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ありふれた別れ

 先ほど、きょうだいと別れた。

 私には、双子のきょうだいがいる。以前こちらの記事でしたためた「きみちゃん」だ。
 https://note.com/a_ka_shi___/n/n1a434943c16b

 この記事を読めばわかるように、私ときみちゃんは、人生のほぼ全ての時間をともに過ごしてきた。同じタイミングでこの世に生を受け、同じように育てられ、同じ密度の愛情をもらってきた。

 性格や価値観に少しだけ違いはあるものの、根幹となる部分は似通っている。そして、誰よりも私のことを理解してくれている。幼少期からべったり張り付いて育ってきたから、私の性質や思考回路を全て理解しているのだ。ゆえに、困りごとを相談したり愚痴を吐いたりするとき、私は誰よりもきみちゃんを頼っている。
 仲のいい友人や知人はたくさんいåるが、それ以上に深いレベルで私のことを理解し、良い相談相手、議論相手になってくれるきみちゃんは、今も昔も私にとって唯一無二の存在だ。


 そんなきみちゃんが、転勤することとなった。
 告げられたのは5月末。7月から部署が異動になり、それに伴って勤務先が大きく変わるらしい。しかも勤務先は、我々の自宅から遠く離れた沖縄だという。

 もともときみちゃんは、学生の時からやりたい仕事を明確に決めており、その仕事をやるために就職先を選んだ。上記の記事にちらっと出てきた、きみちゃんが最初に内定をもらった会社だ。しかし、入社してから最低3年経たないと希望の仕事はできないと言われていたそうだ。
 きみちゃんはそれを受け入れ、希望の仕事をするために毎日こつこつと働いていた。いつかその仕事ができる部署に異動になることを夢見て。

 だが、なんと入社から1年と少しで、希望の部署への異動が決まったのだ。社内でも例を見ない人事だという。

 きみちゃん曰く、日頃の働きぶりが大きく評価され、早いうちでの異動が決まったようだ。ともに育ったきょうだいとして、その事実が非常に嬉しかったし誇らしかった。私が誰よりもリスペクトするきみちゃんが、社会的にも大きく評価されていることが喜ばしかった。
 ただ、勤務地が沖縄になるという。今まで同じ家に住んでいて、生活リズムの違いゆえ会わない日が続いたとしても、1週間のどこかでは必ず顔を合わせ、他愛のない話をしていたきみちゃんが、遠く離れた地へ旅立ってしまう。
 初めはにわかに信じられず、あと1ヶ月も経ったらきみちゃんがいなくなるなんて、到底想像することができなかった。
 7月にきみちゃんと行こうとしていたライブやイベントがたくさんあったし、いつか2人で家を借りて、親元を離れて暮らしてみたいね、なんて話してもいた。結婚などよほどのことがない限り、きみちゃんは当たり前に私の横にいると思っていた。向こう数年は絶対に、私ときみちゃんは実家でのんびり暮らしているに違いない。そんな当たり前が、一気に弾けてしまった。

 とりあえず、きみちゃんと行く予定で取っていたチケットの処理を始めた。同行者を探したり売りに出したり、などなど。突然の事態が発生した時にまずできることは、こうした即物的なことのみだ。感情の整理や事象の理解なんて、投擲できるわけがない。

 もちろん、きみちゃんもこの辞令にいたく動揺していた。栄転の喜びと突然の転勤への驚きで、嬉しさと驚きの反復横跳びをしていた。その動揺は、もちろん我々家族の比ではない。

 ただ、動揺していても時間は刻々と過ぎていく。きみちゃんはうろたえながらも、着々と心の整理を済ませ、粛々と新生活の準備を始めていった。一人暮らし自体が人生初のきみちゃんは、一人暮らしに関わる全ての手続きに不慣れだった。そんな中でも、引越し業者を手配し、住むのに適した家をいくつもピックアップし、役所への手続きを済ませ、忙しい仕事の合間を縫って様々な準備を進めていた。横で見ていて、何度たくましいと感じたことか。

 それと同時に、私はきみちゃんとの思い出をたくさん作っていった。もともと我々は仲が良く、しょっちゅう2人で出かけたりご飯を食べに行ったりするが、6月の一ヶ月はいつもに増してきみちゃんとの時間を多く取るようにしていた。
 とはいえ、一つ一つの遊びは何ら特別なものではなく、いつものご飯やお出かけ、という気軽なものだった。ゆえに、2人でいる時にしんみりすることはなかったし、これが終わったらきみちゃんと遊ぶのがひとまず最後になるのか、などと感慨に耽ることもなかった。そもそも私はこのとき、きみちゃんが我が家を去るということに全く実感が湧いていなかったからだ。そしてそれは、おそらくきみちゃんも同じだった。


