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『紫に還る』第二話(Ⅰ-3.4)

  3

 いくつものかがり火が夜を噛んでいた。紫草の後片付けが済んで、部族民はいつも集会に使う広場に集まり祝いの宴が始まっていた。中心に据えられた大きなかがり火を囲んで、みんなが思い思いの場所に座り込んでいる。

「カンター、ほら、始まっているぞ。見に行こう」
 シークに袖を引っ張られて、一段高く土を盛られた場所に歩いていった。そこは祝いの時に部族の誰もが自由に踊りを披露する舞台だった。このために普段から練習している者も多い。特に若い男女にとっては交際のきっかけにもなる晴れの舞台なのだ。
 ゼンコが五本の弦を張った楽器を抱くようにして、両手で器用にかき鳴らしている。見事な形のうろのある古木を磨き上げ、ごく細い弦を張って造っただけのものだ。さほど工夫があるようにも見えないその楽器から、部族民には昔から慣れ親しんだ身体に染みるような深い音が流れ出ている。
 ちょうど男たちの身体をぶつけ合うような猛々しい踊りが終わったようだ。観客が増えて子供たちの黄色い声が上がった。
「次が祝いの踊り、マースの出番だ」
 シークの声が上ずっているのがおかしかった。部族伝統の衣装を身にまとって娘たちが舞台に走り出た。一際目を引くのがマースだ。ゼンコの奏でる調べに身を任せながら、飛び跳ね、回転し、両手に持った鈴を打ち鳴らす。踊りが大きく、表情が豊かだ。見る者を引きつける天性の才能がある。

 曲が終わり、娘たちが優雅におじぎをすると割れんばかりの拍手と歓声が広場にこだました。
「ほら、シーク、終わったよ。座ろう」
 カンターがマースに見とれているシークを促した。
「やっぱりいいなあ、カンター」
「わかったから座ろうよ」
 立っているのは二人だけになっていた。

 ハットが古酒の壷を抱いて、みんなに注いで回っている。少し足元の危ないのは、壷が重いせいではなさそうだ。
「おじさん、ふらついているみたいだけど」
 カンターは隣に座るシークに言った。
「やれやれ、あれはもう相当飲んでいるぜ。おふくろに後でこっぴどく怒られそうだな」
 ハットが通り過ぎようとした男から袖を引っ張られて、酒が壷からこぼれた。
「あっ、危ねえな。親父はまったく。こぼすくらいなら俺にも飲ませろよな」
「えっ、シーク、酒を飲んだことあるの」
「ちょっとだけな。結構いけるぜ」
 シークは壷の取り合いを始めている大人たちを見て、そわそわと腰を浮かしかけている。父親ゆずりの酒好きらしい。
「そうか、そんなにうまいなら僕も飲んでみたいな」
 カンターは自分が少し興奮していると思った。
「おっ、真面目なカンターにしちゃ話がわかるじゃないか。そうだ、カンター。今日は俺たちにも酒が回ってくるんじゃないか。だって今日の主役は俺たちだぞ。あの紫草を退治したんだからな」
 カンターはまた両手をひろげてみた。ついさっき紫草の蕾を包んだ時、この手に生じた不思議な感覚。あの燃えるような熱さはどこからきたのだろう。子供たち全員の力が集まり、カンターの手を通じてそれが蕾に一気に流れ込んだのか。それとも長老が何か暗示のようなものをかけたのか。

