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毎日を少しずつ変えていく。

春の風を感じ・・・ない、バンコク

毎年4月になると、少しふわふわした気分になって、
何か新しいことが始まりそうな春のにおいにわくわくするのだけど、
タイでの4月は気候が益々暑くなる真っ盛りで、優しくほがらかな春らしさよりも、もったりとした空気の重さが、けだるさを一層強める。

それに加えて、この情勢。ソンクラーン(タイ正月;13-15日)も延期。
うっかり休みがない、と思っていると、来週月曜日はチャクリー王朝記念日で、土日を含み三連休。せっかくの祝日ではあるけれど、3月に祝日がなかったリズムを、なんとなく崩されるような、居心地の悪さを感じてしまう。

拍車をかけるように、今日(4月3日)から夜間外出禁止令により、22時―4時までは外出不可。違反者は、最大2年の禁錮か4万バーツ(約13万円)かその両方が科されるとのこと。。

春先のすがすがしい空気なんて、まさにどこ吹く風・・・
重々しい雰囲気が、益々バンコク市内を覆いつつある。
とはいえ、自宅待機推奨で、既にあまり出歩かないようになっているため、
観光地側の街中の様子など、直接伺い知ることができていないのだけれど。

年齢と記憶、毎年のスピードが速くなる理由

いろんな行動が制限されていく中、仕事も3月が期締めということもあり、
とにかく振り返るには、よいタイミング。

これが都会のスピードだ、と言わんばかりに、この1年はあっという間だった。東京にいた時も、こんな速さで流れたな。あー、そうだった。。。

年齢を重ねれば重ねるほど、時間が過ぎるのが早いよ、と確かによく聞く言葉で、今までだって、実感したことがなかったわけではないけれど、先月来たばかりと言いたいくらい、あっけらかんと過ぎた。タイの年中高温多湿な気候も相乗効果で、年齢だけでなく、記憶も重ねちゃってるせいだ。おそらく。

年中真夏のこの国は、毎日たくさんの観光客を惹きつける(今は少し状況がことなるが)。
雨季(6-10月)もあるけれど、いつ来ても賑やかな魅力であふれている。

外から来る人が、いつでも来て面白い環境というのは、内にいる人からしたら、その刺激に慣れてしまうもの。日常になってしまえば、とたん鮮明さを失ってしまう。
夏は暑すぎて嫌、冬は凍えるから早く春になってほしい、そんな感覚すら、毎年の新鮮さを与えてくれていたのがわかる。

毎日あったかくて、食べ物にも困らなくてHappy!みたいな、ここに今なければ、憧れてしまうような日々だけれど、毎日夏祭りの夜が来ても、だめなんだ。

堂々巡りのようだけど、毎日刺激にあふれていても日常になる。特別じゃなくて、"いつも”になった時、また1つ記憶が薄まっていく。

年齢を重ねると、相対的な記憶の密度も低くなる。15歳時の1年と30歳の1年は、人生に対して同じ密度かというと、やはり違う。希釈度は人それぞれだとしても。

スピードが早くなるというよりは、新鮮味(変化)がなくて、ある意味、楽になっていってると言い換えられるかもしれない。無理のきかない年齢と忘れた方がいい記憶なんかには、それがいいこともあるんだろう。

これだけいろんなものに記録して、振り返れる時代になっているのに、人が持てるものがあまりに少なくて、いや、変わっていなくて、逆に得た分、きっと失くしたものも少なくないだろう。手紙、待ち合わせ、公衆電話・・・ノスタルジー。

Thailandのコロナ事情・続

夜間外出禁止令のちょっと前、バンコクでの深夜営業(0-5時)の禁止が発表された(4月2日-30日)。

タイのコロナ感染は1,771人(2020年4月1日発表)*死亡者12 名。
ベトナムは、感染者200名越えで都市封鎖(ロックダウン)のシナリオを準備、自宅隔離含む、10万人以上を隔離対象として経過観察しているのに比べえると、もうタイの感染拡大の歯止めはどこで聞かせるのか。

日本ではマスク配布の方針が決定されたけど、色々選択肢や施策があった中の1つを、ぱっとメディアに取り沙汰されたものだと信じたい。政府もできることから取り組んでいる。これを正直に国民に言えちゃう政府。マスク2枚/世帯のニュースだけに振り回されると、不安を感じるのは正直なところだけれど。

布マスクもノスタルジー。給食でよく使ったのを思い出す。
どうせ配布するなら、ベトナム製マスクの方が日本の給食マスクより断然よいだろうな。まぁ、まずはできるものを、必要な人へ。

日本の国民性って、括るのはすきではないけれど、決断することより我慢の方が得意だろうと思う。決断はできないけど、決めてもらうことをじっと待ててしまう。そして決めらたルールに従うことが当たり前すぎて、自分だけの正解を求めたり考えたりはしない。

そういう生き方が社会性の中で正しいし、悪く言えば楽に、自分を守りながら生きれる方法を、国が支えてくれていた。生き方に色々方法があるように、それぞれが在り方を自分で決められることもできるのに。

ある意味、自分よりも、家族、ましてや他人を優先する民族。特異。ほんとに。

少しずつ変える、とは。

あれ、何の話だっけって、そう、だから毎日を少しずつ変えていく。自分自身で。できる範囲で。記憶に対しても、自分の生き方についても。
何かにコントロールされていることを意識的にとらえて、自分で自分を“Driven”していく。自分の操縦席には、ちゃんと自分が座ってるべきだから。

人って結構図太くて、ささいな違和感は無視できるようになってる。恒常性ってやつだ。あまり多くのストレスにさらされながら生きているから、少しでも和らげるための、身体と心の反応。

でもその違和感を無視し続けるのは自分の身体や心からの声を無視することでもある。気づけば自分の操縦席に誰かが指示を出していたりするし、下手すると別なヤツが操縦席に座っていたりするまで気づかない、いや、それでも知らないフリをすることができる。

おかしいと思った時、気づいた時はチャンスなのに、その声を無視し続けることは、自殺するまで人を追い込むし、決断できない抜け殻になったり、本来望んでいないことを望んでいると信じてしまったりする。

みんなが同じなら大丈夫、と、“みんな”の実態や定量はないのに。今の時代、変化しないことがリスクになりつつある。その実態のない"みんな”が実感できるくらい、環境が大きく変化しているのだから。

ちょっと前に流行った(いや結構前か)嫌われる勇気のアドラーさんが提唱している、『課題の分離』。自分の課題/範囲なのか、相手の課題/範囲なのかしっかりと見極め、自分の行動や選択を考える。
https://diamond.jp/articles/-/226815

自分の周りをコントロールすることはできない。変えられるのは自分だけ。環境の変化や自分以外の何か、に惑わされず、自分を“Driven”していくために、できることを少しずつ変えていく。

こんな時代をちゃんと自分の中に刻んでいきたい。そしてこの時代を受けて変化していきたい。
なるべく我慢して、楽に流れることは簡単だけど、記憶に刻まれるように。

自分たち世代に欠けてるものを考えたことがある。この時代を生き抜くこと。強く変化していくエネルギー。今がそのチャンス。

Stay Gold.
Sincerely.


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