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『紫に還る』 第一話(Ⅰ-1.2)

【あらすじ】
 カンターは小麦畑に紫草の蕾を見つけた。紫草が開花すると小麦の収穫はできず、部族民は餓死するしかない。祈るカンターの手が燃えるように熱くなり、その力で蕾は奇跡のように枯れた。子ども扱いされていたカンターは認められ、竜と戦う戦士になる。
 父親の仇である竜を追うカンターは、川で溺れ死ぬところを何者かに助けられる。辿り着いた大国ユリシアでは、その征服を企むワン族と戦う。卑劣な王子に殺される寸前、カンターの手のひらに突然、炎が出現し……。
 カンターは、ユリシアの王女とともに、竜を探し紫草と戦いながら旅を続ける。多くの苦難を乗り越える内に新しい力を身につけ、最大の敵、そしてこの世界の謎に迫っていく。


【章の一 紫草】

開いた傷口を見て少女はかすかに顔をしかめた。    
男は呻き声も漏らさずに痛みに耐えている。    
少女は男の傷ついた腕に手をあてて静かに祈った。    
やがて抉られた傷口の肉が盛り上がりそして閉じていく。    
少女が手を戻したとき、男の腕には傷跡すらなかった。    
男は信じられないように腕をさすり、そして振った。    
「竜の牙は鋭いから気をつけて」    
「ありがとう、リー」  

     1

 その淡い紫色の蕾を最初に見つけたのはカンターだった。部族の大切な食料である小麦はカンターの腰の辺りまで成長している。豊作を予想させる濃い緑色に輝く畑の片隅に、ほんの少し頭を覗かせている蕾を発見できたのは幸運だった。

「おーい、紫草が蕾をつけた。みんな急げ、紫草が開花するぞ」
 カンターは畑の畔から、三十ほどの家が固まっている方向に大声を張り上げた。
 鳥の囀りとのどかな小川のせせらぎに包まれていた集落は、突然蜂の巣をつついたように騒然とした。食事の最中なのだろう、パンを片手に飛び出す者、赤ん坊を抱えて走ってくる母親、ありったけの鍬を両肩に背負って裸足で駆けてくる男もいる。数分で集まった百人ほどの部族民は畑に入り、紫草を取り巻いてそれぞれに息を整えた。

「カンター、よく見つけたな。花が咲く前でよかった。偉いぞ」
 部族長のリガードが言った。
 一週間ほど前に十三才になったカンターは褒められたのは嬉しいけれど、偉いぞと言われてまだ子供扱いかとがっかりもした。カンターは同世代の子供に比べて成長が遅く、体力も劣っていた。
「さあ、急いで掘り出そう。ゼンコ、火の準備をしておけ」
 リガードの合図で男達が一斉に鍬を持って紫草を取り囲んだ。知らぬ者が見たら悲劇をもたらすとは露ほども思わない、か細い紫草の周囲に鍬が何本も振り下ろされた。根こそぎ掘り出してしまわないと残った根からまた芽を吹くのだ。部族でいちばん火の扱いのうまいゼンコは近くの燃える木を集めに走った。カンターと幼馴染のシークも命令されたら手伝う構えでいたが、これは大人の領分らしく声はかからなかった。

 この紫草は蕾をつけるまでは何の害もない。だからその前に刈ってしまえばいい。ただ、今目の前にあるように蕾をつけてからは、異常な防衛本能と生命力の塊になる。
 もし蕾を刈り取ろうとして土の上に出ている蕾や茎に少しでも刺激を与えたら、その瞬間に全体が硬直し鎧をまとったように堅くなる。どんな斧でも歯が立たなくなってしまう。だから今のうちにすべてを掘り出すしかないのだ。
そしてさらに成長が進んで花が開いたら、部族にとって大変な脅威となる。きちきちと耳障りな音を立てて、濃い紫色の花びらを開くのと同時に凄まじい成長が始まる。根別れ枝分かれを繰り返し、数日で大人の背丈を越える。太い蔓状の枝を複雑に絡ませ、ドームのような半球状の空間をつくってしまう。

「カンター、お前が見つけたんだって?」
 同い年なのにカンターより一回り身体が大きくて、声も野太いシークが言った。
「うん、前みたいなことにならなければいいんだけど」

