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森とクジラ (9)

 電車を乗り継ぎ家に帰ってくると、ミトは居間の畳の上に転がって大きく息を吐いた。からだと心が一致せず、縁側の先に広がる森の様子をぼんやり眺めているうちに、ミトはいつの間にか意識を失った。

 気がつくと夜になっていた。真っ暗の部屋のなかで起き上がると、ミトはしわになった服を脱ぎ、風呂場でシャワーを浴びた。冷たかった水がゆるゆると温まり、ミトの肌を伝って流れ落ちた。

 からだを拭き、髪を乾かしてさっぱりとした気持ちになると、昼から何も食べていないことに気がついた。ミトは白いTシャツの上にオリーブ色のカーディガンを羽織り、メイクをしてから外に出た。深呼吸すると近くの森の匂いが全身に広がり、ミトは深い安堵に包まれた。

 自転車にまたがってライトをつけ、ミトは夜道を走り出した。点々と立っている街灯が白い光を道路に投げかけ、海岸線を東へ走ると、やがて灯りに照らされた無人の駐車場と建物が見えてきた。

 店のドアを開けると煙ったような光が店内を照らしていて、前回来たときより少し大きめのボリュームでピアソラのタンゴが流れていた。皿を拭いていたオオノがこちらを振り返ると、カウンター席に水の入ったグラスを置いた。

「お仕事明けですか?」
「本社でヒアリングがあって久しぶりにオフィスへ行ったんですけど、なんだか疲れてしまって」
「それは大変でしたね」

 あさりのボンゴレを注文すると、ミトはカウンターに肘をついて窓の外を見た。街灯の光がぼんやりと暗闇に浮かんでいて、光のなかを小さな虫のようなものがいくつも飛び交っていた。ミトとオオノの他には誰もいない店内にバンドネオンとピアノの音が響き、最後にコンサートホールへ行ったのはいつのことだったろうとミトは考えた。

「そういえば、タロウくんは元気ですか?」

 ふと小さな姿を思い出してミトはたずねた。オオノはミトに背中を向けたまま、白ワインであさりを蒸していた。聞こえなかったのかなと思いミトが黙っていると、フライパンに蓋をしてオオノが答えた。

「タロウは、今はいないんです」
「今は?」
「母親の元に帰りました。ぼくの前妻のところへ」
「そうでしたか」

 まずいことを聞いてしまったと思い、ミトはグラスの水を飲んだ。バンドネオンとピアノの演奏にギターとチェロが加わり、路地を歩くようなテンポでメロディーを奏でた。

 オオノはパスタの茹で汁をフライパンに加え、味見をしてから塩を振りかけた。

「離婚したときの条件で、月に一度はあいつと会えることになっているんです。今は保育園に通っているからうちに一週間泊まっていけるけど、小学校に入ったら一泊がせいぜいでしょうね」

 なんと答えていいか分からずミトが黙っていると、オオノは茹でていたパスタをフライパンに移し、あさりの白ワイン蒸しと混ぜ合わせた。オオノがフライパンを揺するたびにジュッジュッと音がして、ガーリックの匂いが漂ってきた。

 白い皿に盛られたパスタをミトの前に置くと、オオノはフライパンを洗ったり、調理場を片付けたりして忙しそうにした。どこかわざとらしい感じがしたが、ミトは気にしないふりをしてフォークを手に取った。

「美味しい」

 パスタを一口食べると口のなかに豊かな旨みが広がって、ミトは思わずオオノに声をかけた。

「特に塩加減が絶妙で。どこかで修行されたんですか?」
「いえ、独学というか、我流ですね」

 オオノは振り返って何でもないというように答えた。

「それだけでここまで?」
「もともと料理をするのが好きだったし、外食のときはカウンター席のある店でばかり食べていました。調理する様子が見えますから」

 オオノは布巾で手を拭いて、シンクのそばに置いてあったグラスで水を飲んだ。

「そういえば、またクジラを見ましたよ」
「いつ見たんですか?」
「二、三日前かな。前に見たやつと同じかどうかはわからないけど、ずいぶんと長いあいだ海面近くを泳いでました。あれは子どものクジラじゃないかなあ」
「小さかったですか?」
「結構大きそうでしたけど、なんとなく落ち着きがないっていうか、泳ぎ方とか動きが子どもみたいだなって」