 そうこうしている間に6月が終わり、7月が到来した。
 7月のきみちゃんは無事に住居を決め、異動先の部署の研修を始めていた。研修は自宅の近くで行なっていたため、7月上旬はまだきみちゃんは私の近くにいた。引き続き、ご飯を食べながらぺらぺら話をしたり、何はなくともなんとなく家で2人でだらだらしたりしていた。要するに、今までと何も変わらない日常を過ごしていた。

 しかし、ついに引越しの日がやってきた。この日私は出張中だったので、きみちゃんと直接顔を合わせていない。家族のLINEに「沖縄行ったよ!」と連絡が来たことで、えむちゃんの引越しを知った。これだけでは全然実感が湧かなかったが、出張から帰り、がらんどうになったきみちゃんの部屋を見てうっすらと、きみちゃんが我が家からいなくなってしまったなと感じた。
 とはいえ、その事実を頭で理解し始めただけで、心の中では全く実感を覚えていなかった。


 翌日、私と両親は、きみちゃんの引越しを手伝いに沖縄まで飛んだ。
 もともときみちゃんの引越しが決まった時に、引越し日に合わせて我々家族も沖縄に飛び、新生活の準備を手伝うという話をしていたのだ。生活に必要な家具や家電の購入、新居の片付けなどの手伝いをするというのが本来の目的だったが、私は久々に沖縄に行けることに心を躍らせており、きみちゃんの手伝いは二の次くらいに考えていた。観光や沖縄グルメの満喫を第一に考えていたので、家族に呆れられていたくらいだ。

 我々家族の沖縄滞在は1泊2日だった。
 いつも通りのきみちゃんと沖縄で会い、一緒に沖縄グルメを食べることを楽し荷にしていたが、到着後に会ったきみちゃんからは、生活の場が離れたことによる他人行儀さのようなものを感じてしまった。家でみんなで暮らしていた時の完全オフな様子ではなく、終始どこか外向きの態度で我々家族と接していたように感じた。
 
 家族に対して外向きに接するきみちゃんを見ることは初めてだったし、私に対しても少しよそよそしく応対するきみちゃんを目の当たりにし、一人暮らしを始めてたった一日で、きみちゃんは「よその家の人」になってしまったのだなと感じた。
 それが少しショックで、私もきみちゃんに対して少し距離のある態度をとってしまった。すでによその家の人になりつつあるきみちゃんと、今までみたいなツーカーの関係性を継続させることは無理なのかもしれないと、乾いた気持ちにもなってしまった。
 初日の夜、家族でご飯を食べたが、その時も終始ぎこちなく、期待していたほどの盛り上がりは感じられなかった。連日にわたる引越し業務できみちゃんが疲労困憊だった、ということもあるが、やはりよそよそしさや過度な気遣いを感じてしまった。

 二日目も同じだった。昨日と変わらずきみちゃんは少しよそよそしく、私の知ってるきみちゃんではなかった。
 この日にやるべき買い出しが終わり、国際通りの端で遅めの昼ごはんを食べている時もそうだった。きみちゃんは我々家族に対して気を遣ってくれたし、わざわざ沖縄に来てくれてありがとうと、終始恐縮していた。そんなにかしこまることはないのに。我々家族は、大事なきみちゃんの門出のためなら、どんな無理を押してでも駆けつけるに決まっているのに。

 昼食が終わり店を出た我々は、各自の都合に応じて別行動をすることとなった。まだお土産を選び切れていない両親は国際通りを巡り、お土産の目星をつけていた私は国際通りを観光し、きみちゃんは私に付き合ってくれることになった。
 そのため、店を出た段階で両親ときみちゃんは別れることになった。両親ともども、きみちゃんに「新生活頑張ってね」「なんとかなるよ」と声をかけ、きみちゃん「ありがとう、頑張るよ!」と呼応していた。最後はグータッチで激励を交わしていた。

 去る両親の背中を見送りながら、きみちゃんはさめざめと泣いていた。掛けている黒いサングラスで目元が見えなくても、鼻の赤みや頬を伝う涙で、泣いていることは一目瞭然だった。

 私はこの後両親と一緒に帰り、引き続きいつもの家で共に暮らすが、きみちゃんは両親としばらく会えなくなってしまう。ましてや、今後二度と会うことができないかもしれない。今までの20数年間は当たり前のように会っていたのに。

 このとき初めて、きみちゃんが我々とは違う場所で一人暮らしを始めてしまう、という事実を心から理解した。暮らしの場が変わり、日常的に会える人が変わり、生活の方法が変わってしまう、という、私ときみちゃんの間にこれから生まれるあらゆる違いが、一気に心へなだれ込んできた。
 私はこれからも慣れ親しんだ家で変わらずのんびり暮らすだけだが、きみちゃんはこれらの滝のような変化に、一人で立ち向かわなければならない。しかも、今まで横できみちゃんを支えてきた私は、今回ばかりは何も手助けすることができない。できることは遠く離れた我が家からきみちゃんの身を案じることだけだ。

