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謹我新淵

新年早々、という言葉があるが、それが使えるのは1/3までだろうか。それとももう使えないのか。


今年の抱負は推し活と自由研究を欲求に邪魔させないことである。というのも、やりたいことは何か聞かれた時に答えとして提示するような「やりたいこと」と、時間が生じた際にやっていることは違うからである。朝起きてすぐの10分ほどを漫画に使ったり、YouTubeショートで時間を溶かしたりしてしまう。とにかく、意思と意志のバランスを取れるような一年にしたい。
さて、抱負を声高々に掲げたところで、今日のテーマを共有しよう。ズバリ「好きとはどういうことか」である。とっつきやすいテーマであり、みんな大体同じこと考えていると思う。否、何パターンかあると思う。恋愛、友情、親族へのそれなど、対人関係における「好き」。推しへの「好き」。初見のものに対する嫌いじゃ無いという意味での「好き」など。このくらいであろうか。好きとは、というテーマであるとわかった時に思いついたことがあれば是非教えて欲しい。

ワタシ的、「好き」の分類

この頃、趣味が色々増えたり減ったり変わったり。色々あって、また沢山。
「好き」というものの中にワタシなりのパターンがあることがわかった。それらを見て分類しておきたい。
事前に共有しておきたい価値観として、「好き」の理由を説明できたらそれは途端に「好き」では無くなってしまう、と思っていることがある。それを好む理由があるなら、その理由にそくして道具的な趣向あるのではなかろうか。つまりそれは好んでいるだけであって、「好き」と言うのとは違う。
例えば、趣味がアイドルのコンテンツで、なかでも「推しが好き」と言う人に、「なんで好きなの?」と訊くと、顔が天才・国宝級とか、歌が上手いとか、答えることがある。これは果たして、理由を答えているのだろうか。私が思うにこれは理由ではなく、きっかけであったり、「どんなところが好きか」という特徴の列挙であって、好きな理由というわけではない。
好きの理由を説明すると、それが無くなったら好きじゃなくなるの?となってしまって会話に困るのは、「理由」とこれらの「きっかけ」や「特徴」を混同しているためではないかと考えられる。では、「好き」には理由がないとしたうえで、どのような「好き」がありえるか、その状況について私の経験を述べよう。

①初見ほど嫌いではないという意味の「好き」

何事も、全くもって初見、と言うのは難しい。すでに言葉を使う時点でそれなりの価値観があったり、未知という分類が既に常に存在しているからである。私の場合、K-popというジャンルが大嫌いであった。クラスの嫌いな女子が好きらしいから避けていたこともキッカケとしてはあるのだが、初見(初耳の時?)で聞こえてきた時は、とにかく耳を塞いで拒絶しようとした。小学生のころだったと思うが、韓流ドラマのOSTやBIGBANGの曲などは特に酷かった。今でもバラードは好まないため、ここに関して韓流かどうかは関係ないかもしれないが、クラブミュージックには拒絶反応しなくなったし、BIGBANGを好んで聴くことすらある。

②初見で普通に「好き」

この類は、好奇心にかなり近いところにあると思う。「ん!?なんじゃこりゃ」と思ってもう一口食べれば、もはや好きなのである。好きにならないはずのものは、「なんじゃこりゃ」とすらならない。この類は、接触回数が少なければ風化され、「好きでも嫌いでも無い」に分類されがちだが、ふとしたときにうっかり接触すると中毒化する。私の場合は、カップ麺とかがそうであった。


③初見の時も、後からも「好き」

すでに好きジャンルが確立している人間にとって、これはきっとハマるだろうという確信に近い予感がある。その範囲内のものがやってくると、「こういうので良いんだよおじさん」が囁いて、自分の趣向に取り入れてしまう。

④好きというより中毒

音楽を聴き始めると止められなくなる。頭の中でリフレイン。そんな時は、これである。ゲームとか間食とか、健康とかのためにはやめた方がいいと分かっていて、やめる気のないような事は、もちろんこれである。好きというよりは中毒で、最初の方に述べたような「やりたいこと」の邪魔をする欲求を生じさせるのである。だからこの趣向は生理現象とかに近い場所にあると思う。

「好き」を取り巻く価値観

ここまでは、どんな「好き」という状況がありうるか列挙してきた。ここからは「好き」を取り巻く価値観について考えてみたい。時間をそれに割いているから「好き」と言えるかというとそうでも無い。みんなが睡眠を好きということになってしまう。
「好き」と言える条件ってなんだ?
一般的にはどのくらい好きかを表す指標はあっても、好きかどうかの判別式には出会ったことがない。「三度の飯より〜」とか「寝る間も惜しんで〜」のような言い回しがそれである。
ちょっと前にオタクが自称できない文化があった。きっと今も連綿と続いてることだろうが、例えば「ファンと言えるほどじゃないけど好き」とか。これは「〇〇のファン」という分類にカテゴライズされることで自分を定義づけることへの反抗でもあるだろうし、実際には金銭を支払ってないというのがリアルなんじゃないか。くだらない間食に払う金銭があって、好きなはずの対象には支払わない。ならばファンと名乗ってはいけないし、「実は結構好き」くらいの奥ゆかしさがなければならない。こういう価値観である。しかし、これは間食をくだらないものと切り捨てることで成り立っている。間食(並びにYouTube shortsとかで時間を溶かしちゃうこと全般)がどれほどストレスを紛らすことだろうか。言っておくが「好きなもの」から得られる癒し効果によってストレスが紛れるならば、間食はしない。好きなものは必ずしも癒すとは限らないのではないか?