 紫草がカンターの部族で開花したのは五年前だった。ちょうど今日のような暖かい季節に発見されたが、その時は開花が始まっており手遅れだった。収穫前の丹精を尽くした畑は、次々に成長し繁殖した紫草にすべて覆われてしまった。寄生植物の紫草は長く伸びた蔓で小麦に巻き付く。その尖った先端や蔓のいたるところから生えている棘に突き刺された小麦の穂は、栄養分を吸い取られて茶色く朽ち果ててしまう。
そうして部族の畑はすべて壊滅してしまった。緑の畑が虫に食われるようにおぞましい紫色に染められていく様を見た部族民は悲嘆に暮れた。

「まだ大丈夫さ。蕾も小さいし。それにしてもあの時はひもじかったもんな」
 大食いのシークが言うと五年前が思い出されて腹が減ってくる。わずかに食べられる木の実やたまに手に入る小動物の肉以外、ほとんどの食料を畑からの収穫に頼るカンターの部族は危うく全滅しかけたのだ。

「リガード、おかしいぞ。開花前なのに根が堅くなっている」
 紫草の根に鍬を入れたモッズが大声を上げた。
「なに、そんなばかな」
 リガードは駆け寄り、モッズから引ったくるようにして鍬を取ると自ら渾身の力で振るった。鈍い不吉な響きとともに鍬は跳ね返された。
「見ろよ、こんなところまで根が来ている」
「こっちもだ、どこまで伸びているか見当もつかんぞ」
 方々から男たちの緊迫した声が上がる。女たちは事態がとてつもなく悪い方向に進むのを察知して、崩れるように座り込む。

「どうする、リガード。根の先までたどって全部掘りだすか?」
 シークの父親のハットおじさんがリガードに聞いた。いつも優しい顔が険しくそして汗に濡れている。
「いや、ここまで根が伸びていたら間に合わないだろう。それにこれを見ろ」
 リガードの指先には鍬がうっすらと白い筋をつけた紫草の太い根と、そのまわりにびっしりとついた丸い株があった。
「この株からどんどん芽を吹く。明日にはそこらじゅうに芽が出てくるはずだ。今年の紫草はいつもよりやっかいだ」

 ジジッという低い音にみなが振り返る。ゼンコが枯れ木の束に付けた火を紫草に静かに近づけていた。
「燃えるかな、カンター」
 シークがつぶやく。もし紫草が完全に硬質化する前なら燃えるはずだ。嫌な臭いと何の役にも立たないゴムのような固まりが残るが、もちろん成長されてしまうよりはるかにましだ。紫草に重なった火が陽炎のごとくゆらめく。皆が固唾を飲んだ。
「だめだ、火が移らない」
 ゼンコがあきらめたようにへたりこんだ。リガードに女が二人駆け寄る。
「切れないし、燃やすこともできないなら、また畑はおしまいなの? リガード、ねえ、答えてよ」

「まずい、蕾が開くぞ」
 大声にみなが振り向いた。子供の握り拳ほどの蕾がまさにほころびはじめている。花びらの切れ目から毒々しいおしべの赤がちらりと覗いている。女たちが悲鳴をあげ、畑は混乱と焦燥の声で満ちた。
 腕を組んだリガードが振り向いて言った。
「誰か、長老を呼んで来い。急げ」

 カンターは反射的に走り出していた。部族長の命令は絶対だと教え込まれていることもあるが、することもなく立ちすくんでいるのが堪らなく嫌だったのだ。
 カンターは部族の奥にある長老の家に向かった。こんな切羽詰まった時にリガードは長老に何の用だろう。カンターは五年前のことを思い出した。あの時も紫草が畑で開花しそうになった時、長老が儀式のようなことをやったらしい。カンターはその場にいなかったのだが、部族中の子供が集められたと聞く。

 長老は石造りの古い家の前に出ていた。枯れ木のようなその痩身は強い風には飛ばされそうに見えるが、これでどうして杖もいらないのだ。
「カンター、わしをリガードが呼んでいるようじゃな」
「えっ、うん。あの、紫草が出たんだ」
「年老いたがお前のあの大声は聞こえたわ。それにそういう時期だと思っておった」
 部族の誰よりも長いローブをはおった長老がカンターを押しのけるようにして、先に立って歩き始めた。
「あの、それで蕾がひとつ開きそうなんだ」
 カンターは慌てて後を追いながら長老の背中に声をかけた。
「わかっておる。部族長がわしを呼ぶのは、つまりそういうことじゃ」