 両親ときみちゃんの別れを見てそれらを急に理解した私は、きみちゃんの涙に釣られるようにもらい泣きをした。人生で初めてのもらい泣きだ。
 きみちゃんが感じるであろう辛さ、それに対して何も助力できない自分の無力さ、共に生活できないという悲しみ、「きみちゃん」という当たり前の存在が当たり前でなくなってしまう喪失感。全てが涙となって流れ出してきた。

 たった5分前まできみちゃんに対してドライな気持ちを味わっていたが、そんな気持ちは一掃された。やっぱり、きみちゃんは世界に一人しかいない私のきょうだいだし、唯一無二のめちゃくちゃ大事な存在だ。そんなきみちゃんと別々の生活を送るなんて考えられない、この先きみちゃんと気軽に喋れなくなったら、私はどうすればいいのだろう。

 
 家族がいない、「ひとり」での生活が始まることを痛感したきみちゃんと、きみちゃんがいない生活が始まることを理解した私。
 お互いどこか湿っぽい気分になりながら、唯一のきょうだいとの別れを惜しむように、ゆっくりと国際通りを散歩した。特に会話もせず、まして「これが最後だね」なんて言うこともなく、ただ淡々と歩いていただけだが、お互いにこれが最後の思い出になる、とわかっていた。
 国際通りを歩き切ってしまったら、今まで同じ暮らしをしていた我々は、文字通り別々の道を歩むことになる。それを痛いほど実感していた。このままずっと国際通りを歩けたらいいのにと思ったし、国際通りが長いことをこんなにありがたいと感じたことはない。

 国際通りの橋にあるプリクラ屋さんで、生まれて初めて2人でプリクラを取った。そして、私のお土産選びを手伝ってもらった。どれもささいなことだが、全部思い出になるんだろうなと感じながら、大事に大事に時間を過ごしていった。

 
 そして、モノレールの駅できみちゃんと別れた。
 今まではきみちゃんと別れても、数日後に家で会えるという絶対的な安心感があったが、今回は生まれて初めて、もうしばらく会えないという悲しい別れになってしまった。モノレールに乗ってしまうのが名残惜しく、柄にもなくきみちゃんの前でわんわん泣いてしまった。滅多に人前で泣かないのに。泣いてもどうしようもないのに。

 それでも、意を決して改札を越え、モノレールへ乗り込んだ。私が改札を越えるまで、きみちゃんは手を振って見送ってくれた。

 モノレールに乗っているときも、帰りの飛行機に乗っているときも、別れの時を思い出して涙を流していた。居合わせていた人は、こんな楽しい観光地で滂沱の涙を流している私を見て、ぎょっとしていただろう。


 暮らしたことない地で人生初の一人暮らしを始め、憧れの仕事に従事するきみちゃんのことを、心から応援している。今までのように、困ったらすぐ私や家族に相談できるわけではないので少し心配だが、何かあったら一人でどうにかするだろう。引越しまでの経験を通して、みるみる強くなっていったきみちゃんを目の当たりにして、そう感じた。
 私も私で、今まではきみちゃんに心の拠り所を見出していた。ちょっと背中を押してほしいときから大事な決断をするときまで、ことあるごとにきみちゃんに相談をし、意見を仰いでいた。ただ、これからはそうすんなりと相談ができなくなる。それでも悔いのない選択ができるよう、私も心を強くしていかねばなるまい。きみちゃんに負けないよう、私も強くて立派な人間になろう。


 という感情はあれど、別れが悲しいのは事実だし、名残惜しさはしばらく拭えそうもない。もう金輪際、私ときみちゃんは一緒に暮らせないかもしれない、という事実はやはり辛い。

 ただ、これが今生の別れというわけではないし、ちょっとお金と時間があればぴゅんと沖縄に行ってきみちゃんに会いに行くことができる。距離の違いはあれど、会いたい時に会える存在であることは変わらない。

 きみちゃんよ、生まれて初めて我々の人生は真っ二つに分かれてしまったが、それぞれの道をもりもり歩んでいこうではないか!そして、次に会うときは互いがびっくりするほど、ビッグで格好いい人間になろう!
 人当たりが良くて芯が強くて格好いい、私の憧れを詰め込んだようなきみちゃんと一緒に育つことができたというのは、とても大きな財産だ。私はきみちゃんに比べたらよっぽど子供だし、きみちゃんに甘えすぎているがあまり嫌な態度をとってしまうことがとても多かったが、それでも呆れずに私を受け入れてくれて、本当にありがとう。

 遠く離れた地から、誰よりもきみちゃんの活躍を願っているよ。

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