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『紫に還る』第三話(Ⅰ-5)

  5
 
 額の真ん中に冷たい何かが落ちてくる。水滴だろうか。思わず手をかざして額に触れようとする。その時初めて身体の自由が利かないことに気づいた。横たわった身体は凍り付いたように指一本も動かせない。その間も額を打つ刺激は止まない。
 おそるおそる開けようとしたまぶたは貼り付いたように動かない。漆黒の闇の中で、全ての感覚は打たれ続けている額に集中していた。じりじりとそこだけが熱を帯びてくる。
 繰り返し執拗に額の一点を叩いている何かは、少しずつだが確実に強さが増している。水ではない。もっと尖った硬い何か。やがて直接頭蓋に響いてきた。穴が開く。眉の上に生暖かい感触が広がる。皮膚が裂けて血が吹き出た。
 
「カンター、起きているか」
 金縛りから解き放たれたカンターは、夜具の上に跳ね起きて大きく息をついた。シークが一人暮らしのカンターの家にずかずかと入ってくる。
「う、うん、起きてる……。夢だったんだな」
 まだ夜が明けたばかりで、朝の早い小鳥たちの囀りさえずりもまばらにしか聞こえない。
「お前、どうしたんだ。汗びっしょりじゃないか」
 おぞましい夢から救われて、普段はやかましいシークの大声に感謝した。
「何でもない。シーク、こんな早くにどうしたんだ」
「大丈夫かよ。とにかく顔洗ってウチに来な。めし喰って活動開始だ」
 
 活動開始と言っても、今日はそんな特別な日だったろうか。汗を拭いて着替えながら首を捻った。とは言えこの友人の強引なペースに巻き込まれるのは馴れている。
 普段、料理する人もいない調理場の甕からひしゃくで水をすくった。少し迷ってから寝汗を流そうと頭からかけた。近くの川で汲んだ水を一日置いているので、それほど冷たくないがカンターは身震いした。
 ひしゃくを石の壁に掛けたときに金属の高い音がした。部族の家はすべて石壁を積み上げた造りにしている。竜に襲われた時に女・子供・年寄りが立てこもるためだ。土壁では簡単に破られてしまう。西の山から切り出した良質な石を使っている。
 これまではカンターも家の中で、竜が鋭い鍵爪で石壁を引っ掻く音を身をすくませて聞いていた。しかし昨夜戦士の仲間入りを告げられたからには、竜が出たら外に出て立ち向かうことになる。それは望むところだった。
「おおい、まだか」
 
 シークにせかされて家の扉を閉めた時に、扉の右上の壁に小指ほどの太さで穿たれた溝が目に入った。
「なあ、シーク。これも竜の仕業なんだよな」
 シークが寄って来て頭の上ほどの位置にあるその溝を撫でた。
「ああ。でもカンター、どうしたんだ。この傷は前からあったじゃないか」
 そう言ってからシークも気がついたように声を落とした。
「そうだな、こんな硬い石を抉るような奴らと戦う事になったんだな」
 束の間、二人は顔を見合わせた。シークがにやりと笑ってカンターの胸を小突いた。
「さあ、カンター、行こうぜ」
「うん、行こう」
 思わず大声で答えた。
「ところでカンター。何だよそれ、ペンダントか」
 小突いた時に気付いたのか、カンターの胸を見て聞いた。
「あっ、これはさ」
 あたふたと小さな棒をつまんで襟元から服の中に落とした。昨夜の事が次々と思い出される。長老のしわくちゃな顔と意表をつく言葉が浮かんでは消えた。シークが怪訝そうに見ている。どう話したらいいのだろう。
 カンター自身、昨夜の長老から聞いた話を整理できていない。長老の家から帰ってすぐにベッドに倒れ込むようにして寝入ってしまった。初めての酒に酔っていたし、心身共に疲れてもいたのだ。そのせいなのだろうか。あの嫌な夢は。
「ついにオクテのカンターも色気づいたってわけか。どうでもいいけど俺からマースを取るなよな」
 そう言うとシークはばか笑いした。
「はいはい、ご心配なく。それより今日は何が始まるんだ」
「まあ、とにかくめし食ってからな」
 二人はいつもの道をシークの家の前まで来ていた。
 
 シークの家はさほど遠くなかった。生まれた時に母親を亡くし、父親も物心つく前に竜に殺されたカンターは、食事から何からシークの家に面倒を見てもらっている。一緒に住めばいいのにとハットも勧めてくれるのだが、カンターは今の家での暮らしを選んでいる。 
 誰にも言わないが自分の家に住んでいれば、父親がドアを開けて戻ってくるような気がするのだ。もちろんそんなことはなかった。
 
