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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと3

父は、尾崎さんが亡くなったのちも、未亡人となった松枝さんと晩年までお付き合いがありました。老いた松枝さんは、生まれ故郷の金沢に「まアちゃん、一緒に行こうね」と誘ってくれたこともあったそうです。きっと、子どもの頃からの親しみゆえ、気安く誘うことができたのでしょう。

松枝さんは気さくで開けっぴろげな人柄で、私も大好きでした。尾崎さんは痩せぎすの体に着流し姿、子どもにとっては近寄りがたさがありました。

尾崎家を訪ねると、たいがい尾崎さんは父と、松枝さんは母と私たち姉妹と、男女チームに分かれるようにして、お相手してくださいました。

では、父の「思い出の記 故・尾崎一雄おじさんの一年祭」を引き続き引用しましょう。

父の母、久子さんと松枝さんが姉妹のように仲良しになった、そんな思い出のシーンです。

松枝おばさんと私の母は、引っ越し当初、よく遣り合っていました。喧嘩の原因は大概が私のいたずらが過ぎてのことで、けれどそれがあってか、やがて姉妹みたいに仲良しになりました。二人してお揃いの着物や洋服を作って着たりするので、私は母と間違えて、おばさんに「おかあさん」と飛びついたこともあります。また、母が妹の雅子(のりこ)のお産で入院しているとき、家にいないはずの母の姿が台所にあって、おかしいな? と思って覗くと、それがおばさんだったこともありました。おばさんと母は、体型も似通っていたのです。

尾崎さんの作品『芳兵衛』の冒頭、松枝さん(作品では芳枝)について、ユーモアと愛を込めた紹介があります。困ったやつだが、可愛いくてね、と、そんなつぶやきが聞こえそうです。

芳兵衛、と云ふが、これはうちの家内で本名は芳枝。年は二十二の、身長五尺二寸に體量十四貫だから先づ大女の方だらう。ところがこれが身體に似合はず大の臆病者だ。臆病であるばかりか、僕の眼からは相當に思慮足らぬ方で、人前で云わでものことを云つてのけ、氣に入らぬことあれば誰の前でも文字通り頰を膨らし、嬉しいと腹の底をそのまま寫した程の顔をする。かう云ふたわいのないのを芳枝などと一人前に呼ぶ氣はせぬ。そこで芳兵衛。

私も妹も身長が一六六〜七㎝あるのは、「おふくろが大きかったからだ」と、よく父から聞かされました。五尺二寸は一五七・五㎝です。一九五〇年の日本の女性の平均身長が一四八㎝ほどですから、戦前ならばなおのこと、確かになかなかの大女だったことがわかります。「おふくろはそれより少し大きかったよ。五尺三寸五分だったかな。親父は五尺六寸」という父の言葉に、私はちょっと驚きました。父はかなり記憶力がいいほうではあるのですが、十一歳で死別した両親の身長をどうして憶えているのでしょう。

訝しく思い尋ねると、「おじさんの『山下一家』に書いてあるよ」との返事。父の記憶は、時として尾崎さんが補足してくださっていたのでした。

さて。久子さんと松枝さんの喧嘩の種は父だったと書いていますが、具体的には何をしでかしたのでしょうか。

「鮎雄ちゃんはさ。まだ自分の名前を上手に言えなくて、オザキアオオ、って。それを面白がってわざと言わせるんだ。そうすると、コラーっておばさんがやってくる。それがまた面白くて、繰り返してやってたんだね」松枝さんも、父との雑談でその時のことを振り返って、「私もムキになっちゃって、バカよねえ」と笑っていたそうです。

長男の鮎雄さんは父の一つ下で早生まれ。父は四歳になったばかりでしたから、どっちにしたって滑舌はまだまだの年齢でしょうけれど、鮎雄さんが幼稚園に入った頃のことを、『子供漫談』という作品で触れていて、親としても気にしていることだったからこそ、松枝さんもムキになったことが理解できます。

この男の子は一月二十一日大寒の入りと云ふ早生まれだから身體は大きい。したがつて動作の方は十分歳相當にやるが、口の廻りは少し遅れてゐるやうだ。

それにつけても、父は近所でも評判のわんぱく坊主でした。成績優秀な健康優良児の兄がいたので、その比較も働いたようです。「おじさんは僕のことをまアちゃんて呼んでくれたけど、他の近所のおじさんたちは、なぜだかマーベルって呼ぶんだよ。なんでマーベルなのか、今もわからない」

