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森とクジラ (12)

 毎朝ミトがノートパソコンを立ち上げると、夜の間に着信したメールがボックスに溜まっていて、それらをさばいていくことから一日の仕事が始まる。

 社内メールの発信者欄に表示されている顔写真は、真面目な顔つきをしたものか、にこやかなものか、そのどちらかだ。社員証の写真がデフォルトで設定されていて、あとから差し替えた人の写真は後者が多い。

 ミトは自分のアカウント情報に表示されている写真を見た。メイクで整えられた顔は微笑みを浮かべようとしているが、その表情は少し引きつっているようにも見える。入社直後の自分は幼いといっていいほど若く、それほど悪くないと思っていたこの写真がメールにくっついて社内のあちこちに送信されていたかと思うと恥ずかしくなってくる。

 自分の写真を差し替えようかとも思ったが、どんな写真がいいのかわからない。飾り気のない、ナチュラルな笑顔だったらいいかもしれない。だが、誰かの前で自分にそんな笑みが浮かぶ瞬間が今まであっただろうか。

 ナチュラルな自分という状態は、多分ある。この家に住んでいる今がそうだ。ここで暮らしていると、いつの間にか憑き物が取れたように物事がシンプルに感じられる。今までフィルターを通して物事を見ていたのだと気づく時がある。

 それとともに、自分がやってきた仕事にどういう意味があるのか、ミトにはわからなくなっている。海外から服を仕入れて、それらを卸し、代金を回収する。自分が関わる服がどこでどのように作られているのかもわからないのに、季節が巡るたびに新しい服がデリバリーされ、それに伴う仕事とお金が生まれる。

 誰とも実際に会うことなく、ノートパソコンの画面越しに仕事をしているうちに、ミトは自分の携わっている仕事がとても奇妙に感じられた。大量の服が作られ、シーズンが終わるとそれらの多くが廃棄される。わたしはそのサイクルの一端を担っている。どこで何が起きているのか全体像のわからないまま、ただ目の前の業務だけが進捗していき、それでも月末には銀行口座に給料が振り込まれる。

 これが働くということなのか、ミトにはわからなかった。人が働くということは地道な何かの積み重ねだとミトは思うのだが、では半日パソコンに向き合って資料を作ったり海外の取引先をフォローしたりしている自分の仕事に、小石を一つずつ積み上げるようなたしかな手触りがあるのかというと、よくわからない。ただ、どこかでとてつもない浪費が進行している気がしてならない。

 家のなかにいるといろんな考えが頭のなかでぐるぐると渦巻き、次第に自分が孤立していく気がしたので、ミトは仕事の合間によく森を散歩した。

 遠くに鳥のさえずりを聞きながら森のなかを歩いていると、自分は何かの一部なのだとシンプルに感じられた。湿った濃い樹々の香りを肺一杯に吸い込むと心が安らぎ、ミトは自分のなかに埋め込まれているプログラムを感じた。そのプログラムは、自然のそばにいると人が安心するように作られていた。

 ミトはまたキタムラさんと話がしたかった。日々の暮らしのなかで降り積もっていく思いを聞いてほしかったし、今度はキタムラさんのこともいっぱい聞きたかった。だが森ではキタムラさんと顔を合わせなかった。たまにオオノの店に顔を出しても、こないだ来ましたよと言われるばかりでキタムラさんとは会えなかった。客の誰かに聞けば、彼女の住所を教えてもらえただろう。でも、呼ばれてもいないのに家に押しかけるのはよくないとも思い、どこかでキタムラさんと会えるのをミトは待った。


 曇り空の日が多いなと思っているうちに、急に真夏日が続くようになった。

 いつの頃からか、大学の研究者が何人かのチームで町を訪れるようになった。彼らは隣町のビジネスホテルに泊まり、毎日電車でこの町に通った。オオノの店が彼らの活動拠点となり、窓際のテーブル席が臨時の研究室となった。

 髪を伸ばして髭を生やした大昔のヒッピーのような男が研究者のリーダーだった。ミトがオオノの店に行くと、男はいつも双眼鏡で窓の外の海を見ていた。そして海面に黒い影を見つけるたびに、男は勢いよく立ち上がり、テーブルを囲んでいる研究員たちとともに大慌てで店を飛び出していくのだった。

「どうやら、ザトウクジラの仲間みたいですよ」

 ミトが店に顔を出すと、オオノが訳知り顔で言った。

「本来なら夏前には北の海へ移動するらしいんですが、なぜかこの海の近くにとどまっているんじゃないかって」
「もう夏なのに」
「それが不思議だって大学の人たちも言ってました」

 ミトはアイスコーヒーを注文すると、窓際の席に座るグループを見た。髪がぼさぼさの女と、メガネをかけた男がノートパソコンの画面をのぞきこんでいた。リーダーの男は今日も双眼鏡で海面の監視を続けている。

「それで町おこしはどうするんですか?」
「会長はやる気満々です。こないだ役場に行って、町長と話をしてきたって」
「なんだか大ごとですね」
「大ごとです。それだけ必死なんです」

