「贅沢なもの」の話をしようと思う。
とはいえ、ここでいう「贅沢なもの」は私たちが一般に想像するものとは少し違うので、まずこれの説明から始めよう。
この記事における「贅沢」とは、浪費的な性格を持ち、なんらの生産性も持たないことを意味する。
ざっくり言うと「すぐに消えてしまって、後には何も残らない、砂絵のようなもの」のことである。
例えば、メイク/化粧は贅沢であるといえよう。
メイクには、時間も手間もお金もかかるが、その日のうちに落とさなければならない。
もちろん、メイクを落とした後には、「メイクの痕跡」なんてものは何も残らない(というか、残ってちゃダメなヤツだよね?)。
メイクそのものが我々にもたらしてくれる(はずの)もの。
それはひとえに「キラキラとした贅沢の実感」だけなのである。
また、生殖を目的としないセックスも贅沢だといえる。
言わずもがな、こうしたセックスの目的は「快楽」や「コミュニケーション」であろう。
そこには何らの生産性もない。後に残るものは余韻だけだ。
更にいえば、戦争も贅沢として捉えることができる。
戦争──組織化された殺し合いそれ自体は、何も生まない。
「戦争によって科学技術が発展する」だとか「武器商人が儲かる」だとかいったことは、あくまでも戦争の副産物だ。
戦争という行為そのものは、人的・物的資源の浪費であり、文化や思想や尊厳を火にくべることでもある。
ゆえに、戦争も贅沢の一種なのだ。少なくとも原初においては。
さて、ここまで様々な「贅沢なもの」を列挙してきた。
贅沢の浪費的要素は、案外幅広いジャンルで見え隠れする。
そしてそれは本来、生産性──理性、労働、合理性、生存の必要性、貨殖──とは対極にあった。
しかしながら、現代において、贅沢はこうした「理性的要素」と結び付けられているのである。
美容「業界」の存在とメイクの「ルーティン」化しかり。性にまつわる「産業」しかり。近代戦争の背景にある「二者択一」然り。
それが良いことか悪いことかは分からないが、興味深い現象だと思う。
これは理性の勝利なのだろうか。
それとも、人間がほんの些細な贅沢をし、享楽に耽るための余地までも、組織化して理性の命じる「極限」まで至らしめてしまう、敗北なのだろうか。
何ともいえないね。