 かがり火に照らされた手のひらをぼんやり見ていると、投げ出したカンターの足に何かがコツンと当たった。はっとして前を見るとマースが手を後ろに組んで立っていた。考え込むカンターの足を蹴ったらしい。
「なんだ、酒が回って来るかと思ったら可愛いお嬢さんじゃないか」
 シークが照れくささをごまかすように、大声を上げた。
「悪かったわね。お酒なんか、どこがいいのかしら」
 マースは二人の間に割り込むように座った。
「ねえカンター、聞きたいことがあるんだけど」
 まだ幼いなりに整った顔立ちのマースに下からすくうように見つめられて、カンターはどぎまぎした。シークが落ち着かない顔をしている。
「聞いているの、カンター」
「えっ、うん。何を聞きたいんだ」
「さっきの紫草のこと。長老はなんでカンターに蕾のところを任せたのかしら」
「それは俺たちが一番年上だったからじゃないのか」
 シークが口を挟んだ。
「おかしなこと言わないでよ、シーク。子供の方があの力が強いのは知っているでしょ」
 マースは一つ年上のシークを決めつけた。
「おかしくない? 部族の中であの力がもっとも強いのは私なのに」
 マースは不思議な力で注目されていた自分の影が薄くなって面白くないのだろう。その気持ちを隠そうともしなかった。
「あんなの、偶然だよ、マース。こいつにそんな力があるわけないって」
 シークはマースの機嫌を取ろうと懸命だ。
「偶然であの力は出せない。私は根から伝わってくる強い波動を感じたもの。カンターの力は本物よ」
「なんだよ、どっちなんだっての」
「もう、シークは黙っていてよ。カンターに聞いているんだから」
 マースに怒られたシークは頭を掻いて下を向いてしまった。威勢の良いシークとは思えない。本当にマースにご執心なのだ。
「ねえカンター、どういうことなの」
「それはさ、僕にも」
 わからないんだと言いかけたときに、広場の中央で誰かが大声を上げた。
「みんな聞いてくれ。リガードから話がある」

 リガードが中央のかがり火の前に歩み寄った。がっしりした岩のような体格と濃い髭をたくわえた彫りの深い顔は、いつもながら部族のみんなに信頼される部族長の威厳をたたえていた。
「みんな、今日はご苦労だった。特に子供たち」
 そう言って、リガードはぐるりと場を見回した。カンターとも目があった。
「お前たちのおかげで部族は危機を免れることができた。知っての通り、この世界は荒れ地ばかりだ。畑にできる土地はほんの一握りしかない。それを紫草に潰されたら、我々を待つのは飢餓、そして死だ」
 リガードは腰を深く折った。
「子供たちよ。部族を代表して礼を言う」
 部族長が人に頭を下げることは滅多にない。周りの大人もみなびっくりしていた。一瞬広場に沈黙が降りてから歓声が沸き起こった。
「そうだ、よくやったぞ子供たち」
「この部族はお前たちが救ったんだ。ありがとう」
 そこら中で子供たちが髪の毛をくしゃくしゃにされたり、肩をどやされたりしている。カンター、シーク、マースも手荒い祝福を受けていた。
「みんな聞いて欲しい」
 リガードが一段と声を高くした。カンターたちは再び座り直した。
「知ってのとおり、我が部族は常に二つの敵に悩まされてきた。ひとつは紫草。この脅威は今日、打ち払うことができた。紫草が一年に二度以上蕾を付けた例はない。おそらく次は数年後だろう。その時はまた頼むぞ、子供たち」
 リガードは今度は更に幼い子供たちの顔も眺めながら言った。マースがリガードの視線を受けて神妙に頷いていた。どうやら機嫌は治ったようだ。

「しかし竜がくる。」
 言葉を継いだリガードに部族全員が痺れたように緊張した。
「紫草が蕾をつけた年には、竜が襲ってくることがある」
 カンターは思わずこぶしを強く握り締めた。竜は前触れもなく部族に侵入し、狂ったように人も物も破壊して消えてゆく。カンターの父親はカンターがまだ三才の年に竜に殺された。部族を襲った竜と戦い、何人かの戦士と部族の外まで追いかけたが、逆に鋭い爪を胸に穿たれたのだ。
 家に運ばれた父親はすでに息がなかった。横たえられた胸には、ぽっかりと丸い穴が空いていた。その穴を見た時から、カンターの胸にも空洞ができた。カンターの胸の虚ろを父親の笑顔で再び埋めるためには、竜をこの手で殺すしかないと思い定めていた。
父が死んだ時、カンターは二親ともなくしたことになる。カンターが生まれた時に、その小さな命と引き換えのように母親がこの世を去った。線が細いが美しい人だったと言う。  