     2

 畑には部族のほぼ全員、二百人余りが集まり、紫草を取り囲んでいた。
「さあ、子供たちよ。わしに力を貸してくれ」
 紫草の傍らに立った長老は細い両腕をひろげて子供たちを見回した。一人また一人と長老のもとに子供たちが歩み寄る。シークがカンターの腕をつついて言った。
「俺たちは行かなくていいんだよな」
 その声が聞こえたのか長老が二人に手招きした。
「でも長老、僕らは十三才になった。もう大人だよ。きっと役に立たないよ」
 カンターは思い切って言ってみた。横でシークが頷く。
「馬鹿者、早く来い」
 聞いたこともない一喝に二人は飛び上がった。

「傷ついた戦士の手当てをする時のことはわかっておるな」
 長老が二十人以上の子供の顔を見渡すようにして聞いた
「三日前にも治してあげたばかりです、長老」
 カンターの正面にいたマースが小首を傾げるようにして答える。カンターはその日のことを思い出した。

 ◇ ◇ ◇

 木剣の訓練が終わりシークと家に帰る途中だった。
「カンター、今日も随分、痛めつけられてたなあ」
 カンターは仲間たちに、さんざんに打ちのめされて意気消沈していた。
「お前はいつも無茶なんだよ、カンター」
「なんだよ、無茶って」
「強い連中にあんなに突っかかっていったら、やられるのは当たり前だ。上級者に挑むのはもっと基礎練習をしてからにしろよ」
 カンターは打たれて熱を持っている腕をさすった。
「上級者とやらないと強くなれないから」
「それにしたって、打たれっぱなしじゃないか。実力がないのに、むきになるなよ。それ、お前の悪い癖だぞ」
 カンターは答えなかった。剣が上手くならなければ戦士として認められない。部族のお荷物になるだけだ。そしてカンターには一日でも早く戦士にならなければならない理由があった。
「それにお前は喧嘩腰なんだよ。練習なんだからさ、あんなに激しくぶつかっていったら、友だちをなくしちまうぞ」
「友だちならシークがいればいい」
「お、おう。まあそうだけどさ。それにしたって――」
「シーク、あれは?」
 カンターは道の先を指差した。部族の西のはずれにある家の前に人だかりができている。 
「マースの家じゃないか」
「どうしたんだろうな。行こうぜ」
 シークは駆け出していた。カンターも後を追う。
「何かあったのかい」
 息を切らしたシークが、一番後ろで爪先立ちをしている男に聞いた。
「ああ、石切り場で足の上にでかい石を落とした奴がいてな」
 二人が大人たちをかき分けて家の中に入ると、ベッドに横たわる男を前に目を閉じたマースが見えた。

「始めるわ」
「ああ、マース、早く頼む」
 唸るように言った男の左足の甲が、目を背けたくなるような角度で曲がっている。足の上にかざしたマースの手が、小さな円を描くようにゆっくりと動き始めた。
「ひどい傷だな。難しいんじゃないか」
 シークが呟いた。自分には治せないと思った時、カンターは横たわる男のつま先がわずかに痙攣しているのに気付いた。そしてマースの手のひらの回転が速くなるのに合わせて、男の足はねじれを戻すように大きく動いた。
「おおお」
 男が信じられないような顔をして半身を起こそうとする。
「待って、まだ済んでないわ」
 マースは俯いたまま、一度動きを止めた手のひらを今度は男の足の上の空間に向けて風を送るように押した。一回、二回、そして三回目から正常な右足の倍ほどに膨れていた足が、しぼむように腫れが引いていく。十回を数える頃には赤黒い染みまでが消え去っていた。周囲から溜め息がもれる。
「見事だ、マース」
「いや、本当に。俺がガキの頃はこんなに上手くできる子供はいなかったぞ」
 嘘のように治った足をさする男の脇で、集まった者たちが口々にマースを褒めていた。

 ◇ ◇ ◇

「傷口に手をかざして温かくなるように祈ればいいのですよね」
 マースが長老に言った。
 祈るだけで何の薬も使わずに傷を治すこの力は部族にとって大切だ。だからどんな洟垂れ小僧でも決して粗末に扱われない。ただしこの力はなぜか大人になると消え失せてしまう。そして自分の傷を治すこともできない。

 マースは特に上手で、骨の見えそうな深い傷でも痕も残さず治してしまう。この数年というもの、大怪我をした男は最初にマースの家を訪れる。
「そうじゃ、今日はその逆をすればよい。よいか、紫草に手を当てて冷たい氷を思い浮かべるんじゃ。真冬の池を覆う氷に触れたことがあろう。あの手がちぎれるような冷たさじゃ。そうしてその手に触れた紫草が枯れることを、精いっぱい念じてくれい」

