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れんびん、という感傷

(なんて心の貧しいひとなんだろう)

それを見た瞬間に、
心の奥から思わず漏れ出た、童話の朗読のような言葉に、我ながら驚いた。

もしかしたら、神様が、耳元でささやいてくれたのかも知れない。

私の花畑は、柵があるわけではなく、オープンと言えばオープンなので、
犬の糞被害には、ほとほと嫌気がさしていた。

犯人の目星はついていて、
(みんな!顔の美醜や職業にだまされるんじゃないぞ)と、
ひとり悪態をつぶやきながら、始末するしかなかった。

頭に来る。

看板でも立てた方がいい、と話す人もいるけれど、
犬を飼う人は減り、犬の寿命もあり、
散歩する何人かの顔を思い浮かべると、
「これはあなたのことじゃないのよ」と、弁解に走りたくなる。

ちゃんと犬を大事にしている人は、
家族も、回りの人も大事にしていることを知っている。

「悩んでるけど、あなたじゃないことは知っている」的な、
立ち話をしてみたことがある。

やはり複雑な思いはある様子。

それは、私だってそうなんだけど。


ある日、
犬の糞は、綺麗に膨らんだ満開の赤いベゴニアの上にあった。

その様子を見た時に、冒頭のセリフ、
(なんて心の貧しいひとなんだろう)と、憐れみを覚えたのだ。

年に不足はなく、人の親であるというのに。

花の上に糞をさせて、そのまま通り過ぎていくなんて。

言葉を尽くしても通じない人だろうと思った。

ただ可哀そうな人だと思った。

それからは怒りというものがスーッと、嘘のように無くなった。

何も気持ちがわかず、ただ糞を見つけたら片づけるルーティンになった。

考えても仕方がない。

誰かがやらなければいけないことを、ただ私がやるだけなのだ。


もちろん皆が皆、そうだとは言わないが、
若者と話していると、すぐに結論を急がせる。

検索をかけた時のように、ちゃんとエビデンスがあって、
ちゃんと白か黒の答えが短文で見つかって、
その時の「オレ様」が納得できるものでなければ、
世の中のあらゆることは「オレ様」に許されないように見える。

そこには「自分で学ぶ姿勢」というものは感じられない。

口に出すのは誰かの批判であり、貶めることであり、
嘲りの対象に落とすことに、血道を上げている。

いきがるのも、若者にこそ許された特権だ。

発展途上の人間なのだから。

自分以外の誰かの悪口は、何も持たない彼らのただひとつの武器なのだ。

自分しか見えていない、その世界は、
人をひきずり下ろすことでしか、自分を高みにあげることができないのだ。

誰かが誰かを押し上げて、誰かが誰かを引き上げて、
誰かが誰かの背中を押して、応援しながら世界が回っていることを、
小学校の先生はどうして教えないんだろうと思う。

簡単な世の中のしくみを、
信じられない若者たちがいる世界は空しいと思う。




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