「シーク」
 カンターの横で足を投げ出して座っていたシークが、リガードの声に顔を上げる。背筋が真っ直ぐに伸びた。口は開けたままだ。無理もない。部族長がこういう公の場で個人の名を、しかも子供の名を呼ぶことは普通ないのだ。カンターは大事な友のことを心配した。
「モト、ゲイナー、カンター」
 リガードのゆっくりした声が続き、結局四人の子供、それもカンターと同年代の男の子の中から名前が呼ばれていた。自分の名前を耳にしてカンターの心臓も大きく跳ねた。
 息子のシークの名前が呼ばれた時にこわばったハットの表情が、すでにくつろいで嬉しそうに変わっていた。
「この四人は次の竜との戦いから戦士として加わるように」
 その言葉は部族の男にとって成人を認められたに等しいものだった。カンターの胸は大きく高鳴っていた。
 これで竜と戦える。父親の復讐がようやくできる。竜の胸を刺し貫いてやる。その時、きっと父は「カンター、よくやった」と笑ってくれるだろう。
カンターは非力な自分が戦士になるのはシークより後だろうと思い、焦る気持ちに押しつぶされそうだったのだ。戦士になれなかったら、一人でも部族を出て竜を探しに行こうとまで思い詰めていた。

「ともに戦おうぞ。私の話は以上だ」
 部族長の印でもある漆黒のローブをひるがえすようにしてリガードが自分の席に戻る。再び歓声が起こった。名前を呼ばれた四人は広場の真ん中に引っ張り出されて、男たちから握手攻めにあった。これから生死を共にして部族を竜から守ることになるのだ。歓迎もさっきより乱暴だった。
「たっぷり鍛えてやるからな、楽しみにしとけよ」
「竜は怖いぞ、小便もらすなよ」
 カンターは大人たちの力比べのような握手に悲鳴を上げた。ハットが古酒の壷を持ってにやにやしながら近づいてくる。

  4

 広場の騒ぎは収まる気配もない。カンターはそっと抜け出して部族が暮らす集落の奥、長老の家に足を運んでいた。初めて飲んだ古酒のせいで足がおぼつかない。シークが言うほど美味くなかったし、むしろ飲む前にきつい匂いに参ってしまった。
 それでもハットに強引に勧められて何杯かを胃の中に流し込んだ。カンターも大人の仲間入りが嬉しかったのだ。そのせいで気持ちが高ぶっている。それにも増してカンターの感情を波立たせているのは長老の一言だった。
「五年前に紫草が開花し、畑を壊滅させてしまったのはカンター、お前がいなかったからだ」
 あれはどういう意味なのだろう。マースも不審がっていたけれど、カンターが紫草の蕾を任されたのはなぜなのか。酔いのせいで躓きながらも、その疑問が長老の家への足取りを早くしていた。

「竜と戦うようになったか」
 カンターは長老の家で椅子に腰掛けようとしていた。
「どうして戦士になったってわかったの」
「お前、酔っ払っているじゃろう。子供が堂々と酒を飲めるのは戦士になってからじゃ」
 長老がカンターに飲み物を注いだコップを渡しながら言った。長老にお茶を出してもらうのは初めてだ。やはり今日は特別なことが起こる。喉が乾いていたカンターは一息にコップを空けて思わずむせた。
「ちょ、長老、これは」
 長老がにやりと笑った。
「おお、それはわしからのお祝いじゃ。わしの酒は甘くてうまいぞ」
 カンターはげんなりした。シークなら喜んだかもしれないが。そう思った時、一人で来た理由を思い出した。

「長老。さっき紫草を枯らす前に、僕に言った言葉はどういう意味なの」
「カンター、長老はどういう者がなるか知っているか」
 長老はカンターを見ながらはぐらかすように聞くと、自分のコップの酒をゆっくりと口に含んだ。
「昔のことを知っていることと、それを次の長老に伝えること。それができる人がなるんでしょ」
「それもある。しかしもっと大事な長老の条件は、子供たちの力を大人になっても残していることじゃ」
 カンターは驚いて長老の茶色い瞳を見つめた。
「あの力は子供だけのものじゃないの」
 長老はもう一度コップを傾けた。羽を擦らせて鳴く虫の声が、涼しい風と一緒に窓から入ってくる。

