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エッセイ「好き嫌い」



 僕は肉が嫌いなのだけれど、今まで嫌いになったキッカケみたいなものを書いたことがないなぁと思った。そもそも人はいつ嫌いな食べ物を、これは食べられないと認識するのだろう。
 一度口にしてこれはダメだと思うのか、それ以前にフォルムや色味に抵抗を感じるのか、それともそこから発せられる臭いで苦手だと察するのだろうか。僕の場合は、口にするまで何の抵抗もなかった。

 まだ保育園の頃だと思うが、当時住んでいた団地の近くに小さな飲み屋かスナックがオープンして、開店祝いの大きな花が沢山届けられた店の前では、昼間から宣伝の為に店主が焼き鳥を焼いて通行人に無料で配っていた。団地の子供達の間で焼き鳥が無料で貰えるという噂は瞬く間に広がり、僕も姉やその友達の後ろに付いてお店まで走った。お店に近づくにつれて、もくもくとした煙にのって焼き鳥の甘く香ばしい香りが漂い始め、それはお祭り会場に行く時のような興奮だった。

 テレビの映像でしか見たことのないあの焼き鳥を、今日僕は食べることが出来る。

 店に到着すると主婦らしき女の人が2〜3人並んでいて、僕らもすぐにその後ろに列を作った。並んでいる間もその芳しい香りが鼻を刺激し続け、僕は一人うっとりした表情を浮かべた。順番が来ると、店主は宣伝するうえで何のプラスにもならない僕に対しても、嫌な顔一つせず笑顔で美味しそうな焼き鳥を二本も渡してくれた。

 テレビの中でしか見たことのないあの焼き鳥が、今!僕の両手にある。

 焼き鳥から顔を上げると、一緒に来た姉達は皆すでに焼き鳥を美味しそうに頬張っている。僕はまず、この初めて焼き鳥を食べるという瞬間を味わおうと思った。
 意外にずっしりとくる串の重み、串に伝わる肉の温もり、そして食欲をそそるタレの香り。僕はそれを十分に堪能すると、今度は串を持つ手に流れて落ちた、そのタレに舌をつけた。

 うまい!美味い!旨い!マシッソヨ!デリシャス!Buono!

 日本語のうまいだけでは足りないほど完璧だった。タレを舐めるともう我慢など出来ない。僕は右手に持った焼き鳥に狙いを定め勢いよくかぶりついた!

 次の瞬間、ゲロを吐いてその場に倒れた。

 何が起きたか理解が出来ず呆然としている僕に、毒を盛られたと思った店主や周りの大人達が駆け寄って来た。

 僕は大丈夫だと伝え、汚れた口を拭いながら爆笑している姉達の元に駆け寄った。
 恥ずかしさや、せっかくくれた物を食べられなかった申し訳なさで、僕は店主の制止も聞かず団地へ戻り歩き出した。

 そんなはずがないと思った。
 こんなにも美味しそうなのに食べられ無いわけがないと自分を奮い立たせ、僕はもう一度焼き鳥の先端部をかじった。肉の美味しさはあまり分からなかったが、タレの旨味でなんとか食べれた。

 よし、大丈夫だ、これならいける。串に刺された一塊の肉を口に入れ、僕は力いっぱい引き抜いた。

 次の瞬間、肉と一緒に小ゲロを吐いた。

 肉の中でも、とりわけ脂身の部分を僕の体は受け付けないのだと悟った。あの脂身を噛んだ時のぷるんとした食感を感じた瞬間に、全身が震え吐気がせり上がって来てしまうのだ。
 そこから僕の肉嫌いは始まり、日々の生活の中でとてつもない苦労を強いられることになるのだが、それでも肉への憧れや向き合い方を変えたことはない。


 動物は本能で食物の好き嫌いを判断すると言われている。ネズミがいつも食べている食事に嘔吐剤などを注射すると、ネズミはその食物を二度と食べなくなる。
 これはネガティビティ・バイアスという現象で、好ましい情報より好ましくない情報の方が大きなウェイトをもって処理される。雑食性動物が個体の生存として、毒性のある食物を摂取してしまう危険を防ぐ為の防衛規制なのである。
 だから人間は、嫌いな食べ物を食事中に見たくもないし、横に添えられて匂いや味が移ってしまった物も口にしようとはしない。

 でも僕は今でも焼き鳥を見て美味しそうだと思うし、自分も食べることが出来たら世界がどれだけ素晴らしくなるだろうと考える。
 何が食べたいかと聞かれれば焼き肉と答えるし、今の状況下では部屋が臭くなることを覚悟で家焼き肉だって敢行する。グリンピースが嫌いだとか、辛い物が苦手とかではなく、肉を食べられないことが世間の常識から見て、少し変なのだとちゃんと理解しているつもりである。
 だから少しでも近づきたいと思う。でも近づこうとすればすれほど、周りからは「変なんだよっ!」ツッコまれてしまう。

 たとえ嫌いでも絶望はしないと決めている。僕の嫌いを世界の嫌いにはしてはいけないと思って生きている。
 少し長くなるので、僕がどうやって焼き肉を楽しんでいるか等は、また次のエッセイで綴りたいと思います。


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