結婚の「聖化」
ずっと不思議に思っていることがある。
なぜ人類は、婚姻関係──基本形としては「男女間の」「一対一の」「性愛」関係──を神聖視しているのだろう?
最近になって「同性婚も認めるべきだ」という潮流が出てきたとはいえ、現在でも
……などと言っている人はあまり見かけない。
いや、正確にいえば「見かけなくなった」のか?
実際、かつてのセクシュアル・マイノリティたちは「同性婚を認めろ」というよりも「そもそも結婚という制度自体を見直せ」と主張していたらしいしね。
(確か、1980年代くらいまでだっけ? あんま正確に覚えてないや)
…おっと。ここまでのんべんだらりと話してきてしまったが、多分、読者の方々を置き去りにしていたね。
ここらで一つ、現行の婚姻制度について見てみようかと思う。
婚姻制度とは、どういうものか?
さて、現在の婚姻制度は基本的に
男女間の
いわゆる異性愛規範(Heteronormativity)や異性愛中心主義(Heterosexism)→同性愛などの排除
最近は、これを是正しようという動きが目立つ
一対一の
一対一の恋愛(モノアモリー)や結婚(モノガミー)→ポリアモリー/ポリガミー(乱交とは異なる複数人での誠実な恋愛/結婚関係)の排除
性愛
性交を前提とした関係(セックスレスが離婚事由となるのもこのため)→アセクシュアル/性愛以外の絆・結びつきの排除
……を前提にしている。
先述した通り、現在「1. 男女間の」の部分を変えようというのが、欧米に発するムーブメントとなっているわけだが……「2. 一対一の」「3. 性愛」の部分を疑問視する声は、少なくとも私の観測範囲では見られない。
…なんでだろうね?
「性指向に関わらず、婚姻の権利が認められるのは良いことだ」という気持ちもある一方、私はクソ捻くれ者なので、こんな風にも感じてしまうのだ。
「同性愛者たちはきっと、純粋に権利を勝ち取ったわけではない」
「それどころかむしろ、他の少数派(ポリアモリー、アセクシュアル、性愛を前提としない絆…)を取り残して、自分たちが対抗してきた当の多数派に取り込まれつつあるのではないか?」
婚姻制度への疑問視
思うに、同性婚の法制化には二つの側面がある。
一つは純粋に「同性愛者の権利の擁護」、もう一つは「同性愛者を既存の異性愛規範の中に取り込むための懐柔策」だ。
悪いようにとりすぎかな?
しかし、たとえ同性婚が認められたとしても、この世の中に存在する
……みたいな根本的価値観は変わらないわけだよ。
それって結局、何も変わらなくないか?
ただ、こうした固定観念の担い手に、同性愛者たちが加わるだけじゃないか?
問題視すべきはむしろ、この社会に蔓延っている異性愛規範の方じゃないのか? そいつがマイノリティの生きづらさを生んでいるそもそもの「元凶」なんだから。
……とまあ、こんな風に思わなくもない。
だってさ、別にいいじゃんか。
互いを独占しようと思わないパートナーシップがあっても。
互いに合意の上なら、外部に別の恋人・パートナーを作ってもいいじゃん。
一対一じゃなくても。一対一がいいならそうすればいいけどね。
一夫多妻でも、一妻多夫でも、多夫多妻でも、夫だけでも、妻だけでも、合意の上なら好きにすればいいじゃん。
セックスしなくてもよくない? もちろん、したい人はすればいいよ。
けど、性愛以外の強い絆の結びつきも、この世には存在すると思うんだけどな。
「セックスすること」が婚姻関係の前提にあるのは、おそらく「婚姻関係=子どもを生み育てるためのもの」という図式があるからだと思うんだけど、それなら別に「カップル」を基本ユニットにする必要もないよな。
嫡出子とか婚外子とか関係なく、普通に「親子」を基本ユニットにして税制優遇・子育て支援すればいいんじゃないの?
ってか、そうやって考えていくと、婚姻関係を国家が公的制度として保証する必要さえなくない? 「国家によって」保証する意味はあるの?
別に、国家に承認されるとかされないとか関係なく「結婚しました!」って言いたい人が言えばいいじゃん。
まあ、こういう考えはマイノリティなのだろう。
現代社会の多数派の感覚とは、相当乖離した意見だろうしなぁ。
現代の「一般的で良識的な人々」は、同性婚に賛成するにせよ反対するにせよ、婚姻制度そのものを疑問視することがあまりない。多分。
しかも、不思議なことに「結婚」という制度は、形は様々あれど古今東西に存在している。
その背景には、おそらく「結婚」というものにまつわる人類普遍の神聖視があるのだと思う。
私たちは何を神聖視しているのだろう?
「結婚」の何が特別なのだろう?
その答えは、私には分からない。
まあ、知っている人がいたら教えてくれ。
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