さんのきものなどを全て戻し、酒屋や米屋のツケを払い、松枝さんの好物のどら焼きを買ったら消えてしまったそうです。

「これを貰つた時は、滑稽でね。大體僕は、芥川賞なんて、考へてもいなかつた。僕なんか、うだつは上つていなかつたけど、たうはたつてゐたし、それに短篇集なんだから規格外なんだよ。だから意外でびつくりした。しかし、金が五百圓貰へるのは嬉しくつて、そいつを待ちきれずに、賞金を早くくれるやうに話して下さい、と瀧井さんに頼んだ。そしたら、早くくれたよ。賞金の催促をやつたのは僕だけだらうなア」

父が良かれと思って墨でなぞった表札について、少し触れましょう。試験と四軒を掛けて、四軒分の表札を盗む、もしくは四軒先の表札を盗む、など、合格祈願の受験生が表札を盗むという話は、私も大人たちから聞かされた記憶があります。実際に、わざわざ有名人の表札を盗む受験生がいたのは、井上ひさしのエッセイ『表札泥棒』からもわかります。この作品に登場するのは、医大受験生。井上宅の表札を泥棒する際に、ご丁寧に表札を拝借した旨、置き手紙を残すというものでした。

尾崎宅の表札泥棒は、受験生だったか、それとも、ミーハーなファンのイタズラ心だったか。尾崎さんの作品『ぼうふら横丁』の中に、表札(標札と表記されてます)を盗られたエピソードを発見しました。

当時は、著名人の表札を集めるという趣味があったようで、志賀直哉も横光利一も林芙美子も、盗まれて困る、とこぼしていたそうです。尾崎さんの場合は、上野桜木町に引越すと、これまで通り(以前の家もそうしていた)玄関先に名刺を貼っておいたら、砂子屋書房の店主から、「こんな無体裁はよせ」とたしなめられます。芥川賞をとったのに、という意味合いもあったのでしょう。「では、君書いてくれ」ということになり、上野広小路から木札を買ってきて、店主に書かせたのです。尾崎さんは悪筆で、それを晒すのがいやさに、たしなめた本人にまんまと書かせたわけで、表札泥棒は、文字を目当てに集めたとしたら、偽物を掴んでしまったのです。

表札泥棒は、幼い父には災難に見えたでしょうが、その表札を堂々と揚げた、と書いているように、尾崎さんにとっては、それまでの貧寒な暮らしから抜け出し、一躍有名人になった時期ですから、表札泥棒もまた良し、な気分もあったのではないかと、ふと思います。

松枝さんが大女ということは、前回にも書きましたが、さらに具体的な表記が『芳兵衛物語』にありました。逞しい二の腕を彷彿とさせる一文です。

遅生まれの十九だが、五尺二寸に十四貫といふ、女にしては大柄の方で、肉づきよく、色白く、人の顔さへ見ればニコニコせずには居られぬといふたちだつた。學校時代は運動の選手で、そんなためか、立居ふるまひに元氣よいところがあつた。

『芳兵衛物語』は、昭和二十四年(一九四九年)に書かれた作品で、『暢氣眼鏡』など戦前の芳兵衛ものから時を経て書かれた、三十三歳と十九歳の二人の愛の形を、洗練された筆致で描いた作品です。職なし、宿無し、一文無し、な尾崎さんと結婚した芳枝(松枝さん)。小さな揺れや戸惑いを重ね、おぼつかない足取りで日々を過ごしながら、夫婦の絆が育まれ、書くことで収入を得られる目処もついてくる、その終わりの一文を引用します。

不意の芳枝が、「あツ、風! この風、まるで春の風みたい!」と云つた。穏やかな風が、多木の頰に觸り、手摺りにかけた腕を撫でて脇にしみ込んだ。「うん。これは春の風だ。──いよいよ春になるんだな」「何だか、春の匂ひがするやうよ」昭和七年の三月初め、ふと忍び寄つた春の氣配であつた。

腕を撫でて脇にしみ込んだ穏やかな風。父が書いたように、二の腕をすぐにさらすことのできる、きものが当たり前だった時代の人が感じ取れる春の気配。なんとも美しい愛情物語のラストシーンです。

なお、多木とは、尾崎さんが作品で自身を表現する時に使う仮名です(まわりからザキさん、と呼ばれることからタギとなったのかもしれません)。

それでは今日はこれまで。上野桜木町の日々について、まだまだ書くことがありそうです。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!


※トップの写真は、谷中にある「上野桜木あたり」。昭和十三年(一九三九年)に建てられた三軒家が残り、飲食店などに利用されている。父たちが暮らしていた時代の建物。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。