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cakesホームレス記事炎上を考える(「構造」を考えることの大切さ)

ホームレスを好奇の目で見る無邪気さ=残酷さ

ホームレスの方々を「取材」したcakesというウェブメディアの記事が炎上しました。このCOMEMOがプラットフォームとして利用しているnote、その運営会社note株式会社がウェブマガジンとして展開している媒体で起った出来事でした。日本経済新聞社とnote株式会社(当時はピースオブケイクという社名でした)は2018年に資本業務提携をしています。

記事への批判は既に様々な角度から行われています(関心ある方は検索してみてください)。私が最も気になったのは、cakes編集部がこの無邪気で社会や格差の「構造」に全く思いが至らない記事に「cakesクリエイターコンテスト優秀賞」を与えている点です。(以下は当該記事から引用)

おじさんたちの時間にとらわれないゆったりとした生活スタイル、『となりのトトロ』に出てくるような森の木々をかき分けて進むと突然ひらけた空間に現れる小屋、何でもかんでも燃やすことのできるかまど、天候によって左右される野菜の収穫など、私たちが日常を過ごしているなかではめったに出会わない要素がたくさん散りばめられている。とはいえ、私たちはおじさんたちのような路上生活をしようとは思っていないし、現在のテクノロジーに囲まれた生活を続けていきたいと思っている。(中略・太字は筆者)そのうえで、おじさんたちの日々からみえてくる様々な工夫や生活の知恵を追いかけたい。それは、私たちが日常生活をしているなかでは触れる機会が少ない体験をおじさんたちを通してできるという刺激が根本にはある。

この「構造」を考えない、あるいは敢えて見て見ぬふりをし、決して「寄り添わない」姿勢は、例えば「地方での素朴な暮らし」を描くような記事やニュース映像などでも毎日のように目にすることができます。素朴さは都会の価値観から見れば、非日常で魅力的に映るかも知れませんが、そうするしか選択肢がないからそうしているのだ、という可能性に思い至るか、が問われていると思います。

「無関心よりも良いではないか?」という指摘もありますが、「私たちはおじさんたちのような路上生活をしようとは思っていないし、現在のテクノロジーに囲まれた生活を続けていきたいと思っている」という態度を表明している以上は、その先にある問い、つまり「どうしておじさんはホームレスになったのか」そして「私たちはどうしておじさんをホームレスでいることを許容しているのか」という問いに辿り付くことはないでしょう。(例えば文中にある「フレームもしっかりと色が塗り替えられて、おじさん専用にカスタマイズ」は、この記事の筆者が想像するようなカスタマイズ云々の話ではなく、警察による盗難自転車の取り締りや元の持ち主など社会からの攻撃を避ける意味合いが強いはずです)単に好奇の目を向けられるくらいなら、こっちを見ないでくれ、というのが当事者が持ちうる感情ではないでしょうか。

その問いに書き手が気がついていないのであれば、編集者(学校であれば教師)が、そこを指摘する必要があります。この記事は公開前に取材からやり直すことになったと思いますが、そうならなかったばかりか、編集部が賞を与えてしまっているというところにとても残念な気持ちになります。

構造を考える(考えさせる)ことの大切さ

この騒動を知って思い起こしたのが、こちらの記事でした。

環境問題など私たちの社会を巡る課題を子ども達に考えさせるときに、「自分のできること」に限定して、その解決策を回答させるというアプローチはたしかに大学にいてもその影響を感じ取ることができます。わたしは学生が提出するレポートで「一人一人が考える」「日々できることをする」と結論付けているものは徹底的にダメ出しをしますが、なかなかそこから抜け出せない、というか何故それではダメなのか理解できない学生が少なからずおり、高校までの教育でどうもその逆のことが行われているようなのです。そういったアプローチの1つの到達点が先の「ホームレス観察日記」に見られるような「あくまでも自分の立ち位置からしか対象を見ることができない」一種の無邪気さ=残酷さにもつながっていると感じます。

格差と分断が指摘されるメディア環境にあって、子ども達に他者(自分たちの異なる環境におかれた者たち)に思いを馳せさせたり、彼らと私たちを取り囲む「世界」を認識させるのは、実は容易なことではありません。いくらホームレスの置かれた環境を目の当たりにしても、単なる好奇心・観察の対象とされてしまっては、その構造に思い至ることはないでしょう。そして、その構造を真正面から学ばせようとすると、そういった経験を持たない子ども達にとって苦痛となり、構造を学ぶことそのものを避けるようにすらなってしまいます。

わたしは、小説などの物語コンテンツが持つ力が、このような時代だからこそ重要になってくると感じます。10万文字前後の文章が読めることが前提となりますが、幸い子ども達も含め私たちはインターネット・ソーシャルメディアで多くの文字を読むことを苦痛とはしていません。適切な読み解きの導きの機会さえあれば、他者のおかれた境遇や、彼らと私たちを何が分け隔てているのかといった構造に目を向けることができるはずです。

奇しくも、つい先日柳美里さんの長編小説『JR上野駅公園口』が、全米図書賞(翻訳部門)を受賞しました。ここでは多くは述べませんが、cakesの編集者と記事の著者にはぜひ読んで欲しいと思います。

※この記事は日経媒体で配信するニュースをキュレーションするCOMEMOキーオピニオンリーダー(KOL)契約のもと寄稿しており日経各誌の記事も紹介します。詳しくはこちらをご参照ください。

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