言問通りに面したご近所に洋食店があり、尾崎家はそこから出前を取ることもあったそうです。配達に来た店主が向かいの家の父の姿を見つけると、悪ガキ発見とばかりに、「おっ、マーベル」と凄みをきかせたとか。キャプテンマーベルに父の名前を掛けたのだろうかと思ったのですが、キャプテンマーベルのアメリカンコミックデビューが一九四〇年。それ以前の話なので、どうやらあだ名の由来は別にあるようです。

「でも褒めてくれる人もいたよ。お兄ちゃんは勉強をして成績がいいけど、弟は勉強しないけど成績がいいんだ。そっちのがすごいねえ、って」。そんなことをよく憶えているのは、かなり比較されていたからなのでしょう。今の時代以上に、長男と次男の間には大きな隔たりがありました。家督を継ぐ長男は、家族の中でも特別扱いでした。

姉妹のように仲良くなった久子さんと松枝さんは、よくお揃いの服を着ていて、父は、思い出話に綴った以外でも、「路地の角から一人、麻みたいな素材の簡単なワンピースを着た女性が入ってきて、またすぐに、おんなじ姿の人がやってくるんだ。鏡写しみたいだったよ」なんて笑っていました。

お揃いの服は、誰が縫ったのでしょう。父に、一緒に布を買ってそれぞれ仕立てたのかしら、と尋ねましたが、そのあたりは曖昧でした。が、ヒントがありました。やはり『子供漫談』からですが、松枝さんはあまり器用ではなかったようです。

自宅にはミシンもなく、またあつても家内には少し手の込んだ子供服だとつくれないので(後略)

どうやら年上の久子さんが、一緒に仕立てたり、教えたりしたようです。尾崎さんの筆によれば、父の一家である山下一家は、とにかく親切で世話焼きだったようなのです。お向かいというご縁、年齢も家族構成も近いこと、そして馬が合ったことが、向こう三軒両隣の中でも、際立った親しいおつきあいとなったのでしょう。

祖父母が親切だったエピソードを『山下一家』という作品に記していますので、ざっと抜粋してみます。

支那事変もだんだん進んで、つひに今度の戦争となつた。お互ひ生活面で色々な窮屈さを味はふやうになつて来ると、もともと親切な山下家では何かにつけ私共の手助けをしてくれた。今これを書きながら思ひまはせばさうした思ひ出は数かぎりないのだが、中でも私の記憶に一番鮮やかなのは、私方で生まれたばかりの次男が病気になり入院二ケ月の後、たうとう死んでしまつた、その時に示された山下夫妻の親切である。(中略)あるとき、こんなことがあった。尾籠な話だが、洗濯なんぞしもせず出来もしない私だが、場合が場合で仕方なく、下帯だけは自分でやることにした。ある天氣のいい日、こいつを二本内庭の物干にぶら下げておいて、私は外出した。午後に帰宅してみると、そのうちの一本だけが丁寧にたたんで物入れの戸棚の上に乗せてあるので、私は、はてな、と思った。見れば、家中ちやんと掃除もしてある。

この後がなかなかユーモラスです。帰宅した尾崎さんに久子さんが声をかけ、下帯一本が干された経緯を説明します。どうやらお隣の犬が引っ張り落として汚してしまったようなのです。

「あのお隣の犬が、何だが白いものをくはへて、この路地を駆け巡ってゐるんです。それであたくし、捕まへて見ましたんですの」

という久子さんの言葉は、なんだか笑いを誘います。それについての尾崎さんの一文がまた秀逸なのです。

あの犬が、源氏の白旗でも押し立てた氣であれをくはへて、この邉一帯を駈け廻ったのだと思ふと、可笑しいと同時に腹が立つた。

真顔で面白いことを言う、というか、書く。尾崎さんの筆致は落語家のようで、読んだこちらは、後からクスッと笑ってしまうのです。

さらに久子さんについて、書いています。なかなか豪傑の祖母だったようです。

私は山下夫人にはいろいろと手間をかけた。辭退したら怒りかねない剣幕で、夫人は何でもやつてくれたのである。

さて、夜も更けてまいりました。松枝さんの名台詞で、今夜もお別れいたします。

三十六計眠るにしかず───おやすみなさい!


※トップの写真は、京成電車の博物館動物園駅の地上出口。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。