「わしも子供の頃のように人の怪我を治すことはできない。力の現れ方が変わっているのじゃな。残っている能力は二つ。ひとつは予知に近い勘の働きじゃ。良く当たるじゃろ。わしの勘は」
 そう言われると確かに今日も、なぜ長老はそんなことを知っているのか不思議に思う場面があった。
「そしてもうひとつが力を持っている人間と、その力の中味を見分ける能力じゃ」
「力の中味」
 カンターは呟いた。
「そうじゃ。子供たちの中には、手を当てて怪我を治すことが、なかなか上手くならない子がいるな。わしにはその子に不思議な力がないのか、それとも気持ちが集中できてないだけなのか、そういうことがわかるのじゃ」
「僕は、僕はどうなの、長老。怪我を治すのは下手だけど、さっきは手が燃えるみたいに熱くなった。あんなの初めてだよ。僕はおかしいのかな」
 堰を切ったようにカンターが聞いた。

「まあ、そんなに急くな。カンター、この部族は他所 よそと切り離されていると思ったことはないか」
 確かに他の部族との交流はほとんどない。
「それは山で囲まれているから仕方ないよ」
「いや、違う。この部族は他所者と交わらないように、この場所につくられたのじゃ」
「それはなぜ?」
「遠い昔、我々には大いなる力があったという言い伝えがある。その力がどんなものだったかは誰も知らんがな。その力の片鱗が傷を治す力としてわずかに残っているのじゃ。いにしえの部族長と長老たちはこの力を守り、育てようとしたのじゃ」

 長老は机の上に置いたカンターの右手を見ていた。
「外界との接触を極力絶ち、他所者を入れずに、力を残した者同士の血が濃く深く混じりあうようにな。だから我々はどこの国にも属しておらぬ」
 カンターは初めて聞く話にとまどった。しかしこの話を知る者は、一部の大人だけなのだという気もする。
「五年前、紫草が蕾を開こうとした時、今日と同じようにもう大人たちにはできることがなかった。刈ることも燃やすこともできない。そうなったら子供たちの可能性に頼るしかない。紫草から部族を守るという子供たちの強い意志は、傷を治す力を大いなる力に変えるきっかけになるかもしれん。そこでわしは部族中の子供たちを集めたのじゃが、カンター、お前はいなかったな」

「あの日、僕は山の裏の部族に使いに行っていたんだ」
 山を一つ越えた所にある部族とは情報を交換するために手紙をやりとりしていた。これがわずかに残された外界との交流だった。使いの役目の大人は一回に一人ずつ、子供を同行させる決まりがある。道を覚えさせるためだ。往復には五日掛かる。カンターはその道のりを思い浮かべながら答えた。
「わしは頭を抱えたぞ。部族にとっては不運じゃった。力の量が足りんのじゃ。どんなに集中して祈っても、紫草を枯らすほどのエネルギーにならなかった。後は知っているな。畑は次々に紫草に覆い包まれて、部族は飢え死に寸前にまで追いこまれた」

「僕もいたら紫草を今日のように枯らせたってことなの」
「正確に言えばお前一人いれば畑は救われたのじゃ。この部族の子供全員の力より、お前一人の力の方がはるかに強いからな」
「そんなばかな」
カンターは長老から目を逸らせて右手をじっと見た。そんな話があるもんか。カンターには長老の言葉は到底信じられなかった。これと言って取柄もない、それどころか未成熟な子供と思われているのに。カンターは反論の言葉を探した。