「親父、お袋、カンターを連れてきたぜ」
 シークの家に入ると、ハットとその倍ぐらい横幅があるソプラが、二人揃って迎えに出てくれた。
「カンター、おめでとう」
 ハットはにこにこしながらふらついている。ちょっと気味が悪い。
「あんた、二日酔いなんだから座ってなって」
 シークの大声がこのおばさん譲りであることは間違いない。顔をしかめて頭をおさえるハットが少し気の毒な気がした。
 ソプラはカンターの両手を握った。握力も男並だ。そして大音量の速射砲が雨あられとカンターに降り注ぐ。
「カンター、昨日はほんとにお疲れだったね。あたしもさ、もう畑に駆け付けたときにはみんな諦めているじゃないか、リガードなんかも腕組みしたまま、むすっとして何にも言わないし。あのいまいましい紫草にまた小麦を食われちまうのかと思ってさ。生きた心地もしなかったよ。それがどうだい、あんたたちが祈っただけで茶色に枯れたじゃないか。しかもカンターはうちの出来損ないと違って蕾を枯らしたんだ。大したもんだよ、ほんと。戦士にもなったし、これからもあたしたちを守っておくれよ。それにしたって」
「出来損ないで悪かったよ。お袋、さあ、メシにしようや」
 ソプラに圧倒されているカンターに、シークが助け船を出してくれた。
「ああ、そうだったね。みんな席についておくれ。そうだよ、スープが冷めちまうじゃないか」
 そう言うとソプラは食卓を整え始めた。
 
 ハット家の朝食は去年の収穫から作ったパンと野草のスープだった。どの家も畑からの小麦に頼っている。質素な献立だが湯気の立つ温かいスープと焼きたてのパンは、カンターを久しぶりにほっとさせた。
「カンター、今日はこれからアランじいの家に行こう」
 早くも二つ目のパンをかじりながらシークが言う。
「アランじい? そうか、剣だな」
「そうだよ。俺たちも戦士の仲間入りだからな。剣がなくっちゃ竜とは戦えないぜ」
 アランじいは刃物を作ることを仕事にしている。耕作の鍬から料理用の包丁まで何でも請け負う便利な存在だ。家の近くには剣の倉庫があり、そこには年老いて戦士の役目を終えた男達が戻した剣が保管されている。新しい戦士はその中から自分の体格や膂力に合わせて剣を選び、鍛え直してもらうのだ。
 
「ところでシーク、木剣の腕前だが少しは上がったんだろうな」
 スープをすすりながらハットが聞いた。部族の男の子は九歳になった時から三日に一度、剣の訓練をするように決められている。戦士になってからの過酷な戦闘訓練に備えてのことだ。
「もちろん。ちょうど木剣には物足りなくなっていたところさ」
「カンターはどうなの? 竜と戦えるのかい」
 ソプラが黙ってパンを食べていたカンターの腰の木剣を指差した。
「あ、うん。頑張ってるよ」
 カンターの身体には木剣を受け損なってできた痣が何ヶ所も残っている。
「カンターの親父さんは凄い剣士だったからなあ」
 ハットが遠い目をする。
「相手の剣の動きが読めるって言っていたな。正面から振り下ろされるのか、腕を狙って斜めに襲うのか、それとも真っ直ぐに突いてくるのか。そうそう、剣の動きが線のように見えるって言ってたな」
 シークが「ほんとかよ」と目を丸くする。
「実際に俺は見たんだ。あいつはな、身体に迫る剣に自分の剣を寄り添わせるようにするんだ。予想しているからできることだ。そして勢いを殺した剣を受け流す。頭で考えたり、練習の結果覚えたりしたものじゃない。腕も足もただ自然に動いていた」
 
 またこの話か。剣の教師役をしている大人たちから、父親の話を聞いたのは一度や二度ではない。その度に嬉しさと寂しさを、ない交ぜに感じた。
「親父、昔の話はいいじゃないか」
「そうか? ああ、そうだな」
 ハットは、こめかみを揉みながらスープのお替りを頼んだ。
「アランは腕は確かだが仕事が遅いからな。できるだけ今日のうちに決めてしまったほうがいいぞ」
「竜はいつ来るかわからないからねえ」
 ソプラが大きな鍋からスープをよそりながら続ける。
「紫草が蕾をつけたとなると、そう遠いことでもないかもしれないね」
「脅かすなよ、おふくろ」
「シークもカンターの剣選びを手伝ってやるんだぞ」
「わかっているよ、親父。こいつはぼうっとしているからな。俺の剣の次にいいやつを見つけてやるさ」
「カンターはお人好しだからねえ。長さが合わなかったり、刃こぼれが気になったりしたら、遠慮しないでちゃんとアランに注文するんだよ」
 ソプラも口をはさんだ。
 ぼうっとしている? お人好し? 随分な言われようだが、自分が頼りなく見られているのはわかっている。カンターはスープの残りを飲み干した。
「行こう、シーク。おばさん、ごちそうさん」

<続く>

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