「誰かありきの人生」が美しくあるために

こんばんは。重そうなタイトルだなとは思いつつ、わたし自身が長いこと考えているテーマですので、お付き合いいただけたら嬉しいです。

家族や恋人を愛することは多くの物語やヒットソングのテーマになっていて、最もポピュラーな美の象徴といっても良いと思う。たとえそれが悲劇で終わったとしても一途に想い続ける姿に人々は涙し、その"変わらない気持ち"を美しいものであると讃える。でも現実世界はどうであるのか、というのが今回の問いの正体だ。

以前ツイッターである意見に出会った。それは端的に言えば、「自分の幸せを誰かの存在に求めてはいけない」という趣旨のものだった。言い換えれば、「一人でも十分に幸せ」という前提を誰もが絶対に持っておくべきということ。これを見たわたしの反射的な反応は「そんな寂しいこと言わないでよ・・」というある種の否定、そして落胆に近い気持ちだった。でも最近、時と共にこの意見の正しさを無視できなくなりつつある。

自分語りの恥を承知で言うと、わたしは恋愛にすごくのめり込むタイプで、夢中になると他のことが見えなくなる。そして、その人さえいればいい、自分の人生は今後何があったとしても満足だ!とまで思ってしまう。(やばい人間・・)その人ありきで人生を設計しても悔いはないと、迷いなく本気で信じることができてしまう。

20代前半までの若いころは、全くもってそれでいい、それこそが自分と思っていた。失恋の苦しみは本当に辛いけども、それさえ人生の豊かさになると思えるぐらいに自惚れていた。恋愛状態の脳が発する、この世のすべてが美しい!とでも言えそうな幸福感を望まない理由がなかった。でもそれはある意味大博打的な、命取りにもなりうる性質かもしれない、あるいは幻想なのかもしれないということを、近頃本当に遅まきながら学びつつある。

実は恋愛経験以上にこの考えを改めさせている要因かもしれないのが、自分の家族のこと、である。

わたしは19歳の時に父親を亡くした。長くなるのでここで詳しくは語らないが、その経緯から父を失ったという事実まで含めて、自分の中で整理するのになかなか時間がかかった。あるいは今でも、これからも途上であり続けるのだと思う。

身近な人物を失った事実への対応として鮮やかに対比的だったのは、同居していた祖母と母のそれだった。父の生前から、祖母にとって息子である父の存在は祖母のすべてと言っても過言ではなかった。(孫である私から見ても、だ。)それと対照的なのが、家庭内の役割に縛られることなく、とにかく自分のやりたいことをするという母の生き方だった。そんな母の強さが、実家を離れてしまったわたしの身勝手さを受け入れ、自由を保障してくれているということを、日々痛いほど身に染みて感じている。

命や心があるが故、いつ何があるかわからないのが人間。昨日までそばに居た誰かがある日突然いなくなるかもしれない、その人の意志で自分の元を去るかもしれない。そう考えた時確かに、「誰かありきの人生」は自分自身の足元を掬うのかもしれない。自分は映画の主人公ではない。涙してくれる人も、美しいと讃えてくれる人もいないかもしれない。

でもやっぱり、誰かと共にあるという幸せを捨てきれないし、捨てたくもない。失ってしまえる愛なんて愛と呼べるのか、なんて陳腐な問いさえも大真面目に繰り出してしまいそうなぐらいに。

魔法使いもドラえもんも助けてくれそうにないのなら、自分で自分を耕すしかない。「誰か」が現れる時もいなくなる時も、かすかでよいから在り続ける生態系を自分の中に持つこと。それこそが現状思いつく最適解なのかもしれない。

ではまた。

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