 オオノは白い布巾でグラスを磨いていた手を止め、冷蔵庫から大きなフレンチプレスを取り出すとグラスにコーヒーを注いだ。それからストローをさしてミトの前にグラスを置くと、窓の外を見て言った。

「何か手を打たないと町はどんどん寂れていって、税収も減る。そうなると、老朽化しているインフラを維持できなくなります。その先にあるのは、この町の放棄です」
「まさか」
「大袈裟に言ってるわけじゃないですよ。水道代や電気代が今の十倍になっても払える人は、この土地に住み続けることができるでしょう。でもそれ以外の人は、この土地を捨てざるを得なくなります。ここだけじゃありません。残念ながら、この国のあちこちでそうなっていく。美しい自然があるだけでは、人はその土地に住み続けることはできないんです」

 誰もがこの町を去ったら、キタムラさんもこの町を出て行かざるを得なくなったら、あの森はどうなるのだろう。もちろん、人がいなくても森はそこにあるし、あの泉からはこんこんと水が湧き続ける。だが、人との関わりが失われた森は、もう以前の森ではなくなってしまうのではないか。

 森と人との関わり合いなどというのは、自分の勝手な思いだとわかっている。それはこの土地に根を張らない人間の感傷だということも。それでも、あの森の泉で水を汲むという営みは、決してちっぽけな行為ではない。泉から水を汲むということは、世界を汲み上げるということだ。森から海へとつながる、生命の流れに人を結びつけるということだ。

「それで、あのクジラはどうするんですか?」
「ネイチャー、環境。クジラはいろんな価値観とつながるキラーコンテンツです。だけどそれだけをフックにするのは危険です。ある日突然クジラが現れなくなることだって十分あり得る。大事なのは、何度もお客さんにこの町に来てもらって、そしてお金を落としてもらうことです」

 どうやらみんなでクジラを追い回して金儲けをするわけではなさそうだ。ミトはアイスコーヒーをストローで吸いながら少し安堵した。

「この町には小さなキャンプ場はあっても宿がない。民宿すらないんです。それではお客さんがこの町に留まってお金を落とせない。だから、滞在できる施設を作ろうという話になっています」
「ホテルでも建てるんですか?」
「本当はセンスのいいリゾートホテルが望ましいんですけど、試算したら維持費が厳しくて無理でした。代わりに、グランピング施設を考えてます。大きな箱を建てる必要がないので、ランニングコストをグッと抑えられる。それに、ただ宿泊するだけじゃない、自然との触れ合いを通じて都会で失ったものを思い出したり、自然との関わり方についてもう一度考えるきっかけになる、そういった体験を提供したいんです」

 オオノはさっきまで拭いていたグラスを棚にしまうと、あたりをざっと眺めて厨房が整っているかどうか確かめてから、ミトを振り返った。

「それでね、もしよかったら、ハギワラさんにもお手伝いしてほしいんです」

 オオノの言葉にミトは顔を上げた。

「観光サービス全般の旗振りをする会社として、町と商工会議所とで共同経営する第三セクターを立ち上げる予定なんですが、ぼくたちは日本人だけじゃなく、外国人観光客も呼び込みたいと思ってます。だから、運営サイドに英語が堪能な人を入れたい。どうですか?」
「どうですかって言われても、観光業なんてやったことないですし……」
「もちろん経験者を外部から呼びます。でも、この町に愛着があって、地に足をつけて暮らしていける人をスタッフに入れたいんです」

 オオノはミトをじっと見つめて言った。

「率直に言って、ぼくとハギワラさんとでは考えが異なる部分があります。だけど、こないだハギワラさんに言われた”敬意”ってことについて、そういう考えを持った人がいてくれれば、町おこしのプロジェクトは道を踏み外さないんじゃないか、そう思いました。だから、ハギワラさんに参加してほしいんです」

 オオノに見つめられて、ミトはうつむいた。考えもしなかったことだし、会社のこともある。ハタノさんになんと言えばいいだろう。リモートワークの試用期間中に別の仕事を見つけてそのまま退社しますなんてことになったら、ハタノさんに迷惑がかかるんじゃないか。それだけは避けたい。

 その一方で、この町で定職につき、あの家に住み続けることができるなら理想的だとミトは思った。キタムラさんともいつでも会えるようになるし、あの森で水を汲む暮らしを続けられる。

「ありがとうございます。でも、会社のこともありますし、少し時間をもらえますか?」
「もちろんです。本格的に事業が立ち上がるのは来春ごろになると思います。事業会社の設立や、グランピング施設の用地取得も必要です。今すぐってわけじゃありませんから」
「グランピング施設はどこに作る予定なんですか?」
「それは、まだアンダーの話なので、ここだけの話なんですが」

 他の客に聞こえないよう、オオノが声を落としたので、ミトは周りを見回してからうなずいた。

 オオノはカウンターの向こうから心持ちミトに顔を近づけると、そっと言った。

「今ハギワラさんが住んでいる家の裏に森があるでしょ、あの辺はキタムラさんのところが代々地主なんです。あの家はキタムラさんのお姉さんのものだけど、裏山はキタムラさんが継いでるそうです。それで今、内々でキタムラさんに打診中です」
「打診って、何をですか」
「あの一帯を買い取って、開発しようと思っているんです」

(つづく)


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