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森とクジラ (10)

 雲が空を明るく包み、雨の日が続く季節になった。ミトは毎朝仕事の前にレインジャケットを着て森に入り、泉で水を汲んだ。キタムラさんの薄桃色のハンカチは洗ってきれいにたたみ、ダイニングテーブルの隅に置いてあった。食事をする時も、仕事をする時も、ミトはその薄桃色のハンカチを目にした。

 庭で採った野花を差すガラスの小さな花瓶が、窓から差し込む光を反射してテーブルの中央でほんのり輝いていた。クレマチスの細い茎が花瓶のなかですっと立ち上り、さわやかな緑の葉と可憐な紫の花が踊るように伸びていた。

 雨がポツポツと屋根や樹々を打つ音が聞こえていた。水はすらりと透明で、花瓶のむこう側を透かして見せていた。

 ミトは手を伸ばし、ガラスの花瓶に触れた。花瓶を持ち上げると、クレマチスの花がゆらゆらと揺れた。茎についたいくつもの気泡が小さく輝き、身だしなみを整え、装飾品を身につけた貴婦人をミトは想像した。

 突然チリリリとベルが鳴り、ミトはおどろいて立ち上がった。そっと居間へ行って窓から門をうかがうと、見覚えのある小さな姿が立っていた。

 はーいと叫んでミトは玄関に急いだ。

「ごめんください」

 引き戸を開けると門の前にキタムラさんが傘をさして立っていた。ミトの姿をみとめると、キタムラさんは微笑みながらお辞儀をした。

「ごめんなさい、突然に。あのね、久しぶりにクッキーを焼いたの。よかったらミトさんもどうかしらと思って」

 キタムラさんは手に持っていた小さな紙袋をミトに向かって差し出した。

「わあ、ありがとうございます。あの、雨も降っていますし、よかったらうちにどうですか」

 そう言ってから、ここをうちと呼んでよかったのだろうか、そう思ってハッとしたが、キタムラさんはありがとう、それじゃあと言って門をくぐったので、ミトはほっとして彼女が玄関にやってくるのを待った。

 玄関のたたきに立つと、キタムラさんはぐるりとあたりを見上げた。

「あの、散らかってますけど、どうぞ」

 居間には座布団を置いていなかったので、ミトはダイニングルームにキタムラさんを案内した。

「コーヒーと紅茶、どちらがいいですか?」

 いそいそとノートパソコンを片付け、ミトはキタムラさんにイスをすすめた。

「いいのよ、そんな。どうぞお構いなく」
「せっかくだから一緒にクッキーを召し上がりませんか? あ、緑茶の方がいいかな?」
「ありがとう。では、ミトさんと同じものでお願いします」

 イスに座ったキタムラさんはそう言ってお辞儀をした。

 お湯が沸くのを待つ間、ミトはキタムラさんに何か話しかけようと思ったが、居間を眺めているキタムラさんの横顔を見ているうちに黙っていることにした。

 居間の畳が窓の外の白い光に照らされてぼんやり輝いていた。キタムラさんのシルエット越しに家のなかを眺めていると、この家に暮らしていた人たちの見えない気配があちこちに残っている気がして、そういった過去の思い出に囲まれてわたしは暮らしていたのだとミトは思った。

「ミルクはいりますか?」
「なしでお願いします。ありがとう」

 紙袋から取り出すと、キツネ色をしたクッキーはどれも微妙に形がちがっていて、盛り付けられた皿は子どもたちが遊ぶ公園のように見えた。

 ティーカップと取り皿を目の前に置くと、キタムラさんはふと目を閉じた。

「いい香り。これはどちらのお紅茶?」
「スリランカです。友達からもらったんです」

 ミトはユミの顔を思い出した。この家に遊びに来ると言っていたけれど、お互い連絡のないまま二ヶ月が経っていた。ここに越してきてからSNSをあまり見なくなったので、ユミがどこでどうしているかわからなかった。わたしもあんな風に自由に生きていけたら、そう思ったことも何度かあったが、いまは自分のことがよくわかる。わたしは一つの場所に根を下ろし、そこでの生活から生まれてくる何かを見つめる方が性に合っている。

 ミトとキタムラさんは斜向かいに座り、皿の上のクッキーをつまんだ。まだ中心の部分がほんのりとあたたかいクッキーは、口のなかで砕けるとかすかに甘いバターの香りを残して溶けていった。

「美味しい」
「本当? お口に合ってよかった」
「何か作るコツでもあるんですか?」
「特別なことは何も。強いて言えば、愛情かしらね」
「まあ」

 愛情、という言葉を誰かから聞くのは久しぶりだった。

「誰かのためにならクッキーだって焼けるけど、自分のためには無理ね。今日は久しぶりに焼いたの」
「うれしい」
「こちらこそ、そんないい顔をして食べてくれるなんて、焼いてきてよかった」

