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森とクジラ (11)

 約束の土曜日、ミトは朝からお弁当の準備をした。ハムとチーズのサンドイッチをつくってから、キタムラさんはご飯の方が好きかもしれないと思い、おにぎりも握った。

 ミトは会社に持っていっていた弁当箱を引っ張り出してきて、おにぎりやおかずを詰めた。おかずは玉子焼きとウィンナー、キャベツの浅漬けにした。前日まで雨が降っていたが、窓の外では薄曇りの空からときどき太陽が顔をのぞかせていた。

 レジャーシートと弁当箱、それから水筒とプラスチックのコップを入れたバスケットを荷物カゴに入れると、ミトは自転車にまたがって走り出した。人影のまばらな駅前を通り過ぎ、海岸沿いの道路に出ると、浜へと下りる小さな姿を見つけた。

「キタムラさん」

 道路を渡って呼びかけると、キタムラさんは立ち止まってミトを振り返った。キタムラさんは白いコットンシャツの上からねずみ色のカーディガンを羽織っていて、海風が吹くたびにカーディガンの裾が波のように揺れた。

「雨が上がってよかったわね」
「レジャーシート持ってきました」
「あら、私も。水がしみるといけないから、二枚重ねて敷きましょうか」

 ミトは自転車を歩道の脇に停めると、キタムラさんと一緒に浜への階段を下った。砂浜の上を歩くたびに足元がやわらかく崩れ、しゃくしゃくとしたその感覚を楽しみながら歩いていると、波が打ち寄せる低い音が聞こえてきた。

 二人は波打ち際の手前で立ち止まると、海を眺めた。海面はあちこちで盛り上がり、また沈み込んでいった。ミトは目を凝らしたが、クジラの姿はどこにも見当たらなかった。

「いませんね」
「いないわね」

 彼方の水平線に大きな客船が浮かんでいた。巨大な客船は悠々と旅を楽しんでいるようにも、海上の孤独を持て余しているようにも見えた。ミトの隣でキタムラさんがゆっくりと息を吸い込み、つられてミトも深呼吸をした。やわらかな空気がミトのなかに入り込み、遥か遠くの曇り空の下へミトを連れ去った。この世界が両腕で抱えられるほど小さく、同時に想像もつかないほど大きく感じられた。

 二人は波打ち際から離れたきれいな場所を見つけ、そこにレジャーシートを二枚敷いた。

 お弁当を食べながら、ミトはキタムラさんにいろんな話をした。学生時代にアメリカに留学していて、いまはアパレル専門の輸入商社で働いていること、英語を使うというだけで特に面白くもないこの仕事をずっと続けるべきかどうか悩んでいること、特別な夢があるわけではないが、困っている人の役に立つ仕事がしたいと思っていること。

 ミトのつくってきたおにぎりを食べながら、キタムラさんはミトの話に耳を傾けた。ときどき深くうなずいては、ミトの言葉におどろいたり、ため息をついたりした。誰かにこのようにちゃんと話を聞いてもらったのは久しぶりだった。この町で一人暮らすあいだに降り積もった言葉や感情を、キタムラさんに聞いてもらうのがただうれしかった。

 薄雲のあいだからぼんやりとした太陽の姿が見えた。波の打ち寄せる音は小さく、海風が二人の髪を洗った。

「あれ」

 不意にキタムラさんが声を上げたので、ミトは振り向いた。

「どうしたんです?」
「いま海に何かが見えた気がしたんだけど」
「何か?」
「そう、黒っぽい何か」

 ミトは立ち上がるとカモメのように目を凝らしたが、黒い影はどこにも見当たらなかった。

「どこだろう」
「私の見間違いかしら」

 海面に黒い影がよぎるたびにミトはどきどきしたが、どれも波のうねりだった。

「ごめんなさい、見間違いだったみたい」
「そのうち姿を見せるかも」

 本当にクジラであってほしい、そう思いながらミトは海を見つめ続けた。だがいくら待っても海面には何も姿を現さなかった。

「だめね、歳を取ると。目が悪くなってしまって」
「ううん」

 しょんぼりした顔でキタムラさんがため息をつくので、ミトはさみしい気持ちになって首を振った。それから、クジラを見に行こうだなんてキタムラさんを誘って、かえって彼女を残念な気持ちにさせてしまったのではないかと少し後悔した。

