「何者」20代後半の憂鬱の話

こんにちは。

いきなりだけど、学生時代などの若いうちからめちゃくちゃやりたいことはっきりしてる人っているよね。神の啓示かなんか受けたの?ムハンマドなの?ってぐらいに確固たる意志があって、しかも周囲にそれを言うことにも躊躇いがないような人。

ここまでの流れで想像できる通りわたしはそうでない側の人間で、むしろほとんどの人がこちら側だと思うんだけど、でもその中でもどこか諦めきれないみたいな人たちが陥るのが、タイトルにあるような「20代後半の憂鬱」なんではないかと思います。

朝井リョウの「何者」という小説があって、映画は観てないんだけど原作は読んだ。あれは大学生の就活の話で、自分は何者なんだろう、という混沌とした不安や他者と比べてしまう苦しみなど、経験者として分かる、分かるよ。でも、20代後半に陥る「自分は何者なのか」という問いはもっと重くて、先が見えなくて、鋭いものだと痛感している今日この頃。要は、「何者」という問いに対する、他の誰でもない、自分に向けての最後通告。ひょっとしたら私の人生経験が浅すぎて、全然最後じゃないよ!というご指摘もあるのかもしれないのだけど。

就活の時の「わたし何者なんだろう?」は、確かに行き過ぎた周囲との比較という意味ではかなり特殊で不安をもたらすものだけど、あくまで人生の「就職」という一側面を切り取っただけだった。時に迷ったりブレたりしても、その幅は知れてた。むしろあの頃の葛藤なんて、一時の見栄やなんとなくのキラキラ感に踊らされてるだけの、今思えば非常にしょうもないものだったと感じている人も多いと思う。

やりたいことが決まっている人は、先に書いた就活の時の誤差的な迷いなんてぶち抜けてて、学生のうちから起業したり制作活動したりしてる。当時の自分は到底そんなこと思いもせず、大群の中で少しでも尖ろうと小さくジャンプしてた。ここはトレードオフだと思うんだけど、大群の中にいれば少なくとも孤独ではなかったし。

どうして何かをやりたいとそこまで強く思えるんだろう?それを口に出せるんだろう?そんな風に羨ましく感じたり、一方でそういう人たちのことをあまり良く思えなかったり、複雑な感情を抱くことは昔からあった。子供の頃から自分のやりたいことを決めるのが苦手で、常に空中から第三者的に見ている自分がいて、今"相応しい"と思うことはやれても、あなたがやりたいことは?と聞かれると途端に閉口してしまう。そんな癖は今でも克服できない。

最近世の中で活躍している人を見るにつけ、その人の年齢やバックグランドをつい確認してしまう。若くから活躍している人たちは、性格もあるだろうけどやっぱり経験が大きく影響している。両親の生き方やそれに伴う生育環境が強い影響を持っているパターンは多いけど、一方で学校に馴染めなかったりなどの苦しい経験の中で、自分にとっての大事なものを探求しつくして、その末に得たというパターンもあるように思う。

結論、自分の場合はそのどちらでもなかった。

書いているうちに、これ実は既に世の中に溢れまくっているテーマでは?という気もしてきた。これが主題になることはないけど、色々な漫画や小説の中で主人公のサラリーマンやOLや主婦が、就職して結婚して人並みの幸せは手に入れたけど、果たしてこれでよかったのか?と自問自答するような展開。その後主人公が何をするのかが主題な訳なんだけど・・

こういうことを考えていると暗い気持ちになってしまうね。そして考えていても意味がない。じゃあお前はどうするんだと。今後の書きたいテーマとしてひとつ考えてるのは「遅咲きの天才」シリーズ。20代後半の憂鬱に陥る全ての人に向けて・・とかなんとか添えて。

もうすぐ27になるんだけど、痛感していることがある。わたしたちの多くは「孤独」と「凡庸」の少なくともどちらかは背負って生きていかなきゃいけない、ということ。そんなのめちゃくちゃ当たり前なのかもしれないけど。偉そうなことばかり書くけど、今後何を選び取るかは全然決めきれてない。

ではまた。



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