 そう言ってさみしそうに笑ってから、オオノは困ったように言った。

「商工会議所の会長が張り切っちゃって、ホエールウォッチングで町おこしだなんて息巻いてます」
「でも、いつまでクジラがこの海にいるか、わからないでしょう?」
「そうなんです。だから餌付けしろなんて無茶なことを言ってます」
「そんな」
「ぼくも無理だと思ってますよ。まあ、彼としてはそれくらい必死だってことです」

 ボンゴレを食べ終わると、コーヒーはいかがですかとオオノがたずねたので、ミトはうなずいた。

「この町の人口はどんどん減っているし、駅前にあった商店街も、今はやってる店の方が少ないくらいです。なんとかして町を盛り上げたいと思っているんですよ、彼は。とても難しい取り組みですが、諦めて投げ出してしまうよりはよっぽどいい」
「本当にやるんですか、餌を」
「まさか。現実的には無理でしょう。そもそも、あのクジラがいつまでここにいるかわからないし」
「ずっと昔は、クジラが毎年来ていたんだって」
「そうなんですか?」
「ええ、キタムラさんに教えてもらったんです。でも、何十年も見かけなかったって」
「海水の温度が上昇して、潮の流れや餌のいる場所が変わったのかもしれない。大学やNPOと連携して生態調査すれば補助金も通りやすいし、エコフレンドリーな町っていうアピールもできそうだ」

 ミトは一人でうなずいているオオノをぼんやりと見た。彼のなかではクジラとビジネスが無理なくつながっているようだったが、ミトにはその思考がうまく理解できなかった。

「クジラを理由にしなくても、町おこしはできるんじゃないですか?」

 なんだか悲しい気分になってミトは言った。

「もちろん。クジラはただの手段の一つです。毎年確実にやってこないかぎり、あてにすることはできません。クジラだけではダメです。もう一つ二つ、お客さんが来るような仕掛けがないと。でも、このきれいな海とクジラって、相性抜群だと思いませんか?」
「ええ、まあ」

 オオノは夢を見ているようだとミトは思った。もしくはわたしが夢を見ているのか。同じ空間にいるのに、二人の思考はまったくちがうところに存在しているようだった。

「クジラが手段だって言葉、何だかかわいそうな気がします」
「勘違いしないでほしいんですが、ぼくはクジラをどうこうしようとは思っていません。クジラは目の前の海にいる、いつまでいるかわからないけど、この町の海にいるわけです。そしてこの町は多くの人に来てもらって、お金を落としてほしいと思っている。その二つを結びつけたいだけです」
「それはわかります。町おこしをしなくてはいけないから」
「そうです。みんなの生活がかかっているんです」

 あなたは部外者だとやんわり言っているのだろうか、そんな考えが一瞬頭をよぎったが、ミトは心のなかでそれを打ち消した。

「この町には仕事がないし、住民も店も減っているからコミュニティーの内部でお金を回せない。道路だって街灯だって、最低限のものしか保守できない。お金っていうのは町にとって血液のようなものです。血液は酸素だったり養分だったりを運ぶでしょう? その血液が止まった町は、枯れて、死んでいくんです。何とかしてこの町に新しい血液を流れ込ませないと」

 コンロの上でポットが湯気を吐き出し始めたので、オオノは火を止めるとポットをつかみ、ブリューワーに湯を注いだ。

「こうして店をやって、都会のネズミを辞めたつもりが、結局同じことをやろうとしている気もします」

 うつむいてゆっくりポットを回しながら、オオノがつぶやくように言った。

「ビジネスモデルだとか、エコシステムだとか、手垢のついたフレームワークを使って補助金をゲットして、何とか仕事を作ろうとして。でもね、ぼくはこの町が好きだし、自分も周りも食っていけるようにしたいんです。ここを安心して子どもを育てられる土地にしたい」