「でも仕方ないわね、クジラ任せだから」
「そうですよ」

 つとめて明るく言ったつもりだったが、ミトの声に元気がないのに気がついて、キタムラさんはミトの腕にそっと触れた。

「クジラは見られなかったけど、美味しいお弁当が食べられて、私は楽しかったわ」
「本当ですか?」
「ええ。幸せなひとときでした」

 幸せ、という言葉を聞いて、ミトは戸惑った。自分と一緒にいて誰かが幸せな気分になるなんて、うれしいような恥ずかしいような気持ちだった。

「誰かとこうして楽しくお弁当をいただくなんて、ずいぶんと久しぶりだったわ」
「そう言ってもらえて、うれしいです」

 ミトはキタムラさんを見た。曇り空の下のキタムラさんはいつもと印象がちがっていた。ひどく老けて、疲れているように見えた。ミトは彼女の知らなかった一面を見てしまった気がしたが、これがキタムラさんのありのままの姿なのかもしれないとも思った。

 水筒に入れてきた麦茶をキタムラさんと飲みながら海を見ていると、どこからともなく小さな漁船がやってきて、湾の真ん中にとまった。やがて船の上に数名の人影が現れ、そのうちの一人が黒いかたまりを背負って海に飛び込んだ。

 不意に近くで砂浜を駆ける音が聞こえ、おどろいてミトが振り返ると、見覚えのある白っぽい犬がすぐ近くまで来ていた。

「バロン?」
「あれ?」

 バロンのむこうから歩いてきたオオノが素っ頓狂な声をあげた。

「ハギワラさんじゃないですか。キタムラさんも。どうしたんです、こんなところで二人して」
「オオノさんこそ、お店は?」
「臨時休業です」

 よく見ると、オオノの後ろからタロウが歩いてついてきた。タロウは顔立ちがしっかりしていて、以前会ったときよりお兄ちゃんに見えた。

 湾に浮かんだ船の上では、まだ人影があれこれと動いていた。

「海洋調査をしているんですよ」

 船を眺めてオオノが言った。

「どういうことですか?」
「大学の海洋生物学科とコンタクトが取れて、この海の環境とクジラの生態について調査することになったんですよ。毎年クジラが湾に現れるのか、それとも今回限りなのか。それがわからないと町おこしに使えないですからね」

 やっぱりクジラで町おこしか、とミトは思った。

「ぼくもあの船乗りたいな」

 父親を見上げてタロウが言った。

「調査したいの?」
「だってクジラを近くで見れるでしょ」
「そうだね、クジラが来てくれればね」
「来るよ。だって調査してるんだもん」
「調査をするからクジラが出てきてくれるってわけじゃないんだけど……」

 オオノは苦笑いをしてタロウの頭をなでた。

「ぼく、船に乗りたい」
「クジラは船のことをお友達だと思うかもしれないわね」

 キタムラさんがそう言うと、タロウはうれしそうな顔をして湾に浮かぶ船を見た。

「やめてくださいよ、本気にする」
「あら、ごめんなさい。でも本当にそうなったら素敵だと思うけど」
「クジラに近づいたら危ないですよ。ホエールウォッチングにだってルールがあるんですから」
「人から近づこうとするから危ないのよ。相手の方からやって来たら、そんなに危ないものではないわ」
「本当に?」
「自然とはそういうものです」

 はっきりとした口調でキタムラさんが言ったのでオオノは呆気に取られたように黙ってしまった。

 船上の人影は船首と船尾の間を行ったり来たりしていたが、しばらくすると海中に潜っていた人が顔を出した。

「クジラ、出てこなかったね」
「うん。でも海水の温度だとか、海中のプランクトンの数や種類なんかのデータは取れたろうから、またクジラがこの海に現れるかどうかの予測が立てやすくなったはずだよ」

 タロウが相手でも、オオノは子ども向けのやさしい言葉を使わなかった。

「データかあ」

 ミトがぽつりとつぶやくと、オオノはミトをちらりと見た。

「データは現実を理解する一つの指標ですよ」
「そうかもしれません。でもクジラの気持ちまではわからないでしょう?」
「クジラの気持ち?」
「そう。だってこの海にやって来るかどうかはクジラ任せだもの」

 そう言ってからキタムラさんと目が合って、ミトは思わず吹き出した。

「何なんですか、それ?」

 オオノは怪訝そうな顔をして二人を見た。

「データがなきゃ誰も説得できませんよ」
「クジラがやって来るかどうかは、データが決めるわけではありませんよ」
「でも蓋然性はある程度把握できる」
「クジラ、また見たいね」

 海をじっと見てタロウが言ったので、大人たちも議論をやめて海を見た。

「そうね。また来てくれるといいわね」

 キタムラさんはそう言ってうなずいた。

 砂浜の匂いを嗅いでいたバロンがタロウのところにやってきて座ると、つやつやと輝く腹の毛を舐めはじめた。漁船は海の上で静かに揺れながら、白い船体をポツンと浮かべていた。

(つづく)


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