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森とクジラ (2)
濃紺色のウェットスーツに身を包んだ男は、まだ乾ききっていない長髪を振り乱しながら店の外を指さした。
「何か?」
「よくわからないんだけど、サメじゃないみたい。かなり大きいよ」
「なんだろう?」
オオノがカウンターから出ていくと他の客たちも気になる様子で後についていくので、ミトも立ち上がって外へ出た。人々は駐車場を横切り、道路を渡って、海沿いの歩道から海を眺めた。
夕方の海は濃い青色にうねっていて、上空を二羽の海鳥が飛んでいった。オオノの横に立って遠くの海面を見ていると、海の一部分がゆっくりと盛り上がり、何か黒いものが顔をのぞかせると、また沈んでいった。
「今の見た?」
「あれだよ、あれ」
「なになに? ぼくも見たい」
さっき駐車場で遊んでいた黄色いTシャツの子どもがオオノの足にしがみついて抱っこをせがんだ。
「あれだよ、見えるか? ほら」
オオノはしゃがみこんで子どもを抱えると、よっと掛け声を上げながら子どもを肩車して立ち上がった。
「何も見えない」
「また現れるかなあ」
「あっ、出た」
「どこどこ?」
人々が指差す方角の先に、海面から黒いものが姿を現したかと思うと、それは勢いよく水を噴き上げた。
「クジラだ」
「クジラだねえ」
「すごい」
「父ちゃんも初めて見たよ、野生のクジラ」
オオノと子どもはワクワクした様子で声をあげた。
ミトは野生のクジラをこの目で見るのは初めてだった。クジラはつやつやと光る黒い背中をのぞかせながら海に浮かんでいて、その姿はどこかおそろしくもあり、愛らしくもあった。あの動物はどんな感情を持っているのだろう。どんな時間の流れのなかで生きているのだろう。ミトはドキドキしながら大きな生き物の背中を見つめ続けた。
クジラはゆっくりと湾のなかを泳いでいたが、ふたたび海のなかに潜った。
「どこから迷い込んだのかなあ」
「もっと浜まで近づいてこないかな」
「あまり水深が浅いと身動きが取れなくなるからな。湾の中程まではそれなりに深いんだが」
「船を出して様子を見に行ったらどうかしら」
「よせよせ、船をひっくり返されたらかなわん」
人々は口々に言い合いながらしばらく海を眺めていた。海は静かに、青黒くうねり、遠くの水平線に大きな旅客船が浮かんでいた。海面が盛り上がるたびに歓声のような声が上がったが、どれも波のうねりだった。
いつまで待ってもクジラが出てこないので、人々はなんだかホッとしたような、物足りないような顔をして、ぞろぞろとオオノの店へと戻っていった。
「父ちゃん、クジラまた来るかなあ」
「さあ、来るといいねえ」
肩車していた子どもを下ろすと、オオノは子どもと手をつないで車道を渡っていった。ミトが後からついていくと、子どもが振り返って「急いで、あぶないよ」と声をかけてきた。左右を確かめると車は一台も通っていなかったが、ミトはうなずいて小走りに車道を渡った。
「教えてくれてありがとう。車道を渡るの、あぶないもんね」
駐車場の入り口でミトが声をかけると、子どもは「本当は横断歩道を渡らないとダメなんだよ」と真面目な顔をして言った。
「そうだね」
「でもここは特別。横断歩道がないから。ずっと遠くにしかないんだよ」
「そうなんだ。わたし、今日この町に引っ越してきたばかりだから知らないんだ」
「ぼくは何回も来てるんだよ。だからなんでも知ってるよ」
「そっかー、すごいね」
子どもはそんなの当たり前だという顔をすると、オオノの手を振りほどいて駐車場の片隅へ走っていった。
「おーいタロウ、車には気をつけろよ」
オオノの声が聞こえていないのか、タロウはしゃがみこむと何かに夢中になって地面を指でなぞった。
「息子さんですか?」
「ええ、六歳になります。元気なのはいいんですが、最近は生意気でね」
嬉しそうに言いながら、オオノは店のドアを開けた。
「なんだかすごかったですね」
「ええ、ぼくも初めて見ました」
「どれくらい大きいんでしょう」
「さあ、十メートルはあるんじゃないかな」
「マスター、あれ、使えないかな」
ミトたちのあとから店に入ってきた年配の男性が会話に割り込んできた。
「あれ?」
「クジラだよ。ちょうどいいんじゃねえか、町おこしにさあ」
「なるほどね。いいかも」
「あれなら、人呼べるだろ?」
「繁殖でもして、居ついてくれるといいんですけどね。そうしたらホエールウォッチングやダイビングで人が集まるかもしれない」
「外人の観光客も来るだろうしな。こないだ相談した町おこしの話、こいつでいけないかね」
「そうですね、ちょっと考えてみます」
「俺から役場に話しておくからさ、プラン頼むわ」
男はソファ席に座ると、こいつはいけるぞ、と隣の男と話しはじめた。
「町の商工会議所……といっても小さな集まりなんだけど、そこの会長さんです」
不思議そうに年配の男を見るミトに、オオノが言った。
「町おこしのプランを考えてほしいって頼まれてるんです。以前戦略コンサルをやっていたのでビジネスモデルを考えるのは得意なんですけど、何しろネタがなくてね」
「そうなんですか」
「でも、たしかにホエールウォッチングとか、ネイチャー系のアクティビティはうけるかもしれない」
オオノは一人でつぶやきながらカウンターのなかへ入っていった。
ミトはしばらくそこに立ったまま、ソファで話し続ける会長を見、それから窓の外の海を見た。あの黒い背中は、人間とはまったくちがう世界からやってきた存在のように思われ、そんな生き物と町おこしとは、ミトのなかでうまくつながらなかった。
スツールに座ると、さっきまで飲んでいたコーヒーがすっかり冷めていた。
「お代わり、飲みますか?」
オオノに言われてミトはすこし考えたが、ゆっくり首を振った。オオノはちょっと名残惜しそうな顔をしてから、タブレットを取り出して請求画面を表示するとミトの前に置いた。
「またお待ちしています。ハギワラさんが来たこと、ユミちゃんにも伝えておきますね」
支払いを済ませたミトに声をかけると、オオノはコーヒーカップを下げた。
店を出ると、空が暗くなっていた。駐車場の一角に立っている電灯に明かりが灯って、土の上に白い空間を描いていた。タロウは小石を持って何かをつぶやきながら歩き回っていた。
「バイバイ」
聞こえないかなと思ったが、ミトが声をかけるとタロウはこちらを振り返って立ち止まった。
「バイバイ」小石を持ったまま、タロウは突っ立って言った。
「暗くなってきたから、車に気をつけてね」
タロウはじっとしたままミトを見ていたが、小さくうなずいた。
「またね」
ミトが手を振ると、タロウは返事をせず、代わりに小石を持った手を左右に振ってみせた。薄暗い宵闇のなかで小さく振られる手を見ながら、ミトは海に浮かぶ黒い背中のことを思い出した。
(つづく)
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