 寂れた商店街や、空白のまま放置された駅の広告掲示板をミトは思い出した。たしかにここには何もない。海と山はあっても、人は少なく、見かけるのは老人ばかりだ。

 カウンターの向こう側から芳ばしい香りが漂い、くるくると旋回するようにメロディーを奏でるバンドネオンを聴いているうちに、ミトはブエノスアイレスの古いコンサートホールの客席に座っているような気持ちになった。ステージの上でバンドネオンを膨らませたり縮ませたりしながら、椅子に腰掛けた初老の音楽家が広い空間に音楽を吐き出しているのを、暗がりから見ているような気分。バンドネオンの音色は美しく、だが古びたコンサートホールのどこかから隙間風が吹いてくるような寂しさを覚える。こんな時、隣に大切な人が座っていてくれればいいと思う。肘掛に置かれたミトの腕の先に、そっと手のひらを重ね、柔らかく指先を包む乾いた感触。オオノは孤独なのだ、とミトは思う。それがわかるのは、自分もまた孤独だからだ。

 コーヒーカップが目の前に置かれ、ミトは我に返った。

「わたし、あのクジラを見てショックだったんです」
「ショック?」
「なんだか、自分と全然ちがう存在なんだなって。あまりに異質で、あまりに遠くて」

 コーヒーを一口飲んでミトは言った。

「だから、あのクジラと町おこしがうまく結びつかなくて。あの生き物と、わたしたち人間の行いがつながるとは、どうしても思えないんです」
「たとえば、ハギワラさんは捕鯨についてどう思いますか?」

 オオノは調理場の壁にもたれて言った。

「かつて世界のあちこちで人はクジラを獲っていました。食用のためだったり、油を取るために。そういった地域では、人間の営みとクジラはつながっていた、そうじゃないですか?」
「わたしが言いたいのは、多分、敬意とか畏れとか、そういう感情についてなんだと思います」

 そう言ってからミトはおどろいた。敬意や畏れといった気持ちが自分のなかにあったとは、今まで気がつかなかった。

「オオノさんが言うとおり、クジラを獲っていた人たちはいます。でもそこにはクジラに対する敬意や畏れがあったと思うんです。敬意はわたしたち人間の行いに欠かせないものです」

 わたしは何を言っているんだろう、そう思いながらもミトは言葉を続けた。

「町おこしのために立ち上げるビジネスに敬意は宿るでしょうか。人とクジラの境界線をちゃんと意識して、互いを侵さず、こちら側で経済活動を行う、そういうことが可能でしょうか」

 オオノは壁にもたれたまま、腕を組んでミトを見た。

「無責任な立場から言っていると思われるかもしれません。でも、ビジネスっていうのは一つのシステムです。一度起動すると、多くの人を巻き込み、あとは自律的に動いていきます。個人の思いとは別のところで」

 そこまで言ってから、ミトはコーヒーを飲んだ。オオノに対して言った言葉は、今朝ハタノさんの質問に答えた言葉とはまったく違っていた。それは外から要請された言葉ではなく、自分の内側から生まれた言葉だった。

 オオノはしばらく考えていたが、やがて顔を上げて言った。

「クジラの生態を尊重したビジネスができるのか? ということですね」
「そうです。それには互いの了解が必要だと思います」
「互いって?」
「わたしたちと、クジラです」
「そんな、クジラにどうやって了解を取るんですか? あのクジラと話し合えとでも?」
「そうですね、話し合えたらいいですよね」

 オオノは困惑して、少し腹を立てているようにも見えた。

「ごめんなさい、わたし変なこと言ってますね」
「ハギワラさんが言ってるのは、理想論のような気がします」

 オオノはもう一度グラスの水を飲むと、水切りラックに置いてあった皿を一枚一枚布巾で拭きながらつぶやいた。

「でも、ただの理想論だって片付けるべきじゃない気もします」

 オオノはミトに背を向けると拭いた皿を食器棚に戻していった。オオノがあるべき場所に皿を置くたびに、かちゃりと硬い音がした。

 ミトは振り返って窓の外を見た。真っ暗で何も見えない。耳をすませてみたが、波の音は聞こえなかった。ピアノの伴奏を得て、バンドネオンの音はゆっくりと遠くへ去っていった。

 ミトは両手でコーヒーカップを包んだ。カップのなかのコーヒーは、まだあたたかく香りを立てていた。

(つづく)


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