森とクジラ (7)

 毎朝早くに目が覚めるので、仕事を始めるまでの時間をどうしようかとミトは考えた。リモートワークだからいつ仕事をしてもいいのだが、同僚たちとずれていると不都合があったので、時間帯を合わせる必要があった。

 考えた末、ミトは小さめのポリタンクを買い、それをバックパックに入れて毎朝森の奥へ通うことにした。

 早朝の森は格別だった。小道を歩きながら爽やかに湿った空気を吸い込むたびに、全身が生き返る気がした。鳥の鳴き声と風に揺れる樹々のざわめきがミトを包み、歩いているうちにしんと静まった、だがあたたかな気持ちになった。

 その日の朝、ミトは家を出て庭を横切り、いつものように森のなかへと入っていった。小道を抜けて泉へ行くと、甲高い鳥たちの鳴き声が遠くに聞こえた。泉から溢れた水が、小さな川となってちろちろと流れ出していた。樹々のあいだから光が差し込み、あたりは少し暑かった。ミトは泉をのぞき込み、その爽やかな透明を見ているうちに喉の渇きをおぼえた。

 ミトは泉のそばにしゃがみこむと両手で水をすくって口につけた。泉の水をそのまま飲むのは初めてだったが、冷たくて清々しい感覚が喉の奥へと通り過ぎていき、ミトはもう一口水を飲んだ。

 しゃがみこんだまま、ミトは目をつむった。全身が森全体に広がっていくような気がして、森のざわめきがすぐそばに感じられた。枝にとまって鳴く鳥たちも、木の陰でじっと息をひそめる動物たちも、すべてミトのなかに存在していた。濡れた両手を首筋に当てると、木陰のようにひんやりとした冷気に包まれ、ミトは目を閉じたまま天を仰いだ。

「あら」

 後ろで聞き覚えのある声がしたのでミトは目を開き、ゆっくりと振り向いた。そこにはキタムラさんが立っていた。

「どうしたの、気分でも悪いの?」
「いえ、大丈夫です」

 ミトは立ち上がろうとしたが、ふとめまいのようなものを感じてまた地面に手をついた。

「いいのよ、無理しなくて」

 キタムラさんはミトの横にしゃがみこんで、ポケットから取り出したガーゼのハンカチを泉に浸すと、きゅっと絞って水を切り、ミトの首の後ろに当てた。

「落ち着くまでじっとしてらっしゃい」

 冷たい感覚が肌から全身へ駆け抜けていき、ミトは眠りから覚めたような気がした。しばらく様子を見てから、キタムラさんはミトの首からハンカチを外すと、ミトに手渡した。

「立ちくらみかしら」
「大したことないです。もうすっかり良くなりました」

 ミトはキタムラさんからハンカチを受け取ると、立ち上がろうとした。

「無理はだめよ。しばらくじっとしてなさい」
「喉が乾いたから、ここのお水を直接飲んでみたんです」
「そう?」
「とても美味しかったです」

 キタムラさんはうなずくと、リュックからポリタンクを取り出し、泉のなかに差し入れた。大きな空気の泡が二つ三つ、揺れながら水面に浮かび上がっては弾けて消えた。キタムラさんがよいしょと泉から引き上げると、白いポリタンクのなかで水が揺れた。

「わたしも、毎朝ここのお水を汲んでいるんです」

 ミトは地面に置いてあったバックパックを引き寄せ、ポリタンクを取り出してキタムラさんに見せた。

「お茶をいれたり、ご飯を炊くのにも使ってます。お米の味が変わった気がします」
「お水の味って、大事よね」

 キタムラさんはポリタンクをリュックにしまい、からだをかがめて両手を泉に差し入れると、すっとすくい上げて水を一口飲んだ。泉の表面はかすかに波打つように揺れ、水底では小さな砂がくるくると舞っていた。

「これ、ありがとうございました」

 ミトはハンカチを手のひらに乗せて礼を言った。

「もしよかったら、洗濯してお返ししたいんですけど、いいですか?」
「いいのよ、気を遣わなくて」
「でも、そうさせてもらえませんか?」

 ハンカチを洗って返す約束をしたら、またキタムラさんと会えるような気がした。

「ここには、何時頃来るんですか?」
「時間は特に決めていないの。いつもその日任せ」
「わたしは毎朝これくらいの時間に来ています」
「朝はいいわね。空気が清らかで」
「ハンカチ、いつでも返せるようにしておきます」
「ありがとう。ええと、あなたのお名前は?」
「ハギワラミトといいます」
「ミトさん、私は急いでいませんからね。お気遣いなくで、本当に」

 キタムラさんはにっこりとうなずいた。

「ミトさん、あなたお水は汲んだの?」
「あ、まだでした」
「お汲みなさいな。待っててあげるから、一緒に帰りましょう」

 キタムラさんはリュックを背負って立ち上がると、泉を振り返って言った。ミトはキャップを外すとポリタンクを泉のなかに沈めた。手触りはしっかりしているのに、水のなかのポリタンクはふわふわとした生き物のように見えた。

 帰りの小道は、一人で歩くときとまったく別の景色に見えた。森は以前より親しみやすく、ミトはこの場所に受け入れられているような気がした。並んで歩くと、キタムラさんが小さく感じられた。

「あなた、この町にはもう慣れた?」
「はい、だいぶ」

 ミトは自転車を買ったこと、その自転車で隣町まで買い物に出かけていることなどをキタムラさんに話した。

「そうそう、こないだクジラを見たんです」

 わずかに湿った土を踏みしめて歩きながら、ミトは言った。

「海沿いの喫茶店にいたら、サーファーの人が教えてくれたんです。黒い背中が見えました」
「クジラ?」

 キタムラさんはおどろいた顔をしてミトを見上げた。

「ずっと昔は毎年のようにあの湾に来ていたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。私が子どもの頃は、春によく見ましたよ。運がいいと、飛び跳ねている姿が見えるの」

 木々の影がまだらになって地面を染めていた。ミトは水のなかを歩いているような気持ちになって、ゆるやかな下り坂を歩いた。

「もうずいぶんと見かけなくなったけど、そう、戻ってきたのね」

 ミトはキタムラさんに続いて歩きながら、どこかを流れる川の音を聞いた。泉から流れ出した水が川となり、クジラのいる海へと続いている。山と海を結ぶそのつながりが、ミトには清らかなものに思えた。

 森を抜けると、急に人間の領域に戻ってきた気がした。キタムラさんはミトの家を振り返り、目を細めた。懐かしそうなキタムラさんの眼差しを見て、ミトは思わず言った。

「あの、よかったらちょっとお茶でもどうですか?」

 キタムラさんはにっこりしてから、静かに首を振った。

「ありがとう。でも今日は帰らなくては」
「そうですか」

 突然思いついた誘いだったし、キタムラさんにはキタムラさんの都合がある。仕方ないと思いつつも、ミトは少しがっかりした。

「またの機会にお呼ばれするわね」
「本当に、今度来てくださいね」

 ミトが念を押すと、約束ねと言ってキタムラさんはリュックを背負って去っていった。キタムラさんの背中は少しずつ小さくなっていき、やがて交差点を曲がって通りから消えた。

 キタムラさんがいなくなると、ミトは背負っているバックパックの重みを感じた。家を振り返ると、ミトの背中で水のかたまりがたぷんと揺れた。

(つづく)


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