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「生まれ変わる準備」


小学校に上がると学童に通うことになったのだが、初めて学童に連れて行かれた日のことを、僕は保育園に初めて連れて行かれた日と同じように鮮明に覚えている。
保育園の時とは違い、小学一年生の僕は学童がどんな場所なのか、どうして自分が学童に通わなければ行けないのかをちゃんと理解していた。

その日は、家を出るまで降っていた雨のせいでアスファルトは濡れ、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。
母親の後ろについて歩きながら、また知らない場所に行き、知らない人と関わりを持たなければならないことを、ただ面倒だと思っていた。

自転車の後ろに乗せられるのを嫌がり、母親に何度も「早くいくよ〜」と注意されながらも、なるべくゆっくり、ふらふらと歩き、落ちていた空き缶を蹴りながら、少しでも到着する時間を遅らせようとしていた。
ドブ川に架かる橋へと続く階段を上るところで空き缶を諦め、今度は雨で勢いの増したドブ川の流れに興味を移した。
橋に設置されたフェンスを両手で掴みながら、じりじりと横歩きで橋の真ん中辺りまで進む。ふと視線を川から足元に戻すと、雨に濡れてきらりと光る、小さくて丸い石を見つた。

「ほら、何やってんの、早く行くよ〜」

声をかける母親を無視して、立ち止まった僕が小石に触れると、指先に「むにゅっ」とした感触が伝わってきた。
僕は動揺しながらも、ため息をつく母親にそれを悟られぬよう、そのまま小石を拾い上げ、勢いを増した川に力いっぱい投げ込んだ。
母親が歩き出すまで、そのまま興味深げに水面を見つめ、母親がまた歩き出すと、素早く小石を掴んだ右手の指先の匂いを嗅いだ。

めちゃくちゃ臭かった。

僕は丸く綺麗な小石と間違えて、雨に濡れてきらきらと光る、犬のクソを拾い上げてしまったのだ。

めちゃくちゃ最悪な気分で、今すぐにでも母親に助けを求めたかったが、小石と間違えて犬のクソを拾ったなどと恥ずかしくてとても言えず、僕はそのまま、何事もなかったかのように振る舞うしかなかった。
ただ右手の指先には、ぬるく気色の悪い感触がずっと残り、わなわなとした震えが指先から全身に這い上がってくる。
一刻も早く石鹸で手を洗いたい僕の足取りは、さっきまで散々学童に行くのを拒んでいたとは思えないほど急激に速くなり、母親を追い越すとちょっとキレ気味の口調で「もう早く、先行くで!」などと怒鳴りつけた。
突然、発作のように始まった息子の異常行動に、母親はさぞ困惑していただろう。

学童に到着すると、まだ若い男の先生が笑顔で迎えてくれた。
母親と一緒に軽く挨拶をした僕は、下駄箱に靴を入れる余裕もなく、その場に靴を脱ぎ捨てると、大きなプレハブ小屋のような部屋の中に飛び込んだ。そのまま一直線にトイレの洗面所まで走っていくと、学童に来ていた数人の児童が「おっ」と声を上げた。立ち止まるわけにいかない僕は、その反応に笑顔で答えて切り抜けた。

洗面所の蛇口を荒々しく捻り、噴き出した水で指先を洗う。その後はこれでもかというほど手の平に石鹸の泡を纏い、無我夢中で何度も何度も手を洗い続けた。

児童達のいた部屋の方から、母親と先生の話し声が聞こえてくる。

「最初は来たがらへんくて、どうなることかと思ってたんですけど」

「いやぁ〜、全然心配ないですよ!あんな初日から元気いっぱいのお子さんいませんから」

「なぁ先生〜、いまの新しい子?めっちゃ元気やなぁ〜」

「そうやで、仲良くしたってなぁ」

僕は何度も石鹸で手を洗いながら、いつの間にか、元気で明るい生徒として生まれ変わる、その準備をしているような気分になっていた。


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