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「記念日」


補助輪なしの自転車に乗れるようになった年齢が遅かった。
他の子供は保育園や幼稚園でもう乗れるようになっていたけれど、僕は小学一年生の終わりまで乗れなかった。昔から必要がないと思うことに関心がなく、もうそろそろ年齢的にという考えに至らず、周りに比べて遅れてしまうことが多かった。
自転車に関しても、ずっと補助輪付きに自転車に乗っている僕を見兼ねた友達(保育園で出会った恩人)が、「そろそろコマ無し自転車の練習を始めた方がいいな」と気遣ってくれて、そこから団地の前で自転車に乗る練習を始めたのだった。

父親に手伝ってもらうことはなく、友達に後ろから荷台を持ってもらい練習をした。

「離さんとってや」

「離してないで」

「ちゃんと持ってる」

「ちゃんと持ってるよ」

「いや、離してるやん」

ちゃんと二人でこのやり取りをしていたら、二時間くらいで乗れるようになっていた。
徐々にコツを掴んでいくのではなく、あの突然やって来る「あれ、乗れるぞ」という感覚。目の前の世界が一気に広がって行くような、滑らかに進む二つの車輪で、今まで走っていた世界を塗り変えていくような高揚感。
後ろを振り返り僕が「乗れたで!」と叫ぶと、友達は「やれやれ」といういつもの顔で軽く手を上げた。

僕の名前を呼ぶ声が聞こえ団地を見上げると、ちょうど母親が洗濯物を干しにベランダに出て来たところだった。
僕は母親に手を振りながら「自転車乗れるようになった!」また叫び、母親も「凄いやんっ!」と手を叩いて喜んだ。
僕はもう無敵になった気がして、スピードに乗ったまま団地の前の道路に飛び出し、そのまま車に跳ねられた。

よく死の際に流れる時間の話を聞くが、確かにあの瞬間の記憶は全てがスローモーションなのである。ゆっくりと車が迫って来て、僕の自転車のペダルが車のフロントにめり込んでいくのを僕は見ている。そのまま体が浮いて左の肘とお尻をアスファルトにぶつけて着地した。

運転手のおじさんが団地の前をゆっくりと走ってくれていたので、急ブレーキをかけた車に押されたような格好となり、僕の体は大きく飛んだ割にほとんど怪我はなかった。
母親より先に走ってきた友達から「ちゃんと確認せなあかんやろ」と怒られ、後からきた母親も運転者のおじさんに謝っていた。
太股が腫れていたので、一応検査も兼ねて病院に行き、運転手のおじさんに新しい自転車を買ってく下さいと三万円貰った。

その日は僕にとって、初めて補助輪なしの自転車に乗ることが出来た日でもあり、初めて自転車で車にひかれた日にもなった。

そして病院の帰りに、僕が初めてエビドリアを食べた日でもある。





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