 子供たちは長老の指示に従い、紫草の根に手を当てて祈り始めた。ハットがリガードに小声で話しかけるのがカンターには聞こえた。
「前の時も長老が同じことをしたが駄目だったぞ。無駄なことじゃないのか」
「長老にも考えがあるはずだ。それに今日はこの前とは違う」

 違うことってなんだろう。カンターが掘り出されかけた足元の根を触った時、長老の声が飛んだ。
「カンター、お前はこっちじゃ」
 長老が指差したのは、紫草の今まさに開きかけた蕾だった。
「えっ、何で僕が」
 カンターは根を放して長老を見つめた。周りの大人から声が飛ぶ。
「長老、それはマースの方がいいんじゃないのか」
「カンターには無理だろう」
 カンターは俯いて足元の根にまた手を伸ばす。大人の仲間入りができないひ弱な子供。しかも不思議な力も持ち合わせていない。それがカンターの評価だった。

「カンター、長老の言うとおりにするんだ」
 リガードの鋭い声にカンターは立ち上がった。長老に腕を引っ張られて数枚くしゃりと重なった花びらにおずおずと触る。長老はカンターの耳元で囁いた。
「五年前に紫草が開花し、畑を壊滅させてしまったのはカンター、お前がいなかったからだ」
 カンターは驚いて長老の皺ばかりの、しかし厳しい顔を見た。
「それは、どういうこと?」
 長老はカンターの眼を貫くように見てから足を折り、紫草のすでに斧でも切れない堅い根元を両手で握った。

「祈れ、今は強く強く祈るんじゃ」
 カンターは得心のいかぬまま、少し湿った花びらを両手で挟んだ。花弁から漏れてくる甘酸っぱい匂いがカンターの鼻を刺激する。リガードの合図で大人たちは子供を取り巻くように円を作った。
 円の中心は紫草の前に跪くカンターと長老。少し離れて根を持った残りの子供たちが作る輪。そしてその外側に大人たち。三重の円が人間の天敵ともいえる紫草を包囲する格好になった。やがて古くから部族に伝わる祈りの歌が畑に響き始めた。

 手がちぎれるような冷たさ。長老はそう言った。
 でもそんな急に言われたって……。
 傷を治すあの不思議な力が強い子供は、カンターの他にいくらでもいるのに、長老は何を考えているのだろう。

 大人たちが歌う緩やかな抑揚の繰り返しが、カンターの疑問をいつしか消し去っていた。
 やがて祈りの歌も周囲の音も聞こえなくなってゆく。そしてカンターは奇妙な感覚に襲われた。全身の血がすうっと身体の中を下がってゆく。踵まで降りたと感じたときに、まるでその反動さながらに血とは異なる何かが昇ってくる。身体がふわりと軽くなった。

 花びらを包む両手のひらが痺れる。手を切るほどの冷たい塊を握り締めた感覚は、いつの間にか火の中の真っ赤な石を掴んだかのように熱く変わっていた。両手にあるすべての神経が悲鳴を上げる。
 それはカンターにとって初めての味わう苦痛だったが、不思議に不安はなく、自分が正しいことをしているのだという奇妙な確信を伴っていた。

「か、枯れている」
 背後で誰かの呻き声がした時、カンターの手から熱と一緒に何かが引いていった。身体に重さが戻り、足元がふらついた。
「もうよい、カンター。よくやったぞ。後でわしの家にきなさい」
 長老が掠れた声でまたカンターに囁いた。その声でカンターは目を開けた。最初は眩しいせいだと思ったが、開いた両手の中の蕾は茶色に変わっており、そっと力を込めて握るとばらばらと細かい破片になった。

 カンターは手のひらに残る紫草の残がいをまじまじと見つめた。これは自分の力なのか、長老や子供たち全員の力なのか。大人たちの歓声に振り返ると、子供たちが変色した紫草の根を手に、誇らしく照れたような顔をしている。自分の息子や娘に駆け寄って頬ずりする者もいた。

「おい、カンター。俺たちやったんだ」
 シークが根を宙に放り投げてカンターに抱きついた。茶色い根がシークの肩越しに夕日に照らされてきらきらと回転した。

<続く>

続きはこちらからどうぞ。(第六話以降は完結したら追加します)

第二話:https://note.com/a_sakamoto/n/n6efe2b8cda66

第三話:https://note.com/a_sakamoto/n/n6f892b28ef90

第四話:https://note.com/a_sakamoto/n/n8931ffe81141

第五話:https://note.com/a_sakamoto/n/n17dc6771deca

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