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国家的「区分」とアイデンティティ


国家的「区分」

個人的に、多様性と近代国家の制度は相性が悪いと思っている。

近代国家の公的制度は、AとBの厳密な区分を必要とするからだ。
例えば、年収「195万円」と「195万1円」でガラリと所得税の税率が変わってしまうように。

公的制度は、根本的に多様性(=スペクトラム、グラデーション)とは相容れないのである。
先の所得税の例にしたって、税率が変わるような境界線をたくさん引いたとしても、どこかで機械的な区分がなされるということに変わりはない。

そもそも、人によって家族構成も生活スタイルも健康状態もライフステージも様々であり、収入の多寡がそのまま生活の余裕に直結するわけでもない。
だというのに、税率は収入という要素のみで機械的に決まるのだから、相当に没人格的なシステムであるといえるだろう。

(まあ、その辺をカバーするための制度もたくさんあるとは思うけどね)
(これは制度の適用の話ではなく、制度というものの原理の話だと思ってくれ)

そして、こういう没人格的な国家システムの背景には、区分と理性と言葉があるのではないかと思う。

こちらとあちらで、なんとなく違う。
理性が「こちらとあちらで何かが違う」ということを認識する。
認識したら、その違いについて考え始める。その違いについて、自身が納得できる説明をしようと試みる。
やがて「こちら」と「あちら」に名前がつく。両者の違いは言語化され、境界線はより明瞭に引かれるようになる。

近代国家はこうした理性(例:労働、産業、貨殖、識字文化、科学…)の産物として生まれ、その巨大さでもって「理性」の庇護者となる。

そして、つけられた名前、行われる科学的説明、引かれた境界線は、国家の推進する「論理的・科学的な」教育によって再生産され、更に強化される……

こうして理性の世界の住民に仕立て上げられた私たちは、もはや境界線が引かれていなかった頃の曖昧さに立ち戻ることができない

曖昧なものには名前も説明もない。曖昧さは言葉を持たないのだ。
なぜなら、「言葉が意味を持つ」ということはそれ自体、「こちら」と「あちら」の間に境界線を引いて囲い込むことで初めて成立しているからだ。

しかし、名前と説明なくして、私たちはいかに自分を他者へと開示できよう?
いかにして「自分はこういう存在だ」というアイデンティティを確立できようか?

結局のところ、近代国家に生まれ育って近代的な教育を受けた時点で──いや、ひょっとすると、論理的思考を持ち、規則的言語を操る「人間」として生を受けた時点で──私たちは宿命的に、「多様性」をありのままの形で理解して生活に溶け込ませることができないのかもしれない。

自然の滑らかなグラデーションは、言語や学知や制度によって切り分けられた上で受け取られ、実生活に反映される。
そうでなければ、私たちはどうやって「それ」が「それ」であることを認識し、理解し、周囲の人々と共有できるのだろう?

私たちは虹を見て、各々恣意的に境界線を引き、色に名前をつけて、やれ虹は7色だの6色だの、2色だの言ったりする。
ここでいう「数」も「色」も、区分するから出てくる概念だ。

私たちの理性と現代社会のあり方は、多様なもののあり方それ自体と、絶対的に相性が悪い。悪すぎる。

それを踏まえた上で、アイデンティティについても軽く考えてみよう。

アイデンティティ

「自分」というものについて、私たちはとかく先天的に考えがちだ。
つまり、自分という存在に、予め様々な属性が備わっていると思ってしまうのである。

年齢や性別や人種や国籍などについて想起するとき、私たちは「自分は最初から〇〇だった」と感じている。

「自分はミレニアル世代だ」
「自分は男性だ」
「自分は同性愛者だ」
「自分は『陽キャ』だ」

こんなことを考えているとき、自分のそうした性質が後天的に獲得されたものだと考える人はあまりいない。
自分に属するもの、自分のアイデンティティを構成するものは、最初からそこにあったのだと思っているのである。

しかし、これはおそらく半分間違っている。
なぜなら、こうした「属性」は外部から名づけられて初めて明確に意識されるからだ。

もちろん、ある人には生まれついて「男性」とか「同性愛者」とか「陽キャ」とかに近しい性質が備わっていたのかもしれない。

だが、「自分はこういうものなのか」というアイデンティティを獲得することになるのは、外部で名前と説明が共有されたときなのである。

外部で「男性とはこういうものだ」「同性愛者とはこういうものだ」「陽キャとはこういうものだ」という定義が共有されたとき、初めて人は、自分がどういう人間なのかにまつわる意識を固められる。

そして、それまではきっと、はっきりと言語化することができないモヤモヤとした形でしか自分のアイデンティティを認識できないことだろう。
「異性は別に嫌いじゃないけど、なんかこう、ガッと心揺さぶられないというか何というか……う〜ん……同性に対しての方が、ほら、熱いもの?を覚えるというか……いや、わからんけど、生まれてこの方ずっとこんな調子なんだよね」みたいに。

結局のところ、アイデンティティが明瞭にアイデンティティの形をとれるのは、ある性質が他の性質と切り分けられ、名づけられたときだけである。

人間は多様だ。人間の精神は、実に鮮やかなグラデーションをなしている。
しかし私たちは、自分のグラデーションですら、常に十分な言語化ができるわけではない。

言葉によって分割されたAとBの間に、あるいは、まだ分割されていないCのスペクトラムの端にこそ、本当に語りたいものがあるかもしれないのだ。

しかし、重ねて言うが、人間の理性も言語も国家システムも、あまりに多様性と相性が悪いから……仕方なく、私たちは彼我の垣根を打ち立てて、互いを囲い込んだ中に安住している

それは、協働して秩序を維持しなければならない社会的動物の限界なのだろう。

それでも、名前を持たず、言葉を持たず、語ることを許されない「何か」について、私は思いを馳せずにはいられないのだ。

なんとなく参考にしたもの(なんとなくだよ!)

文献

  • アーネスト・ゲルナー著/加藤節訳『民族とナショナリズム』(岩波書店、2000年)

  • 佐久間寛編『負債と信用の人類学―人間経済の現在』(以文社、2023年)

  • マックス・ウェーバー著/濱島朗訳『社会主義』(講談社学術文庫、1980年)

  • ミシェル・フーコー著/小林康夫他訳『フーコー・コレクション1 狂気・理性』(筑摩書房、2006年)

その他

  • 構築主義

  • 「功利主義って、たとえ採用しないにしても、正義に適わない制度(奴隷制度とか)を一度は効用計算に含めている時点でアレなんだよなぁ」的な批判

  • ジョージ・オーウェルの『1984年』に出てくるニュースピーク

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