 外の雨音がすこし静かになった。ミトとキタムラさんは黙って紅茶を飲んだ。森のどこかで鳥が歌うように鳴いた。

「あなたがここに住んでくれて、本当によかった」

 ティーカップから口を離してキタムラさんが言った。

「元々はキタムラさんのご実家ですよね。どうしてここに住まなかったんですか?」
「姉が嫌がると思ってね」
「お姉さんが?」
「両親が亡くなる前、この家は私が引き継ぐ予定だったの。でも姉夫婦がこの家を気に入っていて、だからって家を二つに分けられないでしょう? それで私はこの家を出ることにしたの」
「でも、キタムラさんが相続する予定だったんですよね?」
「姉と争うのが嫌だったから。姉だけじゃなく、誰とも争いたくないわ」

 キタムラさんはしみじみと言った。

「誰かと争っているとき、自分の心が乗っ取られたみたいに感じるのが嫌なの。他人への憎しみや怒り、対抗心。そういった感情に包まれると、視野の狭い、他人を踏みにじることをなんとも思わない一人の女が出てくる気がして。そうして争いに勝っても負けても、その女が撒き散らした毒は長く心に残って、私を苦しめるの。それが嫌」
「ちょっとのことで争いって起きますよね。些細な争いから、大きな恐ろしい争いまで。人間は争いが好きなんじゃないかって思うくらい」
「だとしたら、私たちはあまり高等な生き物ではないわね」
「本当」
「私ね、戦争と人種差別がなくならないかぎり、人は立派な生き物だとはいえないと思っているの」

 キタムラさんはクッキーを一つ手に取ると、取り皿の上で二つに割り、小さな方のかけらを口に入れた。キタムラさんはゆっくりと口を動かし、それから紅茶を一口飲んだ。

「身内との諍いが一番嫌。お金や土地がからむと、みんな人がちがってしまったようになる。とても悲しい気持ちになるわ」

 そう言ってから、キタムラさんは縁側のむこうに広がっている庭をじっと見つめた。ミトはなんと答えていいかわからず、キタムラさんの小さなシルエットを見た。キタムラさんの着ている小豆色のカーディガンが、ゆっくりと膨らんではまた萎んだ。

「わたし、この家が好きです」

 ティーカップを両手で包んでミトは言った。

「とても落ち着くし、ここにいると、地に足をつけて毎日暮らせる気がします」
「自分がいる場所とつながっている感覚は大切よね。それがないと、毎日はとてもさみしいものになってしまう」
「普段はこの家で仕事をしているんですけど、こないだ、以前働いていたオフィスへ行ったんです。街も、人のスピードも、こことはまるでちがっていて、わたしは本当にこんな場所で暮らしていたんだろうかって思いました。秋にはあそこへ戻らないといけない、でも自分があの街でもう一度やっていけるのか、不安です」
「そう」
「わたし、帰りたくない。ここにいたいです」
「大丈夫。あなたがよければ、ずっとここにいて構わないから」

 キタムラさんはミトを見つめて、ゆっくりうなずいた。

「姉はもうこの家に戻ることはないでしょう。私もここに住むことはないから、あなたが住んでくれれば助かるわ」
「でも、オフィスに戻らないといけないんです。自宅で仕事をするのは半年間の約束だから」
「そうなのね」
「いろいろ調べたんです。でも、この町には安い給料の仕事しかなくて、それだけでは暮らしていけそうにない。だから元いた場所に戻るしかないかなって」

 キタムラさんはそっとミトの手をとると、やさしく包んでからミトを見つめた。

「あなたがいなくなるとさみしくなるわね。ようやくあの泉を見つけてくれた人なんだもの」
「わたしはただの偶然で」
「誰もあの泉のことを知らないの。不思議でしょう? 毎日水を汲んでいて、あそこで人に会ったのはいつ以来かしら。とてもうれしかった」

 ミトはキタムラさんと指先を触れ合わせた。キタムラさんの指は大理石のようにすべすべしていたが、その奥からほんのりとしたぬくもりが伝わってきた。

「そうだ、今度海へ行きませんか?」
「海へ?」
「ええ。クジラを見に行きましょう」
「まあ」

 キタムラさんは子どものようにおどろき、それから微笑んだ。

「それはいい考えね。お弁当でも持っていきましょうか」
「わたしがつくります」
「でも」
「いいんです。大したものはつくれないですけど、わたしにつくらせてください」
「じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
「うまくクジラが姿を見せてくれるといいんですけど」
「それはクジラ任せね」

 二人は相談して、土曜日の昼に海岸で待ち合わせることにした。

「雨が上がるといいですね」

 ミトは庭を見た。梅雨入りして最初のうちは雨のない日が多かったが、ここ数日はしとしとと雨が降り続いていた。

「それでは今度の土曜日に」
「クッキーごちそうさまでした」
「いえいえこちらこそ、ハンカチを洗ってくれてありがとう」

 キタムラさんが帰ると、家のなかが広く感じられた。ミトは居間の畳の上にごろんと転がって、窓の外を見た。庭の片隅に水色の紫陽花が咲いていて、雨の雫が葉を打つと、鮮やかな緑色が小さく揺れた。

 ミトは手を伸ばし、畳の上のスマートフォンを取り上げた。ロックを解除して天気予報のアプリを開こうとしてから、ミトは思い直してスマートフォンを再び畳の上に置いた。

(つづく)


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