「でも、あの力は僕よりマースの方がよっぽど強いよ」
「マースは自分の力をすべて出しきっている。自分をコントロールすることができる器用な娘なのじゃな。じゃがそれ以上の力はない。あれで精一杯なのじゃ。やがて他の者と同じように力は消えていくじゃろう」
「じゃあ僕が……そんなに力を持っている僕が、怪我を治すのが上手くならないのはどうしてなの」
 長老が身を乗り出すようにしてカンターの眼を見つめた。
「わしには見える。お前の中にはあの力が泉のように溢れんばかりにたたえられている。じゃがお前が普段使っているのは、そこからわずかにこぼれる分だけじゃ。それでは怪我は治せん。それにお前の力は皆とは性質が異なるものかも知れん」
「異なるってどういうこと。もっとちゃんとわかるように説明してよ、長老」
 思わず大声がカンターの口から出ていた。驚きと不安で喉がひりつくように乾いた。
「それ以上はわしにもわからん。それにまだお前に言うべきでもないじゃろう。ただしお前は人と違った力を持つ者として、これから生きていかねばならない。それを伝えておくのは長老であるわしの務めなのじゃ」
「そんなこと言われたって、僕は一体どうしたらいいんだ」
 勢い込んだカンターを、長老が手で制して言った。
「カンター、今日のところは家に帰れ。自分の中で今日あったことをじっくり考えるのじゃ」
 初めて見る慈愛に満ちた長老の表情が、カンターの気勢をそいだ。

 長老は椅子から立ち上がった。
「それとお前に渡しておくものがある」
 カンターに近づきながら懐から出した細い手には、白い棒のようなものが握られていた。
「これは前の長老から引き継いだものでな、わしにもどういう意味があるのか、何に使うものかもわからんのじゃ。『笛』と呼んでおったが別に音が出るわけでもない。ただ、計り知れぬ大きな力を持つ子供が現れ、その子が戦士になるときに渡すようにということじゃった」
 小指ほどの大きさの白い棒は片方の端に穴が開いていて、以前は別の色だったと思われる黒い紐が通されていた。長老はそれをカンターの首にそっとかけた。
「お前が生まれてしばらく経つまで、これはわしの次の長老に受け継がせるものとばかり思っておったのじゃがな」
 どれだけの歳月を経たものなのか、新たな持ち主を得た笛はカンターの胸の激しい鼓動に合わせて、かすかに揺れていた。

◇◇◇◇

「あの力、我々に何をもたらしてくれるのか」
 カンターが帰ったあと、長老の家ではリガードと長老が酒を酌み交わしていた。
「さあな、それはわからん。じゃが、あの二人の息子ならば素質は大いにある」
「傷を治す力が誰よりも強く、そして大人になっても力が消えなかった女と」
 言葉を切ったリガードは酒を一口飲んだ。長老がその胸を指差した。
「そしてリガード、お前と最後まで部族長の座を競い合った男の息子じゃ」
 リガードが杯を口につけたまま窓の外、暗闇を見つめた。
「剣の腕ではとても敵わなかった。妙な男だったな。こちらの打ち込む場所がわかるのだと笑っていた。冗談かもしれんが」
「それは、わしの予知の力に近いものかもしれんな」
「カンターの父親は、我々に伝わる大いなる力の片鱗を持っていたのかもしれない。だとしたら惜しいな」
 長老が目を閉じた。
「古くからの言い伝えのこと、知っておろう」
「ああ、かつては平和ですべての部族が栄えていたという話だな」
「竜に襲われたり、紫草が畑を覆いつくすなどとということはなかった」
「夢のような世界だな。今の我々は竜と紫草から部族の民を守るだけで精一杯だ。紫草のおかげで、ただでさえ乏しい食糧を奪われ、竜のために気軽に旅もできない」
「それがなければ、この世界は大変な発展をするじゃろうな」
「その鍵を握るのが我らの部族に残る大いなる力か」
 静かに長老が目を開ける。
「そうじゃ。何世代もかけて濃くした血が、カンターの中で今、花開こうとしている」
 リガードが残った酒を飲み干して立ち上がった。
「楽しみだな、長老。俺はその新しい世界を見ることができるだろうか」
 痩せた老人がにやりと笑った。
「まあ、あせるな。どうなるかは誰にもわからんのじゃから。しかしわしも、もうしばらく生きる甲斐ができたわ」
 長老が細く息を吐いた。その乾いた音に応えるように、遠くで鳥の鳴き声がした。

<続く>

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