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贅沢⇔生産性

「贅沢なもの」の話をしようと思う。

とはいえ、ここでいう「贅沢なもの」は私たちが一般に想像するものとは少し違うので、まずこれの説明から始めよう。

この記事における「贅沢」とは、浪費的な性格を持ち、なんらの生産性も持たないことを意味する。
ざっくり言うと「すぐに消えてしまって、後には何も残らない、砂絵のようなもの」のことである。

もちろん、生産性がない=悪というわけではない。生産性と成長がもてはやされる社会では中々理解されにくい価値観かもしれないが……
贅沢なもの=何の価値もないなんてことを言いたいわけじゃないんだぜ。

余談

例えば、メイク/化粧は贅沢であるといえよう。

メイクには、時間も手間もお金もかかるが、その日のうちに落とさなければならない。
もちろん、メイクを落とした後には、「メイクの痕跡」なんてものは何も残らない(というか、残ってちゃダメなヤツだよね?)。

メイクそのものが我々にもたらしてくれる(はずの)もの。
それはひとえに「キラキラとした贅沢の実感」だけなのである。

とはいえ、現実に「女性はメイクをするのがマナーだ」みたいな社会的風潮・同調圧力が存在しており、多くの女性が毎日メイクをしているのも事実である。
何なら最近は「男性もメイクをした方が良い」みたいな感じで、男性にまで「メイク圧力」が降りてきている気がする。どひゃー。

個人的に、これは「贅沢の規則化・習慣化」とでも呼ぶべきもので、ナンセンスというか、不思議な風潮だと思っている。
毎日「贅沢」をするよう周囲から要請されるのであれば、それはもはや本来の贅沢ではない。「メイクめんどくさい」という声が出ているのがその証拠だ。
贅沢が「毎日の」「ルーティン」になる。これって、めちゃくちゃ珍妙な現象だと思わないか? 興味深いね。

多分、こうした現象の背景には消費者資本主義なんかがあるのだろうけど……バカ長くなりそうなので、その話はまた今度にする。

余談

また、生殖を目的としないセックスも贅沢だといえる。

言わずもがな、こうしたセックスの目的は「快楽」や「コミュニケーション」であろう。
そこには何らの生産性もない。後に残るものは余韻だけだ。

確かに、人間の性欲の根源は「子孫を残したい」という動物的「本能」にあるのかもしれない。

しかしながら、人間の性行動は、往々にして「本能」から外れた方向に向かうのである。
考えてもみてほしい──キスやオーラルセックスをしているときに、子孫繁栄について考えている人間が、一体どれだけいるというのだろう?

そう考えると、人間の性行動をとかく「本能」や「生産性」に結びつけたがるのは、やや短絡的であるといえよう。

この話も突き詰めていくとクソ長くなるので、またいつか。

余談

更にいえば、戦争も贅沢として捉えることができる。

戦争──組織化された殺し合いそれ自体は、何も生まない。
「戦争によって科学技術が発展する」だとか「武器商人が儲かる」だとかいったことは、あくまでも戦争の副産物だ。

戦争という行為そのものは、人的・物的資源の浪費であり、文化や思想や尊厳を火にくべることでもある。

ゆえに、戦争も贅沢の一種なのだ。少なくとも原初においては。

中世の封建制度のもとで行われた戦争には、とりわけ「贅沢としての戦争」の性格が色濃く出ているといえるだろう。
いわゆる騎士道のような、戦争における儀礼・ルール・マナーは、戦火が何もかもを焼き尽くしてしまわないよう制限する役割を持っていたのかもしれない。

このように、かつての戦争は「制限された浪費」の様相を呈していた。
これが変わっていくのは、ナショナリズムが発明され、「国民≒民族≒唯一の共同体≒家族として、優れているか/劣っているか」という究極の二者択一を迫られる、近代以降の話である。

「自分が帰属する絶対のもの(=国家、民族)の優劣」が懸かっている状況では、儀礼もマナーもへったくれもない。
「敗北=劣っている=絶対悪」という精神的背景があっては、死にものぐるいで勝つしかないのだ。

現代において戦争が悪とされるのは、「火にくべる」働きを制限するものがなくなってしまったからというのがある気もするが、この記事は戦争の是非を云々する趣旨のものではないため、この辺りにしておこう。
なお、万が一にも誤解がないように言っておくが、私は決して戦争を肯定しているわけではない

余談

さて、ここまで様々な「贅沢なもの」を列挙してきた。

贅沢の浪費的要素は、案外幅広いジャンルで見え隠れする。
そしてそれは本来、生産性──理性、労働、合理性、生存の必要性、貨殖──とは対極にあった。

しかしながら、現代において、贅沢はこうした「理性的要素」と結び付けられているのである。
美容「業界」の存在とメイクの「ルーティン」化しかり。性にまつわる「産業」しかり。近代戦争の背景にある「二者択一」然り。

それが良いことか悪いことかは分からないが、興味深い現象だと思う。

これは理性の勝利なのだろうか。
それとも、人間がほんの些細な贅沢をし、享楽に耽るための余地までも、組織化して理性の命じる「極限」まで至らしめてしまう、敗北なのだろうか。

何ともいえないね。

この記事を面白いと思った人は、バタイユ『エロティシズム』とかクラウゼヴィッツ『戦争論』とか近代ロシア文学とか好きなんじゃないかな。たぶん。

余談

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