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“私”を探して

子供の頃の私は
自分の家が“普通”だと思っていた。

ここにしか
私の居場所がないのだと

親に養ってもらっているのだから
歯向かってはいけない

親は尊敬するべき対象

親の言う通りにしていれば
きっと、全てうまくいく。

自分で考えなくなっても
道を作ってくれる

あんなに色んな道を調べて
道を作ってくれてるのだから
外れてはいけない

だけど
私は不器用で頭が悪かったから
親(特に父)が作った道の上を歩けなかった。

公立高校の試験に落ちた時
泣きじゃくる私を冷たい目でみて

「私立が受かってるからそっちにいけばいい」

投げ捨てるように言われた言葉。

私は私立は行きたくなったから
一生懸命に勉強した。

父の背中は自分の思い通りにならなかった娘への落胆を帯びていた。

私は父の期待に添えなかった事に
涙が溢れた

母は背中をずっと摩っていた。

私立に行きたくないと
私はずっと悶々としていた

父は何も言わなくなった

そんなある日
高校の二次募集を知る

公立高校としては珍しい事だが、
欠員が出たのだ。

母が「もう一回チャレンジする?」
と聞いてきたので

「もちろん!」

願書提出までには時間がない
慌てて書類を揃えて
事務局に持っていく。

自信はあった
大好きな小論文だったから。

当日、父が何か言ってくれたかは覚えてない。
母は、「頑張れ!」と言ってくれた。

見事、合格した日
母は一緒になって喜んでくれた
父は珍しく「よかったな」と言ってくれた。

親の期待に応えられた気がした。

ところがだ、大学受験に失敗した頃から
私は自分の居場所がここではない気がしてきた。

高校に入り、視界が広がり、人間関係が広がると、自分の家に違和感が。

なんとなく、家に居場所がないのだ。
家にいても落ち着かない。

私は家に留まるのがしんどくなった。

今思えばたくさんの部活を掛け持ちしたのは
自分の居場所を探していたのかもしれない。

浪人時代も“自習”と称して
予備校の自習室に通っていた。

そこで知り合った友人達と
何げない会話が心の癒しになった。

父からの洗脳は私だけでなく
おそらく、母もだったのだろう。

うちがおかしいと思ったのは
27歳で結婚した時だ。

ありがたいことに義母は私の事を娘のように可愛がってくれた。
社会からちょっとズレて育ってしまった私を
大切にしてくれた。

そこで気づいた。
うちの親(特に父)が変なんだと。

アダルトチルドレン、というらしいが、
私の中の肯定感はぼろぼろで、
“私なんて”が口癖になっていた。

“お前には無理”
父に言われ続けた事がネックになっていた。

そんな私を夫が支えてくれた。

子供にはこんな想いはさせたくない。

あの日の私と今の私
今日も戦いながら
“私”を探している

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