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書くことがあなたを救う

 緊急事態宣言が解除され、街は慌ただしく元の姿に戻ろうとしているが、ぼくはその流れから取り残されている。

 前回の記事を書いて以降、なんだかずっとロウな気分で、noteのタイムラインを見ることも億劫だったし、パソコンの画面に向かうことさえできなかった。この在宅期間中、ただでさえ運動不足のせいで心のコンディションは崩れやすいのだから、気持ちが上向かないとしても、それは仕方のないことだと自分を受け入れ、慰めるしかない。

 だが、今朝ふとパソコンに向かい、ドキュメントファイルを開いて何か書いてみようという気になった。

 ぼくにはモーニングノートと名付けているファイルがある。モーニングと名付けているが別に朝に限ったことではなく、いつ書いたっていい。それは思いついたことをただ書くためだけのファイルだ。もちろん日記のように今日あったことを書いてもいいし、印象的だった誰かの言葉や文章を書き写してもいい。大事なのは、思ったことや感じたことをそのまま、正直に書くことだ。誰の目も気にせず、自分の想いや感情が社会の規範に照らして正しいかどうかだなんてことも気にせず、言葉遣いが適切かどうかさえ気にしない。ただ思ったとおり、正直に書く。

 社会で生きていれば、ぼくたちはあらゆる目を気にせずにはいられない。社会人として、大人として、親として、パートナーとして、責任ある者として。もちろん規範やコードは必要だ。それらがなくなれば、ぼくたちはただの動物以下の存在となる。

 だがnoteに書く文章だって、SNSに投稿する文章だって、他の何であれ、ぼくたちは他人の目を気にし、ちょっとでも気の利いたことを言おうと試み、多くの人々からいいねやスキをもらおうと必死になり、賞賛を欲しがり、そうして他者からのアテンションに依存するようになる。

 ぼくはそういった依存を非難するつもりはない。noteを含めたプラットフォームやSNSはそういう人の承認欲求の心理メカニズムをうまく利用して設計されている。ただそれだけのことだ。

 だがそうやって他人の目を気にして物を書いていくうちに、ぼくたちはいつの間にか自分自身の思っていることと乖離したことを書くようになっていく。自分の体型に合わせたスーツを着るのではなく、既製のスーツのサイズに自分の体を合わせるようになっていく。

 それがエレガンスというのなら、そんなのクソくらえだ。 

 モーニングノートは、ぼくにとって自分自身に向き合える最後の場所だ。思ったこと、どんなネガティブなことやポジティブなこと、あらゆることを書く自由がある。誰の目も気にする必要はなく、まっとうなことを書く義務もない。どんな汚い言葉を書いたっていい(もし自分がそう望むなら。だが書き散らす前に気をつけたほうがいい、自分の放った言葉は自分に返ってくるものだから)。

 不思議なもので、はじめどんな激情が渦巻いていたとしても、その思いを書き連ねていくうちに、次第に心がしんと静まっていく。自分の魂が自分のエゴを受け入れ始める。魂はジャッジしない。良い悪いを判断しない。ただ自分が思ったり感じたりしたこと、それをそのまま受け入れるようになっていく。

 そうして静かな心境にたどり着くと、ぼくたちは自分の内側にある何かに触れる。それは純粋な気づきで、愛に満ちている。自分のことを許そうと思えるし、他人のことも許そうと思えるかもしれない。言い換えれば、どのような事実や存在をもいったん受け入れ、認めることができるようになる。それは普段のぼくたちにとってかなり難しい作業だが、静かな心境にいるときは、そんなに難しいことではない。

 そうして自分や自分を取り巻く事実や存在を受け入れていくうちに、これも不思議なことなのだが、自然と力が湧いてくる。それはアドレナリンが爆発するような活力ではない。むしろその逆で、静かで、落ち着いていて、だが確かなエネルギーだ。ぼくたちは他の何かからそのエネルギーを借りてくるわけではない。何の助けも必要としない。ぼくたちはただ自らの内なる泉から水をくみ上げる。

 いつも不思議に思う。ただ自分の思ったことを正直に書いていくだけで、どうしてこんなに静かで落ち着いた心境になれるのだろう。そこではうまく書く必要はない。下手で全然構わない。というか、上手いとか下手とかいう概念自体が存在しない。

 だが、これは請け合ってもいいが、そうして自然体で書いた文章をぜひ読み返してもらいたい。自分でも驚くほど、それはきっといい文章のはずだ。結構いいこと言ってるじゃんと自分で思うだろうし、ひょっとしたら自分の書いた文章なのに、感動するかもしれない。涙が出るほどに。他の人がどう思うかはまったく関係ない。ぼくの真実はぼくだけのものであり、あなたの真実はあなただけのものだ。

 書くことは真実に触れることだ。もし真実に触れていなければ、それは本当の意味で書いたことにはならない。小説だろうが、エッセイだろうが、論文だろうが、たとえ140字程度のツイートであっても、真実に触れていなければ、それは書かれたことにはならない。あなたの真実に触れていなければ。

 書くことは救うことだ。他でもない自分自身を。自分の心と魂を。ぼくが思うに、自分を救ってくれるのは神さまだったり、恋人だったり、家族だったり、お金だったりするかもしれないが、もっともパワフルで、誠実なのは、自分自身の魂だと思う。

 たった5分や10分でぼくたちは自分自身と向き合い、救済することができる。それって、とってもワンダフルなことだと思わないか? そんなおどろくような体験を、ぼくたちは簡単に手に入れることができる。一日にほんの数行、ノートやスマートフォンやパソコンを開き、自分の気持ちを正直に書けばいい。やがてあなたは発見するだろう。いつもあなたに寄り添い、あなたを受け入れ、あなたに力を与えてくれるのが誰かということを。


ありがとうございます。皆さんのサポートを、文章を書くことに、そしてそれを求めてくださる方々へ届けることに、大切に役立てたいと思います。よろしくお願いいたします。