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パパゲーナを探して

書くのが遅くなっちゃったので、ちょっと前になるけど「ももさんと7人のパパゲーノ」というドラマを見た。

パパゲーノという言葉。どこかで聞いたような…と思って、番組関連サイトを見てたら、そうそう、モーツァルトのオペラ「魔笛」に出てきたんだった。(私なんかは直近だとこの番組↓で触れていたことを思い出した。)

死を決意したパパゲーノは、パパゲーナに出会い死ぬことを思い留まる。「私はパパゲーノ」という企画はこのエピソードから生まれたとのこと。

私自身は「死にたい」とまで思い至ったことはない。けれども半世紀以上も生きていると、挫折や絶望の一つや二つはそれなりに経験している。主に人間関係においてが多く、思い/想いが伝わらないもどかしさ、どうしようもない自分の嫌な部分など、心の中にどす黒く重い鉛のようなそれを抱えたまま、どこにも吐き出せずにいた。言葉にならなかったその思いは、もしかしたら「死にたい」だったのかもしれない。

↑のサイトで紹介されている7人のパパゲーノ達の言葉で印象的なのがある。それは「死ぬ」ことと「死にたい」気持ちは互いにとても遠いということ。

もちろん人にもよるし程度も様々なのだろうけれど、死にたい気持ちを抱えたまま生きることを選択しているパパゲーノにとって、気持ちがそのまま行為に結びつくわけではないとは、具体的にどういうことなのだろう。

別のパパゲーノは、「みんなに受け入れられるための努力は終わりがない」「身動きが取れない」「社会人としてのストレスはなくならないと思うと、生きていけないみたいな気持ちになる」「いろんな選択肢が潰されていく」という言葉で表現していた。「死ぬ」を積極的に選ぶというより「生きていけない」「生きている理由がない」「この世に居場所がない」という気持ちが「死にたい」という言葉で表されているんじゃないかと思った。

共通項は過剰適応?

つい最近読了した、燃え殻さんの小説「湯布院奇行」。この帯にも「死にたいは、遠くに行きたい」とある。

「湯布院奇行」裏表紙より

(以下、少しネタバレになるかもしれないのでご注意を)

小説の中で「僕」という人間がどういう人物か、どうして湯布院に来ることになったのかが描かれている部分がある。「僕」は、過酷な条件であってもすぐ適応する「鈍感さと柔軟性」を持ち合わせている。どんなに苦しくても根性だけで立ち続けようとするのは、「代わりはいくらでもい」るからだ、と。けれどもやはりストレスは溜まり、数年に一度「バグ」を起こす。

この部分をあらためて読んで、この過剰適応とも言える部分(或いは周囲に馴染もうとする様)が先のパパゲーノたちと共通するように思えた。会社では会社の表向きのルールのみならず暗黙の了解とも言える目に見えない観念や慣習に倣わねばならない。会社の外の社会においてもその場面にふさわしい振る舞いをせねばならない。けれども実際はそう振る舞えず、身動きが取れなくて、生きていけないと思ってしまう。

私自身も自分を過剰適応だと思う節はある。

自分が置かれた環境でどう振る舞うべきなのか。どう振る舞えば周りの人の役に立つのか。役に立てなくても最低限迷惑をかけずにいられるのか。そんな風にその場に馴染もうとする気持ちが多分過剰なのだと思う。そこに自分軸というものはない。見失ってるんだな。それとも抑え込んでいるのかも。だから知らず知らずのうちにストレスを溜めてしまう。

溜め込んだストレスは、ある日突然爆発しない代わりに、自分を肯定できないという形になって表れた。求められるようにできない自分はダメだ、失格だと自己嫌悪を増幅させる。こんな私でもいい、とか、それでいい、そのままの自分でいい、という言葉をどうしても口にできなかった。誰かに受け入れてもらえないことももちろんすごく苦しいことは経験しているが、自分が自分を受け入れられないことも、相当辛い。人のせいにできない分、ベクトルは自分に向かうので、それこそ逃げ場がなく身動きが取れないのかもしれない。

生きることを選ぶ

幸い今はそこまで自己嫌悪を感じることはなくなった。おそらく、そのきっかけとなった事象から距離をとれていることも理由の一つだと思う。
そしてさらにもう一つ。これは後から気づいたことだけど、「自分に手の届きそうな目標を持つ」ということ。全然凄い目標じゃなくてもいい。簡単シンプルなこと。それを達成する度に、達成した自分、やるじゃん凄いじゃん偉いじゃんと肯定できる。これは別に目標じゃなくてもよくて、何か一つ好きなことを毎日やるとかでもいい。それをやっている間は余計なことを考えないから。そうして一日一日を積み重ねれば、生きていけるのかもしれない。

ここまで書いて思ったのは、おそらく、本来のパパゲーノは、自分が好きとか嫌いという気持ちよりもっと手前の根源的な部分で、人生の先行きが想像できないとか希望が全く持てないとか、思いが行くとこまで行き着いた人なんだろうなと。なので私如きがパパゲーノを語る資格はやっぱりなかったのかもしれない。けれども自分がこの先パパゲーノに絶対にならないとは言い切れないし、そうなるかもしれない未来の自分や今のパパゲーノたちが少しでも多く、生きることを選択し続けることを願いたい。

もう一度最後にリンクを貼る。ここで語っているパパゲーノ一人一人の言葉が、一つひとつ心